Tokaido 東海道 21 (19/11/19) Hamamatsu Shuku 浜松宿
(29) Hamamatsu Shuku 浜松宿
街道沿いの史跡
- 龍泉寺
- 駒塚
- 子安神社
- 馬込橋
- 杉浦本陣跡
- 川口本陣跡
- 梅屋本陣跡
- 鎧橋
- 二つ御堂
- 諏訪神社
- 浜松藩領界石
- 堀江領境界石
徳川家康所縁の史跡 (11/20に記載)
- 徳川秀忠誕生の井戸
- 本田忠勝屋敷跡
- 椿姫観音堂
- 浜松八幡宮
- 東照宮 (曳馬城)
- 玄黙口
- 霜垂口
- 松下之綱屋敷跡
- 大手門跡
- 地蔵院
- 佐鳴湖
- 小藪船着場跡
- 太刀洗の池
- 宗源院
- 普済寺
体調は昨日よりは良い様に思える。咳と痰はまだ続いているが、鼻水はマシになってきている。昨夜は雨が降っていたが朝には止んで快晴。ただ風が強く、昨日より寒く感じる。今日1日は浜松市を巡り、ここにもう一泊する予定。宿場の史跡と浜松城はじめとする徳川家康所縁の史跡巡りをする。
(29) Hamamatsu Shuku 浜松宿
浜松宿は東海道29番の宿場で見附宿から 4里7町 (16.5km) の距離で今までの宿間では3番目に長い距離。ちなみ一番は宮宿と桑名で27km、2番目が小田原宿と箱根宿で16.6km。本陣6軒、旅籠94軒、戸数1,622戸、人口5,964人。
浜松は源頼朝の弟の範頼が生まれた土地だそうだ。初めて知った。父である源義朝が池田宿 (磐田市) の遊女に生ませた子で、頼朝と義経とは異母兄弟の関係にある。浜松のこの地は遠江国蒲御厨 (かばのみくりや) と呼ばれており、範頼は蒲冠者 (かばのかじゃ) と言われていた。浜松に範頼所縁の史跡があると言うので、今日の始めの訪問地とする。
龍泉寺
龍泉寺は、元々は源範頼の別荘地跡であったが、室町時代に範頼の菩提を弔うため建立された寺。
境内には範頼ゆかりの若木の桜なるものがあった。範頼が三重県鈴鹿の石薬師寺に詣でた時に「我が願い叶いなば、汝地に生きよ」と言って馬の鞭にしていた桜の枝を地面に挿したのが、根付いて生長したと伝えられており、その桜をここにも移植したそうだ。
範頼は義経の末路と同じ様に謀反を疑われ、伊豆修善寺で誅殺された。曾我兄弟の仇討ち事件と関わり合いがあるらしい。この時に頼朝が殺されたと言う誤報に自分がまだ健在だから心配無い様な趣旨の事を言ったのが禍いの元になったと言う。寺の墓地には範頼の供養塔が新しく建て替えられていた。(インターネット上では古そうな供養塔だったが壊れてしまったのだろうか?)
寺の少し南に範頼の愛馬を弔った駒塚がある。これには逸話がある。範頼が誅殺されたときに、主人の首をくわえて走り、この故郷まで還り、息絶えたと伝えられている。後日、愛馬を慰霊するため、馬頭観音菩薩像が建立されている。
子安神社
源頼朝の弟の範頼が娘の無事な出産を祈願して創建したと伝えられている。神社は新しくなっていた。
馬込橋
子安神社から少しのところに橋が架かっている。浜松宿の東番所があった所でこの橋を渡ると浜松宿に入る。浜松には戦時中、兵器工場や飛行場があった為、米軍の攻撃目標となり空襲で尽く破壊され、昔の宿場町の面影は残っていない。
旧東海道の街道はこのように変わってしまった。
家康所縁の地巡り
街道から少し外れた所にある徳川秀忠誕生の井戸を訪れた。ここでこの様な案内板があった。面白そうなのでこの案内に従って巡ってみよう。(結局、史跡を見るたびに行きたい所が増えて、今日は浜松城に行けなかった。浜松城は明日にして、浜松城と家康所縁の史跡についてはまとめて、明日の旅日記に含める事にする。)
杉浦本陣跡/川口本陣跡/梅屋本陣跡
浜松宿には6つも本陣があった。いずれも今はビルが建っており、浜松市ができるのは、跡の標柱だけだ。3つの本陣跡に標示版が建っていた。この3つはかたまってある。今はここが浜松市の中心街だ。
鎧橋
たまたま、この橋の名を見つけた。名前からして何かあった橋だろう。案の定、案内板に説明があった。平安時代末期に戒壇設置のことで、比叡山の僧兵が浜松にある鴨江寺を攻めた時、鴨江寺側の軍兵は、この辺で鎧を着て、この橋を守りを固めて戦ったので、鎧橋と呼ばれる様になった。双方の戦死者は約千人にのぼり、鎧橋の北側に葬り、千塚 (または血塚) と言ったと伝えられている。
二つ御堂
浜松市の東若林に、東海道を隔てて北と南に、向かい合った二つのお堂がある。二ツ御堂と呼ばれているが、二つお堂があるのには理由がある。
平安時代に事だが、奥州平泉の藤原秀衛は所用で京都に来た時に病に倒れた。この事を聞いた愛妾が京都に向かう途中、この地で秀衛の死去 (誤報ではあったが) を聞き、北の方に薬師如来堂を建てた。間もなく、本人もこの地で病にかかり亡くなった。一方、秀衛は病が癒えた後、故郷に帰る途中ここを通りかかり、何が起こったかを知ると、愛妾の供養の為、南に薬師如来堂を建てたという。北堂の脇に秀衛松があり、「秀衛の側室の亡骸を埋めた所に秀衛が植えたと伝えられている」と書かれている。東海道は昔は殆どの旅人が通っていたので、街道沿いには色々な逸話と共に史跡がある。
諏訪神社
東海道のガイドブックに載っていたので、きて見たがガイドブックには詳しく書いていないので、歴史上で何があったのかは分からない。神社の色が神社の定番の赤では無く青色だった。いい感じ。誰が、どういった経緯でこの色にしたのかが気になる。
浜松藩領界石/堀江領境界石
浜松藩と堀江藩の境。境界を表す石柱があったそうだ。浜松藩の境まで来てしまったが、浜松宿の西の橋はとうとう分からずじまいだった。
東海道はここまでにしてここからは浜松を離れる時に継続する事にする。今日のこの後は、徳川家康に関わる史跡を回る。(その模様は明日まとめて記載する)
結局日没までに、予定していた家康ゆかりの地は積み残しがあった。当初は今日で全て終わりにして、明日朝には次の宿場に向かう事にしていたが、明日も浜松に泊まる事にして、家康所縁の地の残りを巡ることにする。
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