Okinawa 沖縄の旅 Day 13 (14/08/19) Kuminda Area 久米村周辺

Former Nishinjo 西武門跡
Remains of Chijibaru Cemetery 辻原墓地跡
Chiji Village 辻村跡 (チージムラアト)
Birthplace of Tei Junsoku 程順則生家跡
Sanmonji Park 三文殊公園
Former United States Civil Administration Of The Ryukyu Islands 米国民政府跡
Remains of Uchiyamaku Yama 内兼久山跡
Former Governor Residence 知事官舎跡
Machu Yama 松尾山跡
Okinawa Prefectural Hospital 沖縄県立沖縄病院跡
Site of Yuna-Nuka ユウナヌカー跡
Former Wakasamachi Village School若狭町村学校所跡
Former Shimajiri District Office 島尻郡役所跡
Akachira アカチラ
Former Residence of Naha Ooamu 那覇大阿母屋敷跡
Remains of Wakuta Jizo Shrine 湧田地蔵堂跡
Former Butokukan 武徳殿跡
Former Nana Railway Station 那覇駅跡
Former Matsuda Bridge 松田橋跡
Nakamo Playhouse Site 仲毛芝居跡
Maruyamago Site 円山号跡
Mi Gusuku Castle Ruins 三重城跡
先日、久米村を周ったが、まだ見れてない所が数多くあるので、もう一度行く事にした。

Former Nishinjo 西武門跡

先日行った久米村の入り口の大門から久米村大通りが走り、北の入り口の西武門。西とは言うもののこれは北門。沖縄では北の事を「にし」と呼ぶので、この漢字が充てられた。ちなみに東(アガリ)、西(イリ)、南(フェー)、北(ニシ)となり、門はジョウと読む。沖縄の古い民謡にある「西武門節」は、この後に行く辻遊郭の遊女 (ジュリ) とそこへ通う侍 (サムレー) の情歌。1番から7番まである。
  男 イチュンドヤー(もういくよ)カナシ(愛しい人)
  女 マチミソーリー(お待ちください)サトゥメー(あなた様)
  ニシンジョウ(西武門)ヌ(まで)エーダーヤ(間は) 
  ウトズムサビラ〈お伴しましょう)

Remains of Chijibaru Cemetery 辻原墓地跡

辻原にあった墓地群跡。浮島だった那覇に、人三十六姓が、久米村を形成し始めた14世紀後半以降から造られたと思われる。辻原の墓は、東村・西村に居住した人々の墓も造られ、那覇の一大墓地地帯だった。色々な形式の墓があった。亀甲墓 (かめこうばか) や破風墓 (ハフーばか) など沖縄式の墓が多数あった。旧暦3月の清明 (シーミー) の時期には、墓に親戚一同が集まり、墓前に重箱を広げ、賑わいを見せたという。終戦後の1953年 (昭和28) の区画整理で1,700基余りの墓は、すべて移転し、海岸丘陵は削り取られた。辻原跡地は歓楽街として整備された。確かに、現在もこの周辺には多くの風俗店が商売をやっていた。

Chiji Village 辻村跡 (チージムラアト)

西武門の外側すぐに花街があった。辻村 (チージムラ)、または辻 (チージ)と呼ばれていた。辻の遊女はジュリ (侏イ离・尾類) と言った。このジュリは15世紀以降、冊封使一行や大和商人等をもてなしたといわれる。薩摩侵攻後、租税が負担となり農村の娘が身売りをし、私娼が増えた。この管理強化で、1672年、羽地朝秀によって辻・仲町の遊郭がつくられた。明治30年代には遊女の数は900人を数えたと言われている。この頃、琉球の花街はこの辻と仲島 (県庁前のあたり)、渡地 (那覇港付近) の三ヶ所があり、明治期まで存続し、1908年 (明治41) に仲島と渡地の花街は廃され、辻に統合。ジュリは京都の芸妓に近い。料理や唄・三線・琴・踊りなどの芸事にも磨きをかけていた。組織も京都の花柳界と近く、アンマー (ジュリの抱え親・貸座敷の女将)を筆頭に、ジュリ、ナシングヮ (アンマーの子供)、チカネーングヮ (辻に売られた子、コーイングヮともいう) などで擬制的家族ができていた。更に、言葉・立ち居振る舞いから、衣裳・髪型・料理・芸能に至るまで独自の文化を創り上げていたのもよく似ている。1944年 (昭和19) 10月10日の空襲により消滅し、その幕を閉じた。現在は風俗店街となっており、昔の情緒ある花街では無くなっている。

