Tokaido 東海道 18 (16/11/19) Fujieda, Shimada, Kabaya, Nissaka Shukus 藤枝/島田/金谷/日坂宿

(22) Fujieda Shuku 藤枝宿

  • 鬼島の建場
  • 須賀神社
  • 鐙ヶ淵観音堂
  • 東木戸跡
  • 常夜灯
  • 白子由来碑
  • 旧藤枝製茶貿易商館
  • 本陣跡/神明神社
  • 上伝馬問屋場
  • 西木戸跡
  • 志太一里塚

(23) Shimada Shuku 嶋田宿

  • 六地地蔵
  • 東海道追分
  • 上青島一里塚
  • 東見附跡
  • 島田宿一里塚
  • 御陣屋跡
  • 下本陣跡
  • 中本陣跡
  • 上本陣跡
  • 西見附跡
  • 高札場/大井神社
  • 大善寺
  • 塚本家
  • 大井川川越遺跡
  • 川会所
  • 島田大堤
  • 大井川

(24) Kanaya Shuku 金谷宿

  • 佐塚屋本陣跡 (二番本陣本陣)
  • 山田屋本陣跡 (三番本陣本陣)
  • 柏屋本陣跡 (一番本陣本陣)
  • 角屋脇本陣
  • 定飛脚問屋
  • 金谷一里塚
  • 金谷大橋 (西入口土橋跡)
  • 金谷坂の石畳
  • 鶏頭塚
  • 石畳茶屋
  • 牧ノ原茶園

諏訪原城跡

  • 大手南外堀
  • 大手曲輪
  • 大手北外堀
  • 惣曲輪 (西の曲輪)
  • 二の曲輪
  • 二の曲輪大手馬出
  • 諏訪神社
  • 二の曲輪南馬出
  • 二の曲輪東馬出
  • 二の曲輪東内馬出
  • 二の曲輪北馬出
  • 二の曲輪中馬出
  • 二の曲輪内堀
  • カンカン井戸
  • 水の手曲輪
  • 本曲輪虎口
  • 本曲輪

(25) Nissaka Shuku 日坂宿 (にっさか)

  • 菊川坂
  • 秋葉常夜燈
  • 本陣跡
  • 問屋場跡
  • 高札場跡
  • 下木戸跡
  • 伊達方一里塚



(22) Fujieda Shuku 藤枝宿

藤枝宿は東海道22番の宿場で岡部宿から 1里26町 (6.8km) の距離。本陣2軒、旅籠37軒、戸数1,061戸、人口4,425人。田中藩の田中城の城下町として、最盛期には旅籠が37軒あり、商業地としても栄えた宿場。

安藤広重の東海道五拾三次之内・藤枝『人馬継立』の風景はこの後通る伝馬町の問屋場の人馬継立の様子。前の宿より荷物を運んできた人足と馬がここで交代。人足と馬風はテリトリーが決まっていた。現代のタクシーやや運輸業に近い。


鬼島の建場

建場 (たてば) は幕府公認の宿場と宿場の間の休憩施設の事。ここが十返舎一九の東海道中膝栗毛に登場している。“街道の松、枝を鳴らさず、往来の旅人、互いに道をゆずり合い、泰平をうたふ。大井川の川留めが解けたので、岡部に滞留せし旅人・駕篭・馬と共に弥次郎兵衛、喜多八の両人も、そこそこに支度して、朝比奈川をうち越え、八幡・鬼島に至る。ここは宿場間のお休み処。茶屋女「お茶まいるサア・お休みなさいマシ」と進められるまま、昼間ッからイッパイ昨日の鮪の肴、この酒半分水だペッペツ、ブツブツいいながら、鐙ヶ淵にさしかかる。「処もとは鞍の鐙ケ淵、踏んまたがりて通られもせず」「街道の松の木の間に見えたるはこれむらさきの藤枝の宿」” と書かれている。この後に行く大井川が川留めになってその前の宿場の島田宿が満員になり、さらに藤枝宿も満員。どうも弥次喜多は岡部宿に泊まった様で、やっと出発してここで休憩とあいなった。


須賀神社

前述の東海道中膝栗毛に出てきた鐙ヶ淵 (あぶみがふち) にこの須賀神社がある。巨大なクスの木が有名だそうだ。樹齢約500年と言われている。鎌倉時代からずっと生きているわけだ。凄い!


