Tokaido 東海道 19 (17/11/19) Kakegawa Shuku 掛川宿
(26) Kakegawa Shuku 掛川宿
- 葛川一里塚
- 常夜灯
- 七曲
- ゲイスベルト•ヘンミィ墓
- 宿場の現在
- 清水銀行
- 掛川城
- 掛川城蕗の門
- 松ヶ岡 (旧山崎家住宅)
- 東光寺常夜灯
- 十九首塚
- 大地橋/秋葉街道
数日前から少し咳が出始め、昨夜は咳が酷くなり、喉が痛い。鼻水も出始めた。立派な風邪の様だ。今はインフルエンザが流行っている様で、そうじゃないと思うが注意しなければならない。旅先で寝込むと辛い。昨年の冬は九州で風邪をひいたが、寝込む事なく切り抜けた。今回も大事ない事を祈る。という事で、今日は比較的軽めのメニューで行く。掛川宿と掛川城に集中してこの掛川でもう一泊する事にした。
(26) Kakegawa Shuku 掛川宿
掛川宿は東海道26番の宿場で日坂宿から 1里29町 (7.1km) の距離。本陣2軒、旅籠30軒、戸数960戸、人口2,443人。地図では本陣跡や高札場が載っていたが、とうとうその跡地にある表示板は見つからず。どうも掛川はお城と城下町の街並みを全面的に出しており、東海道はあまり重要にしていない様だ。
葛川一里塚
逆川に架かる馬喰橋 (変な名だ) を渡ると一里塚がある。掛川宿まではもう少し。
常夜灯
七曲
掛川城下を守るために入り口を幾度も曲がり角にしている。最後の曲がり角を抜けると東見附があり、ここから宿場町が始まる。
ゲイスベルト•ヘンミィ墓
街道から少し離れた天然寺にオランダ使節のゲイスベルト•ヘンミィ墓がある。西欧式の棺の形をした墓が日本様式の墓の中にある。
宿場の現在
宿場の中心部に入った。昔の宿場の建物は無いのだが、昔風にアレンジしている。気持ちは分かるが、少し違和感を感じる。これは宿場というよりは大名屋敷風で、それも現代の建物を白壁や城の様な屋根にしている。昔の宿場町はもっと質素なものだっただろう。少し観光地志向が過ぎた感じだ。
清水銀行は極め付だ。大名屋敷の様な造り。
掛川駅は許せるかな。
掛川城
東海道の右に大手通りがあり、大手門が見える。今日の一番行きたい所の掛川城だ。町のシンボルになっている。宿場もこの掛川城を中心に城下町としての雰囲気が出る町作りをしているのだろう。ここは山内一豊が一時期、城主だった。大河ドラマで大ブレイク。その他の藩主は全く存在感がない。
1469年 - 1487年の間に、今川義忠の重臣の朝比奈泰煕によって逆川の北沿岸にある龍頭山に築かれたのが城の始まり。1568年 (永禄11年)、今川氏が武田信玄と徳川家康の両大名から挟み撃ちに遭い、今川氏真は駿府館を捨てて、朝比奈泰朝のいる掛川城に逃げ延びた。掛川城は徳川勢の包囲に遭い、多勢に無勢で開城。掛川城には城代として家康の重臣・石川家成・康通親子が入った。1590年 (天正18年) に家康が関東に移封されると、豊臣秀吉の直臣の山内一豊が入り、掛川城の大幅な拡張を実施。現在残っている城の構造は山内一豊時代のもの。本丸を中心に、西に搦手、南東に大手を開き、北に天守曲輪である天守丸、その北に竹之丸、南に松尾曲輪、西に中の丸、東に二ノ丸と三ノ丸、その南を惣構えで囲んだ梯郭式の平山城であった。1600年 (慶長5年) の関ヶ原の戦いの後、一豊に移転、その後、掛川城には多くの譜代大名が入ったが、最終的には太田氏が入り、何度か城の修築も行われている。現存している遺構は二ノ丸御殿、太鼓櫓、石垣や土塁、堀の一部。
大手門
城の玄関で、再現されている。
門を入るとすぐに番所。その裏に三光稲荷がある。
逆川が城の南側に流れており、これが自然の要害の役割を果たしている。
逆川に架かる緑橋を渡った所は当時は松尾池であった。
ニノ丸
太鼓櫓の反対側にニノ丸があり、今は多目的広場になっている。場内の案内板ではここを三ノ丸広場と紹介しているものもあれば、二の丸としていうものもある。二の丸が正しいだろう。
いつも通りに外側から見て行く。
はす池
大日本報徳社
三ノ丸の跡地に大日本報徳社がある。二宮金次郎の出身地が掛川で二宮尊徳の教えを広め実行の為に創立された。小田原にも同じものがあった。生家は小田原と思っていたが、掛川と小田原は尊徳のいつの時代に関連しているのか?
左2つのは報徳社。右は新しくできた中央図書館にある二宮金次郎像。時代によって金次郎の顔つきが変わってきている。
竹之丸
ここは江戸時代には武家屋敷のあったところだが、明治36年ニ葛布問屋の邸宅となった。
本丸へは四足門を通る。
四足門の横には三日月堀。
更に十露盤堀
二の丸御殿
本丸に入る前に二の丸をまわる。二の丸には御殿があり公開していた。
二の丸茶室
二の丸美術館
いよいよ本丸に
本丸門
四足門から本丸へは更に本丸門を通る。
太鼓櫓
ここに太鼓櫓が三ノ丸から移設されている。元々は荒和布櫓が建っていた所。
本丸
今はもう遺構は残っていないが本丸には古櫓と矢櫓が建っていた。
銀杏下御門
本丸には四足門とは反対側からも登城できた。銀杏下御門が本丸への入り口。
本丸から天守閣へ
腰櫓跡
上り階段の半ばに腰櫓跡がある。
ここからは二の丸への通路が設けられている。
ここは元々は通路ではなく腰曲輪だった。しかし、曲輪は削り取られてこの様な形になっているが、本来は白壁塀の向こう側にも曲輪が広がっていた。
更に上る
天守下門
これを潜ると天守閣だ。
天守閣
天守閣は再建されたもので、内部は展示場になっている。
展示内容は少々お粗末で、伝えたいものがはっきりしない。
霧吹き井戸
天使台には井戸跡があった。
これで掛川城はひととおり見学終了。掛川城から東海道に戻る。
掛川城蕗の門
掛川城の蕗の門がここ圓滿寺に移設されている。蕗が扁額では冨貴となっている。
松ヶ岡 (旧山崎家住宅)
明治天皇も泊まった旧家。周りを走ったが相当大きな敷地だ。何をしていた家なのだろう。
東光寺常夜灯
十九首塚
この常夜灯の奥に平将門含めその家臣の首塚がある。首実験がここで行われた。隣には、将門を葬った東光寺 (元は将門寺)、ここを流れる血洗川と今は呼ばれている小川で首を洗い、これも将門橋と呼ばれているのだが、この橋に首は晒されたと言う。将門伝説は数多くある。東京大手門には将門の首が飛んできたと伝わる首塚があったのを思い出した。
大地橋/秋葉街道
東海道と秋葉街道の分かれ道。この街道でこれまで多くの常夜灯が秋葉山を刻んでいる。火から守ってもらえると言う信仰を集めた山。橋を渡り川沿いを左に行くと東海道、斜め右の道が秋葉街道だ。
これで掛川宿は見終わった。風邪の方は良くなった様には思えない。宿に着いたら今日は即寝ることになるだろう。明日はどうなるか。明日起きてから体調を見て決める。
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2019.11.20 23:51