Birthplace of Tei Junsoku 程順則生家跡

程順則は、1663年久米村生まれ。程順則は中国名で、字は寵文 (ちょうぶん)。父は程泰祚 (ていたいそ) で、中国語の才能を買われ、王府の命により、久米村に入籍、長く途絶えていた程家の跡を継いだ。子の順則は20才から4年間清に留学し、その後も3度中国に行っている。1706年には、正議大夫(進貢副使)として北京へ赴いている。1719年には、紫金大夫 (親方位)に出世し、久米村総役 (クニンダスーヤク 久米村の最高役職) に就く。清から十七史や六諭衍義等を持ち帰り、六諭衍義は八代将軍徳川吉宗に献上され、庶民教科書として全国に普及した。また、孔子廟境内に、琉球で最初の学校の明倫堂を創設 (1718年) し、久米村子弟の教育にあたった。1728年、66歳の時に名護間切 (なごまぎり) の総地頭となり、名護親方と称した。

Sanmonji Park 三文殊公園

三文殊 (サンモウジ) とは蔡温 (大政治家)、程順則 (18世紀を代表する学者・教育者)、スグリ山田 (山田親雲上) を指す。三人の賢人が、琉球の国のことを語り合った場所なので「三文殊」と呼ばれるようになり、いつしかそれが「サンモウジ」という地名になったと言われている。

Former United States Civil Administration Of The Ryukyu Islands 米国民政府跡

沖縄統治のための米国政府の出先機関であった米国民政府の庁舎跡。正式名称は、琉球列島米国民政府 (United States Civil Administration Of The Ryukyu Islands) で、英語の頭文字をとって、ユースカー (USCAR)、または民政府などと呼ばれた。
1945年 (昭和20) 3月26日、米軍は慶良間 (けらま) 諸島上陸、4月1日の沖縄本島上陸により始まった沖縄戦では、米軍は軍政施行を宣言 (ニミッツ布告) し、本島上陸後、読谷村 (よみたんそん) 字比謝 (ひじゃ) に軍政府を設立した。軍政府は、戦闘期間中、避難民の収容、食料配布、収容所の管理・運営などを行った。沖縄戦終結後、米軍政府は、具志川村栄野比 (ぐしかわそんえのび) に置かれ、1946年(昭和21)10月、玉城村親慶原 (たまぐすくそんおやけばる) へ移転した。1946年4月24日に石川市東恩納 (いしかわしひがおんな) で発足した沖縄民政府も、軍政府移転に伴い、近接する佐敷村新里 (さしきそんしんざと) へ移転した。1949年 (昭和24) 7月25日、沖縄民政府は、戦災を免れた旧上山 (うえのやま) 国民学校 (元那覇尋常小学校) に移転したが、すぐに隣接する旧天妃 (てんぴ) 国民学校に移った。12月には米軍政府が旧上山国民学校に移転し、軍政府長官シーツ少将は、那覇市を沖縄の首都とすると発表した。1950年 (昭和25) 12月15日、軍政府が廃止され、替わって民政府が設立された。軍政から民政への移行は、沖縄住民の協力を得て、沖縄の長期的統治を可能にするための処置といわれる。以後、この一帯は、1953年 (昭和28) に竣工した琉球政府ビル (現沖縄県庁所在地 先日訪問)に、米国民政府、琉球政府 (1952年4月1日発足) が移転するまで、沖縄行政の中心地となっていた。米国民政府移転後、跡地に上山中学校が開校し、現在に至っている。
琉球政府まで発足させて、米軍の琉球独立はどれ程真剣だったのかここには興味がある。結局琉球国は設立しなかった。米国は少数民族独立よりも軍事を優先し、日本に返還し、米軍基地を維持した方が得と考えたのであろう。政治とはいつもそうだ。大義名分はいつも実利に負けてしまう。実際に返還後、沖縄の半分ぐらいが米軍基地だった。日本政府との出来上がっていた。日本政府も (これは想像だが) 米軍から沖縄独立か軍事基地継続等の条件を出され、軍事基地等の条件を飲んでも日本への返還を選んだのだろう。拒絶していたらひょっとして琉球国が存在していたかもしれない。

