Tokaido 東海道 26 (24/11/19) Toyokawa / Fujikawa Shuku 豊川/藤川宿

豊川
  • 豊川稲荷
  • 世界心道教本部
  • 三河国分寺跡
  • 三河国分尼寺跡
旧東海道

Motojuku 本宿 (もとじゅく)

  • 長沢一里塚
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(37) Fujikawa Shuku 藤川宿 

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  • 常夜燈
  • 市場町格子造りの屋並
  • 問屋場跡
  • 高札場
  • 本陣跡
  • 脇本陣跡
  • 西棒鼻
  • 十王堂
  • 藤川宿の一里塚
  • 松並木
  • 西太平藩陣屋跡
  • 大岡稲荷社
  • 太平一里塚
  • 常夜燈

昨日は御油宿と赤坂宿を見て豊川に宿を取った。東海道から脇道に逸れてしまうのだが、豊川稲荷を訪問するためだ。


豊川稲荷

豊川稲荷とあるのでてっきり神社と思い見学。少し雰囲気が神社とは異なる。鳥居は至る所にあり、稲荷神社の神様の狐は数え切れないほどある。東京赤阪の豊川稲荷も行った事はあるのだが、どの様だったか覚えていない。今度、東京に行った時にもう一度訪れて見てみたい。

しかし神社の拝殿はない。神主もいない。ここは仏教寺院だ。正式には円福山 豊川閣 妙厳寺という。日本三大稲荷の1つ。本堂では読経の声が聞こえる。これも神仏習合の産物なのだろう。売店の婆さんと話すと、昔、寺が稲荷神社に土地を貸したそうだ。そのうち稲荷の方が有名になってしまい、結局寺が稲荷の面倒を見る事になったという。本山の永平寺もこの経緯から稲荷の面倒を見ている。境内はかなり広く、古くから残る建物が多くある。

一つ一つをゆっくりと見学する。


まずは惣門から入る。入るとすぐに山門がある。まさに寺そのもの。総門は入母屋造、唐破風付きの四脚門で1884年 (明治17年) に建立。山門 は入母屋造楼門で天文5年 (1536年) に今川義元により寄進されたもの。

右手に立派な鐘楼堂と鎮守堂
左には手を清める瀬水堂と宝物を納めている寺宝館

寺宝館の隣には豊楽殿とみこし殿。前には金の灯籠が立ち、中にはみこしが保管されていた。この神輿に入る神様とは誰なのだろう?神道の神様も祀っているのだろうか?

本堂への道の右には広い広場があり、相当大きな祈祷受付所と最祥殿がある。最祥殿は書院とも呼ばれ、信者の接待用の建物。1929年 (昭和4年) に建立された。

そして本堂。お寺そのものだが、狛犬ではなく、やはり狐が守っている。吒枳尼天を祀る入母屋造重層屋根、妻入の大規模な堂宇で1908年 (明治41年) に着工し20年以上をかけて1930年 (昭和5年)に竣工した。

更に寺院の奥にはまだまだお堂が多くある。奥の院だ。奥の院と言っても同じ境内にある。通常は遠く離れた山の中にあり、いつも奥の院も見るかどうか悩むのだが、ここはすぐ側にある。

宝雲殿、弘法堂、禅堂、大黒殿が奥の院までの道にある。大黒様は仏教関係なのか神道関係なのかいつも混乱する。
奥の院
この奥には狐塚なるものがある。豊川稲荷の目玉。

様々な表情の狐様。ここには狐像は1000体以上あるという。

奥の院の隣には納骨堂
ここから境内中心に戻る。景雲門を通り三重の塔で境内に。至る所に狐だらけ。
境内には庭園もある。
ここを見始めたのは朝の8時で人も殆どいなかったのだが、見終わると10時過ぎ。人も多くなって店も開いている。門前町の名残が強く残っている。参道には多くの土産物店や飲食店が営業している。ここの名物なのか、やはりいなり寿司、それとちくわ。
豊川稲荷をあとにして先に進む。


世界心道教本部

信者以外は中に入れない。入り口には信者を誘導しているのか、外部者を監視しているのか多くの係員がいた。他の信仰宗教団体の本部には問題無く入れていたので、あまり印象は良くなかった。結構、閉鎖的な団体なのかも知れない。今晩でも調べてみよう。天理教信者がここを総本山として、1944年に開いた宗教団体。信徒の数は10万人強とみられ、愛知県内に集中している。