鐙ヶ淵観音堂

須賀神社のすぐそこにある観音堂。鐙ヶ淵と名が付いている。昔の旅人も旅の疲れを楠の木陰でいやし、旅の安全を観音様に祈ったことであろう。今日はもう富士山は見えない様だ。


東木戸跡

宿場の案内板によるとここになるのだが史跡表示板はない。ここら辺に宿場への入り口があったはず。


常夜灯


白子由来碑

三重県鈴鹿市白子に因んで町名が付けられた。何故か? 本能寺の変で徳川家康は身の危険を感じ急遽帰国の途につき、堺から伊賀越えで伊勢の白子の浜に出た。ここで小川孫三が家康一行を舟に乗せ対岸の知多半島まで運んだ。家康はこの恩に報いるため、孫三に藤枝宿の一角を与え諸役御免 (伝馬役など宿場の業務を免ずる) とした。孫三は、ここに居住し町名を故郷の白子町としたと言う事だそうだ。何故か史跡碑は石でなくダンボールに写真を貼りつけたものだった。


旧藤枝製茶貿易商館

明治時代は茶の製造輸出は外国資本に牛耳られていたが、明治35年に製造所を造った。これはその事務所として使われていた。とんがり屋根と呼ばれている。


本陣跡/神明神社

神明神社の横に本陣があったことになっていたが表示板は見つからず。


上伝馬問屋場

跡地は駐車場と交番になっている。東海道五拾三次之内の藤枝宿はここを描いている。


西木戸跡

京都方面への宿場の出口。京都からは入り口。案内板ではこの近辺だが.....


志太一里塚

藤枝宿を出て瀬戸川を渡った所に日本橋から50番目の志太一里塚跡がある。



(23) Shimada Shuku 嶋田宿

嶋田宿は東海道23番の宿場で藤枝宿から 2里8町 (8.7km) の距離。本陣3軒、旅籠48軒、戸数1,461戸、人口6,727人。ここは嶋田宿よりも大井川で有名。大井川が川留めになると嶋田宿が旅人がここに泊まり、潤っていた。
安藤広重の東海道五拾三次之内・嶋田『大井川駿岸』 は参勤交代の大名行列が大井川を渡っている所を描いている。


鏡池堂六地蔵尊

神龍が棲んでいるとわれた近くの鏡ヶ池から現れた六地蔵尊を鏡池堂で祀っている。今朝通った藤川宿の須賀神社の側にあった鐙ヶ淵観音堂に関係している。鐙ヶ淵当時は、東海道の名所だった。


東海道追分

こには、瀬戸山を越える中世の古東海道と、 山裾に沿う旧東海道との分岐点の追分だった。


上青島一里塚

日本橋から51番目の一里塚。一里塚は残っていないが、旧街道には松並木が残っている。


東見附跡

江戸から旅人はこの東見附から嶋田宿に入る。案内板では見附を枡形と呼んでいる。ここには人の往来を監視する門番がおり、所々でいろいろな呼び方をされていた。


嶋田宿一里塚

日本橋から52番目の一里塚。ここも一里塚の面影は残っていない。


御陣屋跡

江戸時代島田宿には、駿河国志多太郡や遠江国榛原郡などの幕領 (天領) を支配する御陣屋 (代官所) が設置されていた。 跡地は駐車場になっているのだが、雰囲気を出すためか、土塀で囲まれている。


下本陣跡

島田宿には本陣が3つあり、上本陣、中本陣、下本陣と呼ばれていた。そのうち下本陣跡にはからくり時計がおかれ、遊歩道を設置し、多くの商店が並んでいる。上本陣と中本陣は石碑のみ立っていた。