Remains of Uchiyamaku Yama 内兼久山跡

この地にあった小丘跡。寄上森 (ヨリアゲムイ) ともいう。内兼久山は、松尾山 (マーチューヤマ) から南西に続く丘陵の一部で、久米村 (クニンダ) の風水に係る丘であった。名称の由来は、砂地を表す「カニク」 に通じ、「内浜の山」といわれる。山の西側斜面に沿って久茂地の支流が流れ込み、大正初期頃までは、小舟が航行して、この川の河口辺りは港小 (ンナントグヮー) という地名が残り、浮島であった那覇に久米村が形成された頃、この地が港であったといわれる。山には内金宮嶽 (ウチガネクダケ)、東側には、アーチ型の石門がある内金宮 (ウチガネク) の2つの拝所があった。現在の内兼久山一帯は、1953年 (昭和28) から始まった区画整理事業により、山は削られ、公園ができ、住宅が立ち並んでいる。

Former Governor Residence 知事官舎跡

大正から戦前期まで、この地にあった沖縄県の知事官舎跡。1879年 (明治12) 3月、明治政府は沖縄県を設置した (琉球処分)。県庁は、西村にあった旧薩摩藩在番奉行所があてられ、初代県令 (1886年pから県知事) には鍋島直彬元肥前鹿島藩主が就任した。1945年 (昭和20) の沖縄戦に至るまで、27名の県令 (5代)・県知事 (23代) が政府から派遣された。当初の知事官舎の場所は不明だが、1892年 (明治25) 7月に就任した第4代奈良原繁知事は、那覇区字久茂の官舎を住居とし、1908年 (明治41) 4月に就任した第5代日比重明から第8代小田切磐太郎知事までは、通堂官舎が使用された。1916年 (大正5) 11月、第9代鈴木邦義知事の時に、松尾山(マーチューヤマ)の西端、通称 福木山と呼ばれる地に、知事官舎が新築された。以後、1944年 (昭和19) 10月10日の10・10空襲で焼失するまで、歴代知事の官舎として使用された。終戦後、跡地は米人向けの外人住宅地となっていたが、後に開放され、1992年 (平成4) に開園した福州園の敷地の一部となった。
先に触れた、琉球処分で琉球国を廃止して、沖縄県を設置した時の県庁職員の人員構成が沖縄県博物館にあった。沖縄の人の割合が極端に少ない。特に各地域の在勤官には一人だけ。日本政府が何とか沖縄を牛耳ろうとしていることがうかがえる。最期の琉球王は強制的に東京に移住させられた。火種を沖縄には置いておきたくなかったのだ。支配とはこの様なものなのか、少し、日本人として寂しく感じる。
近くに沖縄らしい食堂があった。昔はこんな建物だらけだったのだろう。