姫街道を通って国分寺跡を目指す。


三河国分寺跡

国分寺跡は平城京以外はどこも野原だけで何があったのかの表示板のみ。ただ案内板はしっかりと丁寧に説明している。天平13年 (741年) の聖武天皇による国分寺建立の詔の頃に創建されたと見られる。

梵鐘

平安時代の作とされる銅鐘が国の重要文化財として残っている。

南大門と西回廊跡
塔の跡だが、何重の塔かは書かれていなかった。それが分かる文献がないのだろう。
築地塀と講堂跡
現在発掘作業中で、公開までは後3年はかかるだろうと次に行く国分尼寺のボランティアガイドさんが言っていた。

小さな寺が国分寺跡の隅に建っている。これも国分寺だが新しい建物だ。この寺は三河国分僧寺の後継寺院にあたり、下の国分寺が荒廃し、永正年間 (1504-1521年) に、機外和尚により現在の国府荘山国分寺が再興されたという。瀬水所の屋根に天女が飾られている。天女は初めてだ。珍しい。


三河国分尼寺跡

ここに来るつもりは無かった。国分尼寺跡はいつもあまり整備されていない。国分寺跡の整備がメインで尼寺跡はその後か未整備が多いからだ。ただ、200mの距離という事で近いのでついでに行くことにした。来てみてビックリ。綺麗に整備されており、なおかつ中門と回廊が一部、復元されている。予想が外れたが、嬉しい誤算。創建は国分寺と同時期。

寺院の礎石跡が整備されて、当時のじいの規模がよくわかる。

中門 この門だけでも復元されているのは嬉しい。これがあるかないかで、史跡への思いが随分と違うだろう。これがあることで少しはイメージが湧く。

西回廊と東回廊跡
南大門跡
金堂跡
講堂跡、鐘楼跡 (左下)、経蔵跡 (右下)
掘立柱塀跡、尼坊跡 (右上)、北方建物跡 (右下)

これで豊川の史跡巡りは終了。見学に時間をかけ過ぎた。もう12時を過ぎている。姫街道を通って、急いで旧東海道に戻る。東海道のこの先には、御油宿と赤坂宿があるのだが、この二つの宿場跡は昨日のうちに見学をしたので、素通りをして、次の宿場の藤川宿に向かう。赤阪宿と藤川宿の間に本宿という間の宿がある。


Motojuku 本宿 (もとじゅく)

本宿は赤坂宿と藤川宿の間にある「間の宿」。赤坂宿と藤川宿は距離では2里9町 (8.8km) で極端に長い距離ではない。間の宿が置かれた理由はいろいろある。宿間があまりにも長い場合、山越えや川越えを控えている場合、宿の宿泊所が足りずに近くの村に宿を設置していたケース、人気があり旅人が頻繁に休息や宿泊を取った場合など様々だが、ここが間の宿になった理由は赤坂宿と藤川宿の間には、急勾配の峠があり、その中間点にこの間の宿が整備されたあったが、自転車で走ったがそれほど苦にはならなかった。自動車道路の整備の際にここでいう様な急勾配は削られなだらかな坂に整備されているので、そうだったのかもしれない。

いつも通り一里塚と常夜燈がある。街並みも街道っぽくなってきた。


長沢一里塚

日本橋から数えて77番目の一里塚。木の標識のみが建っており、一里塚の面影はない。ただ、標識があるだけでも、東海道を旅しているという雰囲気が出る。昔の旅人は、この一里塚を目指し、歩き、ここでも休憩をしていたのだろう。


常夜燈

先に進むと、宿場町特有の切妻屋根のたたものが目立って来た。街道にはつきものの常夜灯に出会す。これも一里塚と同様に、街道旅行の楽しみの一つ。


是西本宿

しばらく走ると、ここから本宿と書かれた案内板があった。かつてはこの様なものがあったのか、宿場町の入り口の門がモニュメントとして建てられている。

本宿の史跡案内がある。これに従って見学しよう。


法蔵寺

大宝元年 (701年) 行基によって法相宗の二村山出生寺として創建。その後、徳川家の始祖である松平親氏が伽藍を建立して、松平家の菩提寺とした。境内はかなり広く、多くの建造物が残っている。山門 (写真右上)、六角堂 (写真右中)、本堂 (写真左中)、大師堂 (写真左下)

鐘楼門 (写真右下)

徳川家康 (竹千代) が、幼少の頃、住持の教翁上人に就いて、この寺で読書きを習ったといわれている。寺院の入り口に御草子掛松がある。家康が植えたと言われ、このまつに手習のおり草髪をかけたと伝わる。松の横にはこの地区の名物であった法厳寺団子のモニュメントがある。ここに茶屋があったそうで、団子の形をしたベンチが作られている。ここに茶屋があったことから先ほどの御草子掛松は御茶屋の松とも言われている。