中本陣跡


上本陣跡


西見附跡

ここが島田宿の西の出入口


大井神社

大井川の神霊を祀る神社。昔には大井川自体が信仰の対象になっていたのだ。


大善寺

江戸時代初期に創建された浄土宗の寺院。寺院ないに梵鐘があるが、これで島田宿に2時間毎に時間を知らせていた。日の出と日の入りの鐘は大井川の川越の開始と終了を知らせる合図でもあり、住民や旅人達の生活に密着していた。江戸時代には、大井川を渡り切れなく溺死した人々を供養をしていた。


塚本家

大井川の手前にこの旧家がある。家の前に案内板がある。何かと思いみてみる。この家は九州肥前の大村藩が建てた家。大村藩の参勤交代 や大村藩とゆかりのある諸大名や武家が、大井川を渡るときに、特別の便宜をはかり、川越しの準備や手続きを代行したとある。身分の高い人をもてなす上段の間があったそうだ。宿泊をした島田宿の陣屋意外にここに特別に家を作ったということは、大井川を渡のが大変なことであったことを表している。 


大井川川越遺跡

「箱根八里は馬でも越すが、越すに越されぬ大井川」と謳われた大井川に近づいて来た。江戸時代には大井川には橋はなかった。徳川家康が征夷大将軍となり、江戸防衛のために大井川など主要な川の渡船と架橋を禁止じ、渡渉制度が施行した。東海道で橋が架けられなかった川は4つある。安倍川は大井川と同じ様に徒渡し、天竜川、富士川は船渡しだった。大井川での渡渉制度の当初は、川越人足の賃銭は自由にを決めていたが、高い賃銭を取る川越し無作法が横行し始め、寛文五年に川越賃銭の規定が作られた。次第に川越業務が組織化されていった。この大井川の手前には、川越業務を行う施設が集まっていた。その当時の様子を大井川川越遺跡として残している。

道路は舗装されているが、それ以外は昔とそれほど変わっていないのだろう。

大井川に近いところには観光客向けの茶屋が建てられて、年配の観光客が休憩している。


川会所

川越制度を取り仕切り、川越の料金設定、川札の販売などを行っていた役所で、資料が展示されている。

身分によって異なる輦台 (れんだい) の展示がある。

一般庶民は人足の肩車 (かたくま) で川を渡り、川の水深によって料金が異なっていた。かなり高い値段の様な印象を持った。水量が少ない時には、特に股通で渡れるくらいなら、人足に頼まないで自分で渡る旅人もいたのだろうか? 自分ならそうするだろうが...


札場

人足が川札を換金する場所。


番宿

人足の待機場所が10箇所の番宿があった。二番宿、三番宿、六番宿、十番宿が復元されている。川越人足の数は、はじめ大井川両岸の島田、金谷にそれぞれ360人と定められていましたが、幕末には、約650人に増加したそうだ。この様に江戸時代後期には一大産業に発展していたので、船渡しや架橋請願が幾たびもあったが、この産業を潰すわけにもいかず、いつもうやむやになり、ようやく1870 (明治3) 年に大井川の通船が許可されたことに伴い、川越しは廃止された。

他の番宿もあるが、今でも人が住んでいるところもある。


立合宿

立会宿、仲間の宿、口取宿と呼ばれ、立会人、陸取り、年寄、口取などの川越人足が集会所で、立会人は島田宿に来た人の案内など、川越しにともなう様々な仕事を行った。建物はなく立合宿があった場所の空き地に案内板のみ。


島田大堤

大井川の氾濫から島田宿などを守る目的で整備された治水目的の堤。1604年の慶長の大洪水にて、これまでの川除堤が決壊したのを受け、1644年頃までに整備されたとされる。幅約3.6mの堤が、向谷水門から道悦島の村境まで、長さ5.7kmに渡って築かれていた。現在でも部分的に堤跡が残っている。


島田市博物館

大井川の堤には島田市博物館がある。展示内容は面白そうなのだが、今日は掛川泊まりを予定しており、大井川を超えてからは峠越えになる。見学すると1−2時間は使うだろうから、見学は断念。