Machu Yama 松尾山跡

浮島と呼ばれた那覇の中核をなした丘陵跡。松が生い茂る山林は松尾山 (マーチューヤマ) と呼ばれた。現在は松尾山公園になっている。琉球王国時代、松尾山は久米村の所有地であったが、1899年 (明治32) 土地整理事業により県有地となった。その前後から松尾山の開発が始まり、那覇尋常高等小学校、那覇地方裁判所、知事官舎、沖縄県立第二高等女学校、松山尋常小学校、沖縄県立沖縄病院、裁判所官舎、連隊区司令部及び官舎等と、公的施設が集中し、那覇の中心地であった。
1944年 (昭和19) の10・10空襲や、その後の地上戦により、松尾山一帯の施設は焼失した。終戦後、1951年 (昭和26) には小学校・病院跡地に那覇商業高等学校が開校。その他の場所は外人住宅地となっていたが、1977年 (昭和52) からは公園整備事業が開始され、現在、松山公園・福州園となっている。

Okinawa Prefectural Hospital 沖縄県立沖縄病院跡

Site of Yuna-Nuka ユウナヌカー跡

この地にあった村ガー(共同井戸)跡。近くにゆうなの木があったことから、「ゆうなの井戸」と呼ばれたという。浮島と呼ばれた那覇は、周りを海に囲まれているため、多くの井戸水は塩分が多く、飲料には適さなかった。そのため、那覇港南岸の落平 (ウティンダ) の水が、那覇市中や入港する船舶に向けて販売されていた。このような中、松尾山 (マーチューヤマ) 周辺の井戸の水は、飲み水として利用されたという。ユウナヌカーもその一つで、周辺住民の産湯などに使われる貴重な村ガーとなっていた。1879年 (明治12) の沖縄県設置(琉球処分)後、県庁所在地として人口が増加した那覇では、水問題が一層深刻となった。水道敷設計画は何度も持ち上がり、1933年 (昭和8) に念願の水道が敷かれた。水道普及により、ユウナヌカーは使われなくなったが、その後も水への感謝として、周辺住民から拝まれた。ユウナヌカーは、この地にあった沖縄県立第二高等女学校の運動場の一角にあったが、現在、1986年 (昭和61) に整備された松山公園の池として、憩いの場所となっている。
那覇の水は不味い、臭うと言われている。個人的にはあまり気にならないのだが、大体の賃貸物件は浄水器が付いているようなので、慣れない人にはやはりクセがあるのかもしれない。それと沖縄は水は貯水タンクに貯めらられているのがほとんどなので、夏は生温い水道水になる。シャワーでガスで温めなくてもいいので便利ではあるのだが....

Former Wakasamachi Village School若狭町村学校所跡

琉球王国時代の若狭町村の学校所および役所跡。創建年は不明だが、1830 ~40年頃と推定される。村学校所は、士族子弟の初~中級の教育機関で、首里・那覇の各村ごとに建てられた。総数は首里14、那覇6、泊1の計21校であった。士族の子弟は7 ~ 8才で入学し、14 ~ 15才まで学んだ。教科は、三字経 (さんじきょう) の読み書きから、二十四孝 (にじゅうしこう)、小学 (しょうがく)、四書 (ししょ) へと進んだ。各村学校は役所も兼ねており、中取 (なかどり) 1人、筆者 (ひっしゃ) 2人がいた。王国末期の異国船渡来に際しては、異国人に対し、泊村や若狭町村の学校所が、それぞれ泊公館、那覇公館として、対応窓口となった。特に那覇公館 (若狭町村学校所) は、ペリー等と王府高官との諸交渉が行われた場所で、琉米条約の他、琉仏・琉蘭条約が締結された。
琉米修好条約

Former Shimajiri District Office 島尻郡役所跡

1896年(明治29)に設置された島尻郡の行政を管轄した役所跡。島尻群は三山のうち那覇も含め南山領地にあたるが、通常は島尻に含まれない南部離島の島々を含んでいた。(那覇・首里区、島尻・中頭・国頭・宮古・八重山郡)