境内の奥に東照宮がある。

この寺は松平家菩提寺ということで松平家霊廟があり、徳川家康の父の松平広忠、異母兄の松平忠政、長女の亀姫、異母妹の市場姫の墓がある。近くには武田信玄との三方ヶ原の戦いでの戦死した18名の墓もある。この戦いで家康の身代わりとなって戦死した夏目吉信の名前がある。更に、近藤勇の首塚と伝わっているものもある。三条大橋に晒された首を斎藤一が奪取し、三条大橋側の誓願寺にいた孫空義天に供養を依頼し、義天の異動に伴って当寺に埋葬されたと伝わっている。


本宿古城

城主の松平権兵衛重弘が岡崎城の松平広忠 (家康の父) の家臣の松平権兵衛重弘の居城であったが、広忠に背き、天文16年 (1547) に広忠の攻撃を受け落城した。現在は道路工事でその面影はない。先ほどの法蔵寺や本宿古城があったことで、この村は賑やかであったのだろう。


旧代官所屋敷

柴田勝家の子孫の旗本柴田氏知行所の代官冨田家の屋敷であった。造り直したのだろうが、昔風の建物が幾つもあり、綺麗に整備されている。現在も冨田家が力を持っている様に見える。代官屋敷はレストランになっており、奥には大きな冨田病院もある。この本宿ではこの冨田は名士なのだろう。


常夜灯

本宿内にも常夜灯が残っている。


十王堂

東海道でいくつか十王堂を見かける。十王堂とは仏教が中国に渡り、道教と習合してできた信仰で、閻魔大王を筆頭とする冥土で死者の罪を裁く十人の裁判官である仏を示している。(秦広王 しんこうおう 初江王 しょこうおう 宋帝王 そうていおう 五官王 ごかんおう 閻魔王 えんまおう 変成王 へんじょうおう 泰山王 たいざんおう 平等王 びょうどうおう 都市王 としおう 五道転輪王 ごどうてんりんおう) 日本では、平安末期に仏教由来の末法思想や冥界思想と共に広く浸透。ここには十王の仏像が見れる。他の十王道ではここまでは見れなかったので、やっと十王堂のイメージができた。


本宿駅

駅前に旧本宿駅舎のミニチュアモニュメントが置かれている。旧本宿は、本宿と名古屋間の開通の大正15年に開業した。その当時は木造平屋建て、切妻屋根の建物であったが、昭和9年に蒲郡ホテルの外観に似せて八角形の棟屋を持つ駅舎に改築された。当時としてはユニークな駅舎だった。その後、改築されたのだが、当時を偲び、このミニチュアが作られている。


本宿一里塚

日本橋から数えて78番目の一里塚


宇都宮龍碩邸跡

本宿村に住んでいた医家宇都野氏屋敷の長屋門が残っている。七代龍碩はシーボルト門人青木周弼に、医学を学んだ蘭方医として知られている。そういえば、先に立ち寄った法蔵寺にもシーボルトが訪れたとなっていた。


是東本宿

本宿の西の端の案内板。京からの旅人はここから本宿に入る。


是西藤川宿

本宿を後にして、しばらくすると高札あとの様な場所に是より藤川宿へとの表示があった。地図を見るとまだまだ藤川宿は先の様な気がする。

ここを過ぎると旧東海道は国道1号線に合流。大体の場合、宿場跡が国道1号線上にあるのは大都市の場合で、地方の宿場跡は1号線から旧東海道に外れた道にあるのが普通だ。やはり藤川宿はまだ先だ。


(37) Fujikawa Shuku 藤川宿 

藤川宿は東海道37番の宿場で赤坂宿から 2里9町 (8.8km) の距離。本陣1軒、脇本陣1軒、旅籠36軒、戸数302戸、人口1,213人。隣の赤坂宿、御油宿が盛り上がっていたことで、ここ藤川宿は寂れた宿場だった。

1号線から分岐する道が見えて来た。分岐点に何か案内板がある。藤川宿への入り口だろう。


東棒鼻

やはりそうだった。ここが東からの藤川粛への入り口だった。ここでは入り口は棒鼻と呼ばれており、ここは東棒鼻にあたる。


常夜燈

宿場町内には3つの常夜燈を見つけた。当時はもっとあったのかもしれないが、夜中もちゃんと街道沿いに常夜燈を整備していた。この常夜燈以外でも、感じるのだが、江戸時代はかなり体制がしっかりしている。


