Tokaido 東海道 20 (18/11/19) Fukuroi Shuku / Mitsuke Shuku 袋井宿/見付宿
(27) Fukuroi Shuku 袋井宿
- 大池一里塚跡
- 善光寺
- 間の宿の原川
- 名栗の花茣蓙 (はなござ)
- 富士浅間宮の赤鳥居
- 富士浅間宮
- 久津部一里塚
- 常夜灯
- 新屋 (あらや) の常夜灯
- 東海道どまんなか茶屋
- 東本陣跡
- 西枡形
- 寺澤家長屋門
- 木原一里塚
- 木原畷古戦場跡
(28) Mitsuke Shuku 見付宿
- 従是西 見付宿
- 常夜灯
- 阿多古山一里塚
- 東木戸跡
- 問屋場跡
- 北本陣跡
- 旧見付学校
- 脇本陣大三河屋門
- 西坂の梅塚
- 西木戸跡
- 西光寺
- 遠江国分寺跡
- 善導寺大グス
- 天竜川船橋跡
- 高札場/松林寺
- 安間一里塚
昨夜は風邪で体調が思わしくなく、早く寝たのだが、今朝は更に体調が悪化している。咳と鼻水が酷くなっている。幸い熱はなさそうだ。(検温計は持っていない) 今日は次の宿がある浜松までゆっくりと行くことにしよう。天気は快晴で、気温も寒くは感じない。風がないからだと思う。疲れればどこかの公園で昼寝でもすれば良い。去年、風邪をひいた時もこのパターンで乗り切った。
(27) Fukuroi Shuku 袋井宿
袋井宿は東海道27番の宿場で掛川宿から2里16町 (9.6km) の距離。江戸から数えても、京より数えても27番目、旧東海道のほぼ中間点で、”ど真ん中、袋井” として町おこしをしている。本陣3軒、旅籠50軒、戸数195戸、人口843人。
上の浮世絵は安藤広重の東海道五拾三次のものだが、多くの絵師が袋井を題材に浮世絵を描いている。街道沿いにはその浮世絵を紹介していた。いくつか載せておく。
歌川芳員 東海道五十三次内 袋井
その他いろいろあった。
大池一里塚跡
出発し、程なく一里塚跡。日本橋から59番目の一里塚。表示板のみ。
ここを過ぎると所々で松並木に出会す。
善光寺
街道沿いに善光寺という寺がある。中道寺という寺と隣り合わせにある。というよりは中道寺の中に善光寺があると言ったほうが良い。実はこれは一つの寺で、この寺が東海道のほぼ真ん中にあったので、善光寺を中道寺と呼ぶ様になって、今は中道寺が表看板になっている。
ここにも松並木がある。このみごとな松並木は次の間の宿の原川まで続いている。
松並木が途切れると間の宿の原川。この間の宿 原川は小さな宿場ですぐのところにある原野谷川までだ。この川も川幅が広く徒渡りの待機様の宿だったのだろうか?同心橋と言う名の橋が架かっている。名前からすると江戸時代からある様にも思える。橋で渡ったのか?
名栗の花茣蓙 (はなござ)
原野谷川に架かる同心橋を渡ると名栗の花茣蓙と言うところに出る。ここにも間の宿があったそうだ。十返舎一九の東海道膝栗毛で登場するところだそうだ。安藤の浮世絵で描かれているのはこの辺の出茶屋の風景だろうか? 浮世絵の中で先に見えるのが袋井宿と思う。
この辺りは当時の浮世絵の風景で描かれている。今でも根っこの所を盛り土した松並木が残っている。この中を走っていると気持ちが良い。
富士浅間宮の赤鳥居
富士浅間宮の赤鳥居が松並木の中にある。まだまだ松並木が続く。
富士浅間宮
ここで少し寄り道。この大鳥居の富士浅間宮の本殿に行く。往復2km程なのでそれほど時間はかからないだろう。この神社は坂上田村麻呂が、富士浅間神社より分霊を移したのに始まる古社だそうだ。
久津部一里塚
60番目の一里塚。地元の小学生達が一里塚を再現したそうだ。
常夜灯
新屋 (あらや) の常夜灯
別の常夜灯。木製の常夜灯だ。木製のものは初めて見た。石の常夜灯よりはるかに趣がある。この袋井宿には木製と石製取り混ぜ多くの常夜灯が現存している。
東海道どまんなか茶屋
天川橋が袋井宿の入り口で、ここには町おこしのどまんなか茶屋が作られている。生憎今日は閉店。月曜日は閉まっているところが多い。ここには高札場と枡形の見附があったそうだ。つまり、ここが袋井宿の宿場町が始まる所。85歳の婆さんコンビが井戸端会議をしており、その中に巻き込まれて半時間程、おしゃべりをした。東海地震の事や戦争のこと、昭和の袋井とか色々と話してくれた。最後に記念撮影をしてお別れ。
東本陣跡
袋井宿に3軒あった本陣のうちの1軒。壱番本陣ともいわれ,田代家が経営していた。モニュメントとして門が復元 (?) されていた。
西枡形
ここで袋井宿が終わる。袋井宿は距離も短い小さな宿場だった。昔の街並みはもはや残っていないが、どまんなかの町おこしのため、東海道の雰囲気を少しでも出そうと取り組んでいる様に思えた。