大井川

大井川を渡る。今は全長1kmの大井川橋がかけられ、ありがたいことに車道と歩道が分離されており、自転車でも気楽に渡れる。



(24) Kanaya Shuku 金谷宿

金谷宿は東海道24番の宿場で島田宿から 1里 (3.9km) の距離。距離は短いのだが、そのうち1kmは大井川で、ここの移動には川を渡るために何日も待たねばならなかったそうだ。本陣3軒、脇本陣1軒、旅籠51軒、戸数1,004戸、人口4,271人。嶋田宿同様に、大井川の川止めで賑わった宿場だった。金谷宿は、金谷本町と金谷河原町の二町にわかれ、金谷本町が伝馬役を務め、河原町が大井川の川越役、徒渉役目を担っていた。


本陣・脇本陣跡

大井川を渡り金谷宿に向かう。なだらかな坂道を走る。まずは川越役であった金谷河原町を通るのだが、今はその面影はなく、そのまま金谷本町に入る。この金谷本町にも宿場町の面影は残っておらず、ただ山田屋、佐塚屋、柏屋の三軒の本陣と脇本陣、問屋場、助郷会所等の表示板があるのみだった。安政の大地震で本陣や脇本陣が被災後は、本陣、脇本陣は明治まで機能しなかった。


佐塚屋本陣跡 (二番本陣本陣)


山田屋本陣跡 (三番本陣本陣)

当初は脇本陣であったが、柏屋本陣の不手際があった際に本陣に格上げされ、三番本陣となった。


柏屋本陣跡 (一番本陣本陣)


角屋脇本陣


定飛脚問屋


金谷一里塚

日本橋から53番目の一里塚跡。


金谷大橋 (西入口土橋跡)

金谷宿には見附は存在しておらず、西と東の入り口は土橋がその役割を果たしていた。ここを超えると坂道が急になる。この先には中山峠が控えており、東海道も難所だった。


金谷坂の石畳

2年前に京都から東海道を走った時は、正月休みの一週間で東海道を走破で、この石畳を歩く余裕はなく、次の宿の菊川駅から金谷駅まで輪行で進んだ。この坂を含む中山峠は東海道本線で素通りになってしまった。今回はゆっくりとじっくり走っているので、自転車を牧ノ原台地の中腹にある石畳の入口に停めて散策をした。石畳はきれいに整備されている。これは発掘されたものを整備している。当時もこれほど綺麗な石畳だったのかは少し疑問がある。幾つか石畳跡を歩いたことがあるが、こんなに綺麗に石が並んでいるところはなかった。


鶏頭塚

石畳道の脇には塚や祠があった。


石畳茶屋

観光用に江戸風情に作られた茶屋がある。展示室もあるらしい。

石畳を15分ほど登ると終点になった。ここはすでに標高200m。ここから自転車を停めた入り口に戻る。自動車道路を通るとかなりの迂回路になる。この石畳は距離がそれほどでもなく、石畳が綺麗に整備されているので、自転車を押して、もう一度石畳を登ることにした。滑りながらもなんとか頂上までたどり着いた。

滑りながらもなんとか頂上までたどり着いた。見晴らしは素晴らしい。


牧ノ原茶園

石畳の出口から諏訪原城跡に向かうが、一面茶畑になっている。ここは牧ノ原茶園で日本一広い茶園だそうだ。明治2 (1869) 年、駿府に移って来た徳川慶喜に同行してきた武士たちが、失業しこの茶園の開拓に携わった。その後、大井川の川越制度廃止で失業した川越人足たちも加わり開墾発展した歴史を持っている。茶園の中の農道を走り、諏訪原城跡に到着。


