Ride in Setouchi & San-in Day 95 (18/6/19) Chozui Castle Ruins 長水城跡

Yamazaki Castle Ruins 山崎城
Sasanomaru Castle Ruins 篠ノ丸城
Chozui Castle Ruins 長水城跡
先に英賀城を訪れた旅日記に、英賀城攻めで、石山本願寺との和解交渉の結果待ちで戦闘を一時停止していた時に、黒田官兵衛とともに攻めたのが今日行く長水城だ。城訪問の後は小豆島に里帰りをする。
長水城への途中に山崎城がある。山崎地域も秀吉/官兵衛が攻め落とし、一時期は黒田官兵衛が治めていた。ただ、秀吉が攻めたのは、山崎城の北側にある篠ノ丸城と推定されており、現在の山崎城はにその後に築城されたもの。

Yamazaki Castle Ruins 山崎城 (別名:鹿沢城・山崎陣屋)

赤松氏傘下の釜内氏が築いた篠の丸城は1580年 (天正8年) に羽柴秀吉によって攻め落とされ、その後、神子田正治・黒田孝高・木下勝俊が城主となり、木下勝俊時代に現在の山崎城がかれたと推測されている。本格的な城郭の建築は、1615年 (元和元年) に池田輝政の子輝澄が山崎3万8千石で入封した後だが (池田輝澄が1代で改易)、城は未完成のまま終わり、本丸には天守閣は無く、1万石で入封した本多氏が藩主となった1679年 (延宝7年) 以後に陣屋が設置されていた。廃藩置県まで本多氏9代続く事になる。城の本丸跡が本多公園、二の丸などの曲輪跡は、山崎小学校/中学校の敷地になっている。遺構は移設された紙屋門と石垣が残るぐらいだった。
移設された紙屋門
本丸跡は本多公園になっている。石垣は復元されたらしいが城壁門の方はあまりにも石垣の石が揃いすぎていて、復元とは言い難い。遺構として残っていた石垣に近い積み方をして欲しい物だ。
堀跡や搦め手は石標がある。二の丸は文化会館が建っている。

Sasanomaru Castle Ruins 篠ノ丸城

夕方に乗る小豆島行きの船の最終が19:30でそこまでは3時間かかるだろうから、この城は時間があれば登る事にして、素通りで長水城にまずは向かう事にした。標高320mの山なので少なくとも1時間半は見ておく必要がある。これは長水城にどれだけ時間がかかるかだ。結果は、長水城からここに来た時点で16時だった。登って降りてくるだけの時間はのこらなかったので、登城は断念し、山のみを見て我慢となった。

この城は貞和年間(1345年~1350年)頃に赤松貞範によって築かれたと推定されている。 その後は、播磨国西八郡を領した宇野氏の居城長水城の支城となった。宇野氏は毛利氏と通じており、羽柴秀吉が天正8年(1580年)に長水城を攻めた時に秀吉軍と対峙したが、長水城とともに落城。

Chozui Castle Ruins 長水城跡

この宍粟(しそう)を治めた播磨守護・赤松則祐が、文和年間 (1352年-1356年) に築いた。後に則祐の四男・広瀬師頼が城を受けつぐが、4代後の嘉吉元年 (1441年) の嘉吉の乱の後は宇野氏が5代に渡り城主となる。1580年(天正8年)、羽柴秀吉/黒田官兵衛による長水城攻めにより落城。
登り口標高150mのところにあり、山頂580mなので430m登る事になる。登り口はダムの入り口にあり、ダムへ向かう為の広い自動車道で始まるが、直ぐに細い山道になり、石や岩がゴロゴロしている道になり、後半は急な階段道になった。かなりきつい道だった。
途中二の門跡の石標があった山の比較的低い所から城があったようだ。ところどころ土塁の様なものもある。
調べると山全体が山城跡となっていたらしい。それで二の門跡が山の低いところにあったのだ。。山頂の580mの最高所に主郭、尾根に沿って南北に二の郭、更に南の尾根の先端に姫の郭が配置されていた。本丸の主郭部には、石垣が築かれている。現在も、曲輪、石垣、土塁、堀切などの遺構が残る。
二の郭 石垣の遺構が残る。二の郭は尾根沿いに数段の曲輪から成り立っている。二の郭の端からは下界が見渡せる。
主郭は石垣で囲まれている。現在は寺になっている。
姫の郭への道は結局わからず、下山する事にする。自動車が山の中腹まで来れる道があるが、そちらに行くと遠回りになるので、今日は登って来た道を素直に引き返す事にする。あまり時間に余裕がないので、迷わない道にした。
結局、篠ノ丸城には行けなかった。小豆島へのフェリー乗り場には出船20分前に着いた。今日は久々に布団で寝れる。数日滞在して、また姫路に戻って来る予定。黒田官兵衛所縁の地巡りは西播磨は一段落、姫路に戻った後は東播磨を巡る予定だ。

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