Tokaido 東海道 10 (8/11/19) Ishigakiyama Castle Ruins 石垣山城跡

  • Ishigakiyama Castle Ruins 石垣山城跡
  • 小田原城天守閣資料館
  • 常盤木門SAMURAI館
  • NINJA館 (歴史見聞館)

昨日、一昨日と小田原城の城跡を巡った。小田原合戦の北条氏側の史跡中心の見学だったが、今日は、その北条氏を攻めた豊臣側の史跡を訪れる。石垣山城で、一夜城として語り伝えられている城だ。宿からのルートを検索して分かったのだが、石垣山城は小田原城まで4Kmの距離しかない標高270mの石垣山にある。山麓の早川駅前の駐輪場に自転車を停め、徒歩にて2.3kmの登山道を進み頂上にある石垣山城に向かう。


登山道には退屈しない様に、小田原合戦に関わった人たちのプロフィールを紹介するパネルが所々に配置されて、それを目標に進む様になっている。

パネルを写真に撮り、読みながら登り、石垣山城に到着。



Ishigakiyama Castle Ruins 石垣山城跡

この石垣山城は豊臣秀吉が小田原の北条氏を攻めたときに築いた城で一夜城として有名。この一夜城については色々な逸話が残っている。城ができるまで周りの木を切らずに隠しており、完成と同時に木を伐採して一夜にして城が現れ、北条氏は驚き戦意喪失で降伏したとか、伊達政宗が小田原に参戦の為に来たときに城が紙を貼った張りぼてであることを見抜いたとかあるが、どれも後世の作り話と思われる。城を見てまわった印象はこれは普通の城以上に立派だった。敵の城を攻める際に、その城の近くに付城を設ける事が良くあるが、城とは言っても砦の規模であった。一夜城と聞いていたので付城程度のものと思っていたが、全く予想とは違った。石垣も堀もある。幾つもの曲輪がある。これは立派な城塞だ。とても短期間で築ける様な城では無い。北条側の記録では天正18年の4月6日に工事開始、完成が6月20日なので3ヶ月半かかったことになる。3ヶ月半でもかなり短期間だが昼夜、人を倍増し、あらかじめ材料を加工しておけば、体裁だけは可能だったと思う。北条が完成まで知らなかったとは考えられないが、どんどん築城が急ピッチで進んで行くことに恐怖感を持ったと推測できる。これが秀吉の狙いだった。この時は北条側の西側の要の韮山城や山中城も落城し、関東にある城も殆ど攻め落とされて、小田原城は孤立していた。
この地図を見ていると、まだ訪れていない城がある。これを見せられると、行ってみたくなる。
秀吉は兵21万で小田原城を包囲、北条は僅か3万4千で誰が考えても勝ち目は無い。
小田原城で籠城という方針は、秀吉軍はいずれ兵站の問題で撤退するだろうとの目論みであったが、秀吉はこの時期には物流のルートなどは整備が終わっており、兵站の補給には問題が無かった。この様な状況で北条側は以前の見通しが甘かった事と、秀吉の権力を見誤った事を気付いただろう。北条五代の善政や栄華で関東では敵無しだったのでショックは倍増。家臣の無事と引き換えに五代当主氏直が切腹を申し入れての降伏は、この時点ではこれ以外の選択肢はなかったであろう。
インターネット城にはこの石垣山城の復元図があった。決してにわか仕立ての城では無い事がわかる。

[東登城路]  城への入り口は二つの曲輪の間にある。向かって左側が南曲輪、右側が南曲輪。

入り口は門があったと推測され、それを潜ると東曲輪と南曲輪の間に細い登り道がある。

[東曲輪]  東曲輪は上段、中段、下段に分かれており、石垣は無かった様で、土塁の上にあった様だ。


[南曲輪]  南曲輪は崩れている部分もあるが、石垣が残っている。


[二の丸 (馬屋曲輪)]  南曲輪と東曲輪から東側には馬屋曲輪と呼ばれた二の丸がある。二の丸へは高い石垣の上にある登城道が通じている。(石垣の写真は東曲輪から見上げた所)

二の丸はかなり広い広場になっている。見えている石垣は一段高い所にある本丸のもの。伝承ではここに馬屋が置かれていたそうだ。
小田原方面に櫓台跡があった。ここからは山への登山道が監視できる。
馬屋曲輪 (二の丸) と北曲輪 (三の丸) の境ぐらいに展望台があり、そこからの風景。ここからは小田原城は見えなかったが、当時は見えていたかも知れない。