諏訪原城跡

諏訪原城は、武田信玄が牧之原台地に砦を築いたことに始まり、その後、天正元 (1573) 年、武田勝頼が徳川氏の遠江侵攻の拠点として、家臣の馬場美濃守信房に山城に整備させた。翌年にはここを拠点にして高天神城を攻略している。小山城と共に、大井川西岸の防衛線及び高天神城への補給線を確保する重要な拠点となった。天正3年 (1575年) 5月、長篠の戦いで武田軍が織田徳川連合軍に大敗後、徳川家康は三河・遠江の武田氏の各拠点の攻略に乗り出し、諏訪原城も7月中旬ごろから徳川軍により包囲された。1ヶ月余りの攻防戦が繰り広げられたが、援軍もなく、開城し城兵は小山城に退去し落城となった。その後、徳川家康の領地となり、牧野城と改名、今川氏真や松平家忠らが城主となった。徳川はこの城を拠点に武田勝頼軍の動向を監視・牽制を続け、殊に高天神城への大井川沿いの補給路を封じたことで戦いを有利に進めた。武田氏の滅亡後は、この城の必要性はなくなり、天正18 (1590) 年頃に廃城となった。

小夜の中山から菊川宿をへて、鎌塚・色尾に至る東海道と、城の背後に大井川が流れる交通の要衝に立地し、城の三方は台地の断崖となっており、自然を巧みに利用した三日月堀や丸馬出しなど信玄後期から勝頼期に建設された城郭の特徴である「甲州流築城法の典型」といわれる遺構が再現されている。台地の突端部を利用し戦闘正面を限定させる構造となっている。

1時間半ほど時間をかけて、整備されている城跡はほぼみることができた。

城跡の入口にはビジターセンターが建っている。係員のおじさんがこの城について、色々と説明をしてくれた。平成29 (2017) 年に続日本100名城に選定され、今年3月にこのビジターセンターがオープンしたそうで、おじさんはかなり張り切っていた。あまり観光客がいないので、城跡を見学した後、午後4時の閉館時間まで付き合っていただいた。


大手南外堀

ビジターセンターから城跡に入るとそこに大手南外堀跡がある。ここには大手曲輪があったところで、本曲輪、二の曲輪を守役割を果たしている。この曲輪は諏訪原城が徳川氏に攻略された後に、増築されたもので、武田勝頼の時代のものではない。ただ、甲州流築城法を継承したのだろうか、大手曲輪の外側には、武田家独特の馬出しも作られていた。徳川時代にはここには武家屋敷があったとされている。

大手曲輪は南外堀と北外堀で囲まれている。まずは大手南外堀


大手曲輪

現在の大手曲輪跡は茶畑になっている。


大手北外堀

北外堀も堀跡が微かに残っている。当時はもっと深かったとは思うが....


惣曲輪 (西の曲輪)

大手曲輪の横に惣曲輪があったとされているが、当時の遺構は残っていない。資料でもこの惣曲輪について説明があるものはなかった。資料によって、いろいろな縄張りが記載されている。西の曲輪と書かれているものや、惣曲輪と乾曲輪に分かれているもの、様々だ。共通していたのは惣曲輪の中に馬場があったとされている。二の丸からこの惣曲輪に対して馬出しが配置されていることや惣曲輪の周りには堀跡も発見されていないことから考えると、惣曲輪は防備としてのものではなく、想像するに、武士団の住居があったのではないだろうか。戦闘時には、二の曲輪や大手曲輪に集結していたと思われる。

惣曲輪跡は林と茶畑になっている。


二の曲輪

次にニの曲輪に移動する。縄張り図でもわかる様に、二の曲輪の外堀に6つもの丸馬出を築き、守りと攻めの堅固な城塞であったことがわかる。十分な兵力が確保できていれば徳川軍も容易にこの城に篭る武田軍をわずか1か月で攻略はできなかったであろう。馬出を築いている城は全国でも数少なく、有名なのは北条氏の角馬出と武田氏の丸馬出だ。(北条氏の角馬出はこの東海道の旅で訪れた山中城でみることができた。)攻守ともに丸馬出の方が優れている。この丸馬出は後に真田幸村が大阪冬の陣で大阪城の外堀に築いた真田丸で生かさ、徳川軍を大いに苦しめた。まさに武田氏の甲州流築城法が生かされている。


二の曲輪大手馬出

これは面白い作りをしている馬出の半分が大手曲輪にかぶさっている。大手曲輪が攻略された際には、大手曲輪からの敵を攻撃できる様になっている。大手曲輪が攻略されていなければ、大手曲輪と二の曲輪大手馬出の広い範囲で敵を迎え撃つことができる。


