Tokaido 東海道 09 (7/11/19) Odawara Castle Ruins 小田原城跡 ② 八幡山古郭/総構
八幡山古郭
- 東曲輪
- 本曲輪
- 西曲輪
- 御前曲輪
- 毒榎平
- 三ノ丸新堀
- 小峯御鐘ノ台大堀切東堀
総構
- 小峯御鐘ノ台大堀切
- お鐘ノ台
- 大外郭堀/香林寺山西
- 水之尾口櫓台
- 稲荷森
- 山ノ神堀切
- 城下張出 (平場)
- 井細田口
- 蓮上院土塁
- 徳川家康陣地跡 (11/5 訪問)
- 山王神社 (山王曲輪) (11/5 訪問)
- 北条稲荷 (11/5 訪問)
- 早川口遺構 (11/5 訪問)
- 鉄砲矢場
その他
- 北条早雲公像
- 高長寺
- 大稲荷神社
- 浄永寺
- 大久保神社
昨日は小田原城の本丸、二の丸、三の丸を1日かけて見た。結局、資料館は時間切れで見る事が出来ず、今日行こうかとも思っていたが、予定を変更して北条氏が小田原に居城を移した時に築いた八幡山古郭と秀吉の小田原攻めに備え構築された総構と呼ばれている城の外郭に行く事にした。
インターネットに構成がよくわかる地図があった。
八幡山古郭 (はちまんやまこかく)
八幡山古郭は15世紀末に伊勢宗瑞 (北条早雲) が八幡山に城を築いた大森藤頼 (扇谷上杉家の家臣) を破り、北条氏の小田原支配が始まった。北条早雲は居城を韮山に置いていたが、二代 北条氏綱が居城を韮山からこの小田原の八幡山古郭に移した。これ以降に城を拡張し現在の小田原城の地に城の中心部は移った。この八幡山古郭は江戸時代には使われず放置されていた。
八幡山古郭には本曲輪、東曲輪、鍛冶曲輪、御前曲輪、西曲輪等で構成されていた。
- 東曲輪
小田原城本丸のすぐ北にある。石垣ではなく巨大土塁の上にあった。まさに戦国時代の城だ。
ここからは小田原城天守閣が目の前にそびえている。
箱根の山々も臨める。
- 本曲輪
東曲輪の奥には品曲輪があったのだが、現在は住宅街になっている本曲輪の遺構は無くなっている。
- 西曲輪
ここも跡地には高校が建っている。
西曲輪を囲む堀に障子堀形式の三味線堀が見つかっている。
- 御前曲輪
更に西の方向の奥に進むと御前曲輪があった。現在は城山公園内の陸上競技場になっている。
ここからの小田原市風景
更に山をあがると八幡山古郭の最西端の毒榎平に出る。現在は浄水場と公園になっている。
ここからは小田原城を太平洋をバックに見る事ができる。
- 三ノ丸新堀
城が現在の小田原城の場所に拡張されると、この八幡山古郭は三ノ丸の西の守りの要となり、更に新堀を造り、より一層堅固な城になって行く。
- 小峯御鐘ノ台大堀切東堀
上杉謙信や武田信玄などの攻撃を受け、籠城でこの攻撃を退けてはいるが、二の丸付近まで攻め込まれた。防衛力強化の必要性を痛感し、三の丸を強化した。北条三代目氏康は八幡山古郭の最西端の毒榎平の西側に小峯御鐘ノ台大堀切東堀を築いた。かなり大きな堀。後に、秀吉の小田原攻めの備えとして西堀と中堀が増築される。
総構
総構は豊臣秀吉が小田原の北条氏を攻める際にその備えとして、小田原城を囲む全長9キロに及ぶ土塁を張り巡らした。今日走った走行ログの外側がほぼそのルートにあたる。徳川家康が江戸幕府を開いた後に、この堅固な城で謀反が起きる事を危惧し、この総構を破壊したのだが、現在でも総構が部分的に残っている。
小田原合戦 布陣
小峯御鐘ノ台大堀切、西堀
この地域がなぜか多く遺構が残っているので、総構見学はここからスタート。ここにはもともと土塁と空堀があったが、秀吉の小田原攻めの備えとして複雑な構造に増築している。西堀と中堀を追加して三重にしている。この小峯御鐘ノ台大堀切ので北西にも出っ張る様な形で土塁を築いているところから察するに、ここは防衛の要と考えていたのだろう。
中堀
三つの堀は別の堀と土塁で繋がっている。
お鐘ノ台
大外郭堀/香林寺山西
水之尾口櫓台
総構の最西端でここには数基の櫓が建てられ、箱根からの尾根沿いの攻撃の防備の役割をしていた。豊臣秀吉軍の織田信包がここに対峙していた。
稲荷森
堀の深さは10mもあると言う。
山ノ神堀切