Akachira アカチラ

旧若狭町村の北東部の海岸砂汀地の名称。「アカツラ」・「明津浦 (あけつうら)」とも記される。名称は海岸付近の地名「アカチラバル」に由来。かつて若狭町北東部の海岸は、東の那覇潟原(かたばる、塩田:現潮渡橋一帯)から、北の雪の崎 (ユーチヌサチ、先日訪問)に続く砂汀地で、歩いて渡ることができたので、「アカチラ道」と称した。琉球王国時代には、首里の士族が人目をはばかり、ここを歩いて遊郭のあった辻に通ったという。戦後の都市計画により、1950年代に潟原を含む海岸一帯の埋立工事が行われ、住宅地へと姿を変えた。

Former Residence of Naha Ooamu 那覇大阿母屋敷跡

琉球王国の女神官の一人 「那覇大阿母 (なはウフアム)」の屋敷跡。敷地の広さは215坪。琉球王朝では国王が女神官を任命していた。国事に組み込まれていた。これが明治まで続いていたとは驚きだ。那覇大阿母は「浜 (はま) の大阿母」ともいい、高級神女 「真壁大阿母志良礼 (マカンウフアンシタリ)」に属す。嘉清 (かせい) 年間 (1522 ~ 1566年)、錢氏与那城親雲上直方 (せんうじよなぐすくペーチンちょくほう)の娘真牛金(モウシガニ)は貞女との評判から、国王尚清 (しょうせい) に召され、国王の子の養母となり、那覇士族の女性の頭 (かしら) となった。この時、那覇大阿母に任じられたという。
那覇大阿母は、代々那覇士族の婦女から選ばれ、楚辺 (そべ) 大阿母・泉崎 (いずみざき) 大阿母とともに那覇地域の祭祀を司 (つかさ) どった。また、中国への進貢船 (しんこうせん) 出船の際は、両大阿母とともに三重城 (ミーグスク) で、航海の無事を祈願した。1879年 (明治12) の沖縄県設置後、那覇大阿母職は廃止され、屋敷地は1911年(明治44)、久茂地尋常小学校用地に組入れられた。

Remains of Wakuta Jizo Shrine 湧田地蔵堂跡

地蔵菩薩を安置したお堂跡。湧田地蔵堂は、真言宗の僧侶日秀上人 (1503 ~ 1577年) が、1538年に泉崎村の南に位置する湧田村に建立した。泉崎・湧田村では地蔵菩薩を村の守護仏として、旧暦の1日・15日、9月9日、10月の「竈まわり(かまどマーイ)」等に拝んだとされる。日秀上人建立の地蔵堂は、湧田の他に、東村・西村の境と若狭町地蔵堂があったが、1944年(昭和19)の10・10空襲やその後の沖縄戦により破壊された。

Former Butokukan 武徳殿跡

大日本武徳会沖縄支部によって建てられた武道場跡。武徳殿は、武道大会や普及・指導の場所として、武道のメッカとされたが、戦時体制下では、軍需物資の保管庫に転用された。1944年 (昭和19) の10・10空襲や、その後の地上戦では、一部損壊しただけで戦災を免れ、米軍より Increate Japanese Style (不滅の和風建築)と賞された。米軍に接収された武徳殿は、1947年 (昭和22) に将校クラブとして改修された。1949年(昭和24)、沖縄民政府に譲渡され、行政庁舎として使用。1959年 (昭和34) からは、警察武道場となった。1985年 (昭和60)、沖縄県庁舎の新築、それに伴う武徳殿の取り壊し計画が発表されると、保存運動も起きたが、1989年 (平成元)に解体され、跡地は沖縄県議会棟敷地の一部となった。沖縄には戦火をくぐり抜けた建物が少ないのだから、是非とも残して欲しかった。

Former Nana Railway Station 那覇駅跡

沖縄における軽便(けいべん)鉄道各路線の起点となった那覇駅跡。那覇駅は、1944年(昭和19)10月10日の空襲により甚大な被害を受けたが、1 ヵ月後には、運行が再開され、沖縄守備隊の兵站輸送や、住民の本島北部への疎開に利用された。しかし、翌年の3月下旬には、米軍の攻撃により破壊され、運休となった。終戦後の1947年(昭和22)には鉄道復興の計画もあったが、幹線道路の整備が優先された。新たな鉄道敷設計画については先日触れた。