諏訪神社

二の曲輪大手馬出跡には武田氏の守護神社の諏訪神社が建っている。馬出しに神社があるのはおかしいと思い調べてみると、やはりこの諏訪神社は城があった当時は城の中心部にあったそうで、ここに移設再建されている。


二の曲輪南馬出

二の曲輪大手馬出の隣にこの二の曲輪南馬出がある。外堀に沿っては5つの馬出があるが、それぞれの距離が近くなっている。これはよく考えられた構造と思える。隣の馬出が劣勢になれば、馬出しから兵を、側面や背面から援護攻撃ができる仕組みになっている。それに、これだけ多くの馬出しがあれば、敵のほうもそれぞれの馬出を牽制するために兵をそれぞれに割かねばならない。実に巧妙なまのだ。実際の戦闘がどの様なものであったかを想像するとワクワクしてくる。


二の曲輪東馬出

二の曲輪南馬出のさらに隣には二の曲輪東馬出がある。二の曲輪南馬出と同様に小さいながらもこの二つは距離が非常に近いので、兵力を状況に応じてバランスを取ることができる。


二の曲輪東内馬出

更に面白いのは二の曲輪南馬出と二の曲輪東馬出の二の曲輪川にもう一つの馬出があり、他の馬出と同様に馬出の前面には三日月堀が設けられている。二の曲輪南馬出と二の曲輪東馬出が破られたとしても、敵は更にもう一つの馬出しを攻略しないと前に進めない。二の曲輪南馬出と二の曲輪東馬出の攻撃で敵はかなりの消耗をしているであろうから、これまでを攻略することは容易ではなかっただろう。


二の曲輪北馬出

北側にも馬出が置かれていた。一番北にある小さな馬出しが二の曲輪北馬出で、その隣にあるのが二の曲輪中馬出。縄張り図から見ると、この二つは繋がっている。それぞれが独立した馬出しと言うよりは、連立丸馬出とでも言うのだろうが、これもアイデアに満ちた馬出と思う。それぞれの馬出を見ていると、武田氏の凄さが見えてくる。戦国時代の武田信玄の率いる甲斐軍団は日本で最強の軍事組織と考えられており、武田信玄が上京途中、尾張の織田信長攻めの前に病死しなければ、織田信長が点火を取ることもなかったかもしれず、武田信玄が信長に代わって天下をとっていただろう。それほど武田勢は強かった。武勇だけではなく、この様な築城にも奇抜なアイデアが出てくることがその強さの一要素であったと思われる。


二の曲輪中馬出


二の曲輪

2010年発掘調査が行われ、現在わかっている縄張りはほとんどが徳川時代に改築されていることが判明している。徳川がこの城を落として、武田氏攻略の拠点として使ったのは15年間で、その間に手を加えたのであろう。この城はあくまでも戦時の拠点として使われたので、この地を治めるための城ではなかった。大手曲輪、二の曲輪、本曲輪はあくまでも城の防備の砦としての機能であっただろう。二の曲輪が何に使われていたのかは書かれていないが、武器、食料の貯蔵や兵士の宿泊所ではないだろうか。二の曲輪の外側には馬出のある外堀、内側には本曲輪との間に内堀がめぐらされている。


内堀

本曲輪をほぼ全周囲んでいる。


カンカン井戸

内堀に井戸跡がある。本曲輪からここまで降りてきて水を汲んでいたのだろう。


水の手曲輪

本丸と二の丸にもう一つ曲輪がある。内堀と外堀が合流する様な場所にある曲輪。今でも一面水が林の中を薄く覆っており、ジメジメした場所だった。名前から想像するに、先ほど見たカンカン井戸と同じ様な井戸がいくつかあって、水回りの作業をするところだったのだろうか? 何のための曲輪かは見つからなかった。本当はそれぞれの曲輪に何があったのかが、その城の歴史を知るには重要だと思う。どの様に生活していたのか、どの様な縄張りが工夫されていたのかなどが推し量れるのだが...