小田原城の北に谷津丘陵があるが、(この地域は谷津と呼ばれている) その丘陵の防備をいていた。荻窪口の虎口と呼ばれていた。小田原合戦では豊臣秀次がここの北条軍と対峙していた。江戸時代にはここに門が設けられ、通行を管理していた。
城下張出
ここはかなり小田原城に近くなってきており、八幡山古郭のすぐ北にあたる。総構の最北端の要。ここでの戦闘を想定して張出が築かれている。小田原合戦では蒲生氏郷の朝ケ坂陣場へ直線で350mの距離。
井細田口
甲州街道の出入口で、三ノ丸はすぐそこ。現在は市の中心にかなり近い。かつては箱根丘陵がここまで伸びてきていたらしい。総構の虎口があった。その縄張りが現在の道路になっている。
蓮上院土塁
この土塁の東側は渋取川を利用した水堀が設けられ、その対岸には徳川家康が対峙していた。土塁中央部に大きな窪みがあるが、これは太平洋戦争で終戦日の前の日に着弾した跡。元々小田原は米軍の標的リストには入っていなかったが、別の都市を攻撃した帰路に残った爆弾をここに落としたと言われている。運が悪い。これが無かったら、小田原にはもっと史跡が残っていただろう。
徳川家康陣地跡 (11/5 訪問)
総構とは違うのだが、蓮上院土塁の北条軍と対峙した徳川家康の陣跡が蓮上院土塁のすぐ近くにあった。
山王神社 (山王曲輪) (11/5 訪問)
小田原合戦の時には総構の山王口があった所。現在、ここには山王神社が建っている。この神社は元々は北条家の山王曲輪にあったが江戸時代に、暴浪により破壊され、ここに移された。
北条稲荷 (11/5 訪問)
北条氏康の死を老狐の祟りとして創建したもの。そのためかどうかは分からないが、狐は檻に囲われていた。
早川口遺構 (11/5 訪問)
早川口遺構は、二重外張と呼ばれる土塁と堀を二重に配した構造となっていることから、この付近に出入口である虎口があったと考えられている。
鉄砲矢場
鉄砲と付いていても鉄砲と関係があるかどうかは不明。この地は、小田原城の三の丸空堀と総構の空堀とに挟まれた東西に細長い地域で二重戸張 (ふたえとばり) と呼ばれる虎口があった。
その他
今日は八幡山古郭と総構以外にも数ヶ所訪れたので、ここに掲載しておく。
北条早雲公像
小田原駅のロータリーにここで最も人気のある北条早雲の像があった。色付きの銅像かと思い近くと黄色のウインドウブレーカーを着せてもらっていた。少し変だ。後で聞くと、ラグビーのワールドカップでオーストラリアチームがここで練習をしていたので、オーストラリアチームのウインドウブレーカーを着せていたのだった。何かイベントがあるとそれに関係ある服を着せているそうだ。
高長寺
高源院と隣接の長吉寺が合併され、それぞれの頭文字を取って高長寺と名付けられた。高源院は武蔵越生龍穏寺の末寺で栖龍山と号し、開山梅臾林呑(北條氏直の伯父)、開基である高源院長流泉香大姉は北條氏康妹と言う北条氏に深く関わりがある寺院。
大稲荷神社
北条時代の天正18年に創建。この神社でも狐が檻に入れられている。盗難防止? 祟りを恐れて?
浄永寺
弘安3年 (1280年)、北条時宗の家臣の風祭大野亮光秀が、日蓮聖人に帰依し、日蓮聖人から曼荼羅と蛇身解脱画像を貰い受け、自分の屋敷に法華堂と七面社を造ったのが起源とされる。その後、永正15年 (1518年)、日形 (北条氏綱の伯父) が現在の場所に移転再興、この時の堂宇は、北条氏綱の建立と伝わる。
大久保神社
北条家氏が小田原合戦で降伏後、小田原城主となった徳川家康の古参家臣の大久保忠世を祀っている神社で、さぞかし立派なものかと想像していたが、草は伸び放題であまり手入れがされていないようだ。小田原藩主であった大久保氏や稲葉氏はここでは全く目立たない。敗れた北条氏が今なお人気がある。大久保さんには少し気の毒な気もする。
今日は小田原城の起源とされる八幡山古郭と総構をまわり、小田原城がこれ程大きかった事に驚いた。明日は小田原合戦の豊臣秀吉が築いた一夜城として知られている石垣山城に行く予定。更に2日滞在を延ばし、小田原は一週間の滞在となりそうだ。
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2019.11.09 04:32