[井戸曲輪]  二の丸から本丸とは反対側に井戸曲輪がある。北口中門から井戸曲輪に降りる。

もともと沢の地形を利用して石垣の壁で囲んで造られたと書かれてある。淀君化粧井戸とも呼ばれている。淀君がここまで降りてきた訳では無いだろう。この城には淀君も来ていたのでその様な名前を後につけられたのかも。
井戸曲輪を囲む石垣跡

[北曲輪]  井戸曲輪を囲む石垣から強引に斜面を降りて北曲輪があっただろう場所に行ってみる。跡地としては整備されていない。見学コース外。石垣は所々に残っている。少し進むと開けた場所に出る。ここから見える斜面の上が北曲輪があった場所。木が鬱蒼と生えて北曲輪には登れず、引き返す。


[西曲輪]  二の丸に戻り、今度は本丸跡の下を南西に向かうと西曲輪に出る。広い空き地になっている。ここで茶室を作り宴会を開いたと伝わる。


[本丸]  二の丸から本丸へは本丸登口がありこれを登り、北口門を通る。北口門は枡形になっていたと推測されている。

南曲輪のすぐ上の南腰曲輪からも、東口門の本丸への道がある。
本丸はかなり広い曲輪。

[天守台]  本丸の西曲輪の方に天守閣があった場所。本丸からは小田原城が見える。

これで石垣城見学は終了。この城跡の規模にも驚くのだが、小田原城を攻める為だけに、これほどの城を築いたのではないだろう。この城での戦闘を想定はしていなかったと思う。何万人もの兵を長期間駐留させて北条が降参するまで待つ。これは秀吉の位攻めで、北条を威嚇するという目的以上に、馳せ参じた諸侯への威嚇の意味合いの方が強い様な気がする。小田原攻め自体も北条を滅ぼすと言う目的以上に天下に秀吉の威光を伝える目的で仕掛けられたのだろう。この様な過剰な城の築城を秀吉は天下統一の仕上げのシナリオを入れていたと思う。これを見るだけでも、当時の秀吉の権勢が推し量れる。
帰りは登ってきた道とは違う細い登山道で下る。



一昨日の小田原城見学では、資料館など城跡に設けられた施設見学の時間が無かったので、石城からの帰り道にその施設を観る事にした。



小田原城天守閣資料館

展示はパネル展示が殆どで、古文書とか、壺や皿が置いてある。展示の殆どは北条氏に関わる物で、内容はしっかりしていると思ったが、ある部分の展示は場所を埋めるだけの物で、アイデアに乏しいと感じた。ただ、全体的にはまとまっており、良い展示ではある。特別展示として「伊勢宗瑞の時代」をやっていたが、特別展示としては内容がお粗末だった。近年新たに判明した内容の発表と書かれていたが、研究者だけが興奮する発見だろう。それが何を意味するのか、どう表現するのかが稚拙であった。早雲没後500年の企画もので、何かやらねばと言う事で、この研究者に依頼したのだろう。スペースを埋めるだけのものしか出てこ無かったのだろう、付け焼き刃の展示が目立った。常設展示の方がはるかに面白い。ここに展示されていた資料は小田原城や石垣山城のレポートに含めているので、ここにはそれ以外の展示で興味を引いたものを載せておく。



[小田原北条氏]


[小田原城]


[江戸時代 小田原藩]


常盤木門SAMURAI館

展示は甲冑とサムライのプロジェクションマッピング。何を伝えたいのがまるで分からない。武士の心と言うテーマを出しているようだが、内容がまったく無い。

展示はこれが殆ど全部。甲冑が武士の心では無いだろうに。
プロジェクションマッピングシアター
映像は綺麗だが、伝える物が無い。入場料を取れる内容では無い。武士の心を取り下げ、無料にすればまだ我慢できるかな。


NINJA館 (歴史見聞館)

ここは更につまらない。歴史見聞館とあるが、歴史を伝えるような展示では無い。歴史見聞館の看板は下ろすべきだ。小学生までの幼稚なお遊び。まだどこかにある忍者村の方がエンターテイメントとしてははるかに面白いだろう。今年リニューアルで開館したらしいが、小田原城の素晴らしさに水をさしている様に思える。
少しだけ忍者についての紹介だが、もっと忍者がどの様な歴史背景で生まれ、どの様な活動を行い、どの様にあつかわれていたか、忍者が時代と共にどう変わっていき、消滅したかとかについての説明が欲しい。
風魔忍者は山田風太郎の忍者小説で多く取り上げられているが、フィクションで忍者の実態とは異なっている。この歴史見聞館もその路線。
これで小田原城とそれにまつわる小田原合戦の史跡は殆どまわることができた。みっちり三日間使った。明日は酒匂川のサイクリングロードを走り、明神ヶ岳の山登りで小田原の自然に触れる予定。


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