本曲輪虎口

二の曲輪の中馬出と反対側に本曲輪へ入る土橋がある。これが本曲輪からの虎口になる。縄張り図では本曲輪と二の曲輪との公式の通路はここだけの様に見える。


本曲輪

ようやく本曲輪に到着。ここには大将と重臣の作戦本部があった場所。この城は徳川の高天神城攻略のために築かれたので、城主がこの地を収める城ではく、純粋に戦闘に絞った城だった。

本曲輪からの風景。大井川が近くに見える。

これで諏訪原城見学は終了。ただ、あとで調べたところ、もう一つ曲輪があった。縄張り図にも出ている出曲輪と呼ばれた出丸だ。城から少し離れたところにポツンとあり、観光案内もなかったので見落としてしまった。また東海道を走ることが必ずあるだろうから、次回は行ってみようと思う。



(25) Nissaka Shuku 日坂宿 (にっさか)

日坂宿は東海道25番の宿場で金谷宿から 1里24町 (6.5km) の距離。本陣1軒、脇本陣1軒、旅籠33軒、戸数168戸、人口750人。この日坂宿は東海道で三番目に小さな宿だった。


菊川坂

諏訪原城には、結局閉館時間までいてしまい。4時を過ぎている。今日は掛川まで走る予定。安宿が掛川までなかった。ここからは14kmほどある。掛川宿まではまだもう一つ日坂宿があり、見学をしながら行くと、最低でも2時間はかかる。日の暮れるのも早くなっているので、宿に着くのは暗くなってからだろう。ここから日坂宿までは下りになる。旧東海道は菊川坂の石畳道がある。金谷坂と同じ様になっている。この石田谷を歩くと20分程かかるらしい。ここに自転車を置いて往復すると1時間ほどかかり日が暮れてしまう。自転車を押して降りる手もあるのだが、どれほどの坂なのかもわからないし、石畳を自転車を押して降りるのは登るよりもきつい。時間がないのが残念だが、この石畳を通るのは断念して、自動車道路で日坂宿まで向かうことにした。


秋葉常夜燈

火難をよける日伏の神として宣伝された秋葉寺が組織した講を信仰し、1856年 (安政3年)に建立された。


本陣跡

日坂宿本陣を担当したのは扇屋。嘉永5年 (1852年) の日坂宿の大火で全焼、再建後、明治3年 (1870年) に閉店。


日坂宿にあった宿屋がまだ残っている。それ以外にも当時何を秋なっていたかを示す看板が民家に掲げられていた。


問屋場跡

問屋1人、年寄4四人、帳付5人、馬指3人、人足割3人、同下役6人が仕事をしていたといわれる日坂宿問屋場跡


高札場跡

天保年間の高札八枚 (親子高札、毒薬高札、切支丹高札、火付高札、徒党高札、駄賃高札、伝馬高札、駄賃増高札) が復元されている。


下木戸跡

通常宿場では門を建てて木戸 (見附、棒鼻などいろいろな名称がある) としていたが、小規模であった日坂宿は小さな宿場であったので、古宮橋の架かる逆川のこの場所が「下の木戸 (下木戸)」となっていた。有事の際には、宿場の治安維持のために橋をはずしたとも伝えられている。


伊達方一里塚

日本橋から57番目の志太一里塚跡がある。この一里塚の前は53番目の金谷の一里塚だったので、3つの一里塚を飛ばしてしまったことになる。調べると54番目と55番目はまだ所在地が特定されていないそうだ。56番目は佐夜鹿の一里塚で菊川坂を降りたところにある。菊川坂は通らなかったので佐夜鹿の一里塚はパスとなってしまった。この伊達方一里塚についたのはもう5時を過ぎてしまい。もう暗くなっている。写真をとったが、暗くてはっきりとは写らなかった。


これで今日の見学は終了として、ここからは旧東海道を通って掛川に向かう。途中で史跡もあるだろうがもう暗いので、明日の朝、もう一度戻って見学することになるだろう。









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