寺澤家長屋門
明治元年に建てられた。
木原一里塚
久々に立派な一里塚。61番目のもの。
木原畷古戦場跡
元亀3年 (1572年)、武田信玄が上洛の為に遠江や三河など徳川領への侵攻し、天方城、飯田城、各和城、久野城などの徳川方の城を次々と落とし、この木原付近に布陣。ここを抑えられると本拠の浜松城と高天神城/掛川城の連携が遮断されるとし、徳川軍が出陣、偵察に出ていた徳川四天王の本多忠勝と内藤信成はこの木原で武田軍と遭遇し戦闘となったが、圧倒的な武田勢の前に退却、武田軍の追撃を受け、更に三箇野川や一言坂で戦闘となった。しかし本多忠勝や大久保忠佐らの活躍により、徳川軍はかろうじて浜松城へ撤退。この時に武田軍の追撃をかわすため、見付の町を焼き払ったと記されている。この後に三方ヶ原の戦いへと続いていく。
この古戦場の碑は古戦場のすぐ前の許禰神社 (こねじんじゃ) に建っているが、この境内には徳川家康が関ヶ原に向かう途中、戦勝祈願の為に立ち寄り腰を降ろした石がある。
(28) Mitsuke Shuku 見付宿
見附宿は東海道28番の宿場で袋井宿から 1.5里 (5.9km) の距離。本陣2軒、脇本陣1軒、旅籠56軒、戸数1,029戸、人口3,935人。この見付 (見附) は遠江の国府だったところ。
従是西 見付宿
大久保と見付の境。見付宿がもうすぐ始まる事を旅人に知らせていた。ここに来て、旧道から外れて走っていた事に気付いた。出来るだけ旧道を通る様にしている。今まで旧道から外れたのは、箱根の石畳の山道と日坂宿の石畳で自転車では行けないところだけだったが、今回は地図の読み間違い。ミスだった。
常夜灯
ここで先殆どの東海道どまんなか茶屋で婆さん達と話しているときに東海道の道を聞かれた歩き旅の男性にもう一度会う。婆さんと話をしているうちにここまで進んでいる。会うのは二回目なので、打ち解け少しお話をする。お遍路でもそうだったが、色々なところに立ち止まっているので、歩き旅の人より自転車の方が遅くなる。ただ、この男性曰く、歩きだとあまり見れない。とにかくその日の内に予約している宿に着かないとと焦るそうだ。そうすると、やはり旅は自転車に限る。今日で東海道は20日目だ。歩きでも早い人はこの日数で京都に到着している。自転車の方が倍の時間がかかっている勘定だ。でも、これで良い。これが自分の旅のスタイル。
東木戸跡/阿多古山一里塚
急な坂を下ると三叉路。ここが木戸跡だ。枡形になっていた事がわかる。この木戸跡の直前の坂のところには62番目の阿多古山一里塚があったそうだ。今は愛宕神社になっている。ここから見付宿場町が始まる。ここでまた先程の歩き旅の男性に追いつく。三回目。お互いに苦笑。この宿でぶらぶらしていたので、その後は会わなかった。多分先に進んでいるのだろう。
問屋場跡
北本陣跡
旧見付学校
1873年 (明治6年) に静岡県見附に開校した学校。現存する日本最古の木造擬洋風小学校校舎。今日は休館日で公開していなかった。
脇本陣大三河屋門
西坂の梅塚
西木戸跡
見付宿の西の入り口。江戸からはここで宿場を出る事になる。やはり枡形になっている。
西光寺
徳川家康の別荘だった中泉御殿の大手門が移設されている。この寺は恋愛成就のパワースポットらしい。
樹齢推定500年の大くす。これが縁結びのパワーの元だそうだ。
遠江国分寺跡
この1年9ヶ月の旅で幾つかの国分寺跡を訪れた。ここは他の国分寺跡と比べると規模が少し小さい感じがする。最も公開されているのが全敷地かどうかは分からないのだが....
善導寺大グス
磐田駅の前にも大グスがある。ここには以前善導寺があり、境内に植わっていたそうだ。推測樹齢700年。凄い!
天竜川 船橋 木橋跡
天竜川の土手に日本の標識が立っている。船橋と木橋のものだ。江戸時代はここには船橋が架かっていた。船橋は、橋の無い河川に多数の小舟を並べて綱や鎖で連結し、その上に板を敷いたもの。これは江戸を防衛する為に意図的に橋をかけなかった。やっと明治7年2に木橋に掛け替えられ、東海道の往来が便利になった。
高札場/松林寺
松林寺の前に高札場跡がある。この松林寺の門に可愛いお地蔵が立って歓迎している。この光景は初めてなので立ち寄って見た。
安間一里塚
64番目の一里塚跡
今日はここまで。そろそろ日没が近づいている。薄暗くなった。風邪の具合は鼻水や咳は相変わらずだが、好きな事をやっているので気にならなかった。宿に着くと暫くすると顔が熱っている様だ。今晩どうだろう?明日の朝は良くなっていれば良いのだが。
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2019.11.20 23:44