市場町格子造りの屋並

藤川宿の東側は市場町だがだが、この町では街道沿いにあった伝統的な格子造りの家屋の修復保存や再現に力を入れている。江坂家嬉野家と表示された格子造りの家があった。城壁ではなく、今の材料を使っているのだが、昔ながらの切妻造りと格子造りを継承している。この家を見ると、昔ながらの材料に拘らなくても、今の資材を用いても、この切妻造のデザインは十分に綺麗だ。

この他にも宿場町には格子造りの家屋が多く見られた。現代では、個々の家が勝手にデザインや色合いを選んで建てているのだが、街道に沿ってこの格子造りの家が立ち並んでいた当時は、街並みに調和があったと思う。今の建築は家としては格段優れているのだろうが、街と見た場合は江戸時代の方が、調和という美意識は今よりはるかに高かったのでないだろうか。


問屋場跡

江戸時代の運送業であった人馬の継立、助郷賦課などの業務を行う問屋場 (といやば) の跡


高札場

本陣の前にあった高札場が再現されていた。


本陣跡

藤川宿にあった二つの本陣のうちの一つ。敷地はそのまま残っているのだが、井戸のみが当時あった場所に再現されている。


脇本陣跡

本陣で宿泊所が賄えない場合はこの脇本陣が使われた。当時はもっと広い敷地であったが現在では当時から残っている門を修理して保存している。内部は資料館になっている。6−8畳ぐらいの小さな資料室だが、藤川宿に関わる資料の展示をしてあった。藤川宿の訪問記の中にもそこにあったパネル展示を載せている。


西棒鼻

民家が少なくなって来たところに西棒鼻が登場して来た。ここが宿場町の西の端。


十王堂

宿場町を抜けて先に進むと、ここにも十王堂があった。ここにも十王の像が見ることができた。この地方には十王堂が多くあるのだろうか?


藤川宿の一里塚

日本橋から数えて79番目の一里塚。これで日本橋から約312kmまできたという事だ。


藤川松並木

旧東海道を走り、国道1号線に合流する手前には松並木が1kmにもわたって残っている。この松並木に出会すのは、東海道の旅の一つの楽しみ。当時の様子が浮かんでくる様だ。


西太平藩陣屋跡

しばらく国道1号線を走ると、旧東海道への分岐となる。ここは岡崎市大平町というところだ。この地には西太平藩があったところ。西太平藩なるものがかつてあったとは初めて知ったのだが、テレビドラマでお馴染みの大岡越前は藩主をしていた支藩という事がわかった。この藩は徳川八代将軍吉宗の時代に江戸町奉行であった大岡忠相がその功績からこの地をはじめ関東各地に1万石を賜り始まった藩で明治の廃藩置県まで続いている。ただ、大岡忠相時代は関東が中心で、忠相自身はこの西太平の地には一度も来ていない。三代藩主大岡忠恒の時代にこの西太平に所領統合がされた。西太平藩の様な小さな藩主は参勤交代は免除されていたが、常時江戸住まいを命じられていた定府大名であった。そのためにこの西太平には大名屋敷はなく陣屋のみが置かれていた。ここがその陣屋跡で、現在は公園になっている。


大岡稲荷社

陣屋跡の中に大岡稲荷があった。大岡越前守忠相は、先に訪れたの豊川稲荷のンド由来の神の吒枳尼 (ダキニ) 真天を信仰していたそうで、吒枳尼真天を三河の豊川稲荷妙厳寺から分霊し、江戸の屋敷内に祀っていた。これが東京赤坂の豊川稲荷東京別院の始まりだそうだ。赤坂の豊川稲荷東京別院の向かい側の旧赤坂小学校跡地の大岡越前守の中屋敷があった。この陣屋内にある大岡稲荷社は忠相が作ったとされ、忠相没後250回忌の平成14年に再築されたもの。豊川稲荷妙厳寺の境内には大岡越前守忠相廟があるそうだが、今朝訪問した際には見落としてしまった。


太平一里塚

日本橋から数えて80番目の一里塚。もともとは道路の両脇、南と北にそれぞれ塚があったのだが、道路改修工事で、南側だけが残っている。


常夜燈

太平町から今日の宿がある岡崎に向かう。既に5時になって間もなく日が暮れてしまう。道には常夜燈があった。今日最後の史跡になるだろう。

旧東海道から国道1号線に合流。ここで日没。空は真っ赤な夕焼け。綺麗だ。今日も1日が終わる。岡崎到着は夜になるだろう。

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