Former Matsuda Bridge 松田橋跡

久茂地川に架けられた橋跡。仲毛と対岸の泉崎を結んだ。仲毛は、この一帯に広がっていた久茂地川の中州のこと。埋立後、木橋が架けられたが、1888年 (明治21)、松田氏によって石橋に改められ、これに因んで、松田橋と命名された。1944年 (昭和19) 10月10日の10・10空襲により、橋は橋脚を残して焼失した。戦後、木橋が架けられたが、1970年 (昭和45) 頃、久茂地川の護岸整備により、橋は撤去された。

Nakamo Playhouse Site 仲毛芝居跡

沖縄で最初の常設芝居小屋跡。仲毛演芸場 (ナカモーエンジバ) ともいう。
沖縄の古典芸能を代表する組踊 (冠船踊 かんせんおどり)は、かつては首里士族の子弟によって踊られ、中国からの冊封使節歓待の宴に供された。1879年 (明治12) の沖縄県設置により、職を失った冠船踊経験者の一部は、那覇に出て、思案橋のたもとや久米孔子廟前といった空地に、わらむしろで囲っただけの小屋で踊りを見せ (カマジー芝居)、木戸賃を取って生活の糧にしたという。仲毛芝居も当初は、カマジー小屋で、三間四方の板敷き舞台があったという。最後の冠船踊奉行を務めた小禄按司朝睦 (おろくあじちょうぼく) の子朝亮 (ちょうりょう) は、カマジー小屋や冠船踊出演者の現状を憂い、1891年 (明治24) 頃、県の認可を取り、仲毛芝居小屋を瓦葺きの本建築に改め、仲毛演芸場とした。

Maruyamago Site 円山号跡

沖縄一のメインストリート大門前通りに面して建てられた百貨店跡。店主は兵庫県出身の尾花仲次氏。尾花氏は1879年 (明治12) 生まれ。1912年 (大正元) 8月に来沖し、露天商人から始め、後に化粧品を中心とした雑貨卸問屋 円山号を大門前通りに開店した。1935年 (昭和10)、鉄筋コンクリート造り3階建ての円山号百貨店を新築開店した。百貨店としては山形屋 (1930年開業) に次ぐ出店で、那覇(なは)市民の人気が集まったが、1944年 (昭和19) 10月10日の10・10空襲で半壊した。
現在は跡地にホテルが建てられている。戦後急激に人口が増えているが、この人の様に沖縄でひと旗あげようと移住して来た人が多かったのだろう。

Mi Gusuku Castle Ruins 三重城跡

嘉靖年間 (1522~1566) 王農大親によって国場川河口の北側に築かれたとされるグスク。琉球王国時代は対海賊用の砲台として屋良座森城と共に那覇港を守備していた。南砲台とする屋良座森グスクに対して三重グスクは北砲台となっていた。1609年の島津家久軍の琉球制服の時には、三重城と屋良座森城の間を鎖で繋いで島津の軍船が那覇港に入港するのを阻止。三重城は本来は新城と表記していた。琉球語の「みー」とは新しいと言う意味。新城が三重城に変わったのは、1609年の島津家久軍の琉球制服後、薩摩藩の役人が「みー」を「みえ」と聞いて、三重の字で表記した事による。
近世には砲台としての機能は失われ、那覇を出港する船を見送る場所となっていた。1896年には灯台が設置されたが大きく改変されることもなく、現在も石積みの基礎を見ることができる。また、三重グスクまでの道は臨海堤と呼ばれる海中道路となっており、東側の通堂から臨海寺 (別の場所に移転 後日訪問)、仲三重グスクを経由して三重グスクへ至るように設置されていた。屏風絵には河口から突き出る形で石積みで囲われた空間が描かれているが、戦後に臨海堤は完全に埋められてしまい、現在はその面影を全く見ることができない。
今日は少々オーバーペースで消化不良。1日で見る数は減らさねばと思う。


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