Ride in Setouchi & San-in Day 94 (17/6/19) Kozuki Castle Ruins 上月城跡

Fukumoto Castle Ruins 福本城跡
Kozuki Castle Ruins 上月城跡
Shirahata Castle Ruins 白幡城跡
今日は少し遠いのだが、山中鹿之助の最後の戦いの場所となった上月城に行く事にした。100km超えになるだろうから朝一番で出発。

Fukumoto Castle Ruins 福本城跡

上月城の後に行ったのだが、上月城をせめるにあたりまずは周りの城を落とし上月城を包囲するに至った。その城の一つがこの福本城。築城は元弘3年(1331年) に淀の久我畷の戦いにおいて活躍した佐用範家が建武年間(1334年 - 1338年)と言われる。今でもこの地方は佐用群と呼ばれている。その後、この地方に勢力を持っていた赤松氏36人衆のうちの福原氏が城主で、東の利神城、西の上月城、南の高倉城と共に赤松氏の重要拠点だった。
天正5年(1577年)、羽柴秀吉が黒田孝高、竹中重治らの諸将に攻めさせ、城主の福原則尚は城に自ら火を放ち菩提寺の円福寺にて自刃して城は落城。
南側には川、背後には山がある平山城で、空堀・土塁・馬落としが残っている。西側の土塁上には城主であった福原則尚を祀った福原霊社が鎮座。

Kozuki Castle Ruins 上月城跡

築城は延元元年 (1336年)、赤松氏の一族・上月景盛によって築かれた。嘉吉元年 (1441年) の嘉吉の乱により、赤松満祐に加担した上月景則や上月景家らが幕府軍の追討で、上月氏の嫡流は滅亡。
以後、山名氏・赤松氏の攻防が繰り広げられ、弘治3年 (1557年)、赤松一門の赤松政元が置塩城から入城。その子・赤松政範は、佐用・赤穂・揖東・揖西・宍粟の五郡を領し、「西播磨殿」と呼ばれた。
天正5年 (1577年)、羽柴秀吉の攻撃を受け落城。その後は宇喜多直家に属していた上月景貞が入城するが、同じく秀吉の攻撃によって落城し、尼子勝久/山中鹿之助ら尼子党が入城し、秀吉勢として対毛利軍の守りをする事になった。
秀吉が上月城を攻めた際に、周りにある毛利側の城はことごとく攻め落城となった。この地図からはかなりの数の城が存在したことがわかる。秀吉が上月城を落とした後に上月城に入った尼子勢が毛利軍に囲まれた際に秀吉からの援軍が高倉山城に陣を張っていた。
翌天正6年 (1578年)、毛利輝元が率いる大軍に囲まれ、救援をしていた羽柴秀吉は三木城の別所長治が織田に反旗を翻し、三木城攻略のためやむなく撤退、見捨てられ孤立した尼子勝久/山中鹿之助は毛利氏に降服。尼子勝久はこの地で自害。山中鹿之助幸盛も捕らえられ備後国鞆に移送途中、備中国高梁で誅殺された。その後、上月城は廃城となった。5月23日に高梁を訪れた際に山中鹿之助が備中高松城に護送される途中で惨殺された場所に慰霊碑があった。
現在は土塁・石垣・空堀などの遺構が残る他、本丸に赤松氏の供養塔、麓には尼子氏の供養塔が残されている。
上月城の麓にある資料館、登り口、尼子勝久の慰霊塔(隣には山中鹿之助の慰霊塔も)
多くの堀切り跡
それほど高い山では無いので、直ぐに頂上に到達する。
主郭跡には赤松氏の慰霊塔
ここからは赤松の重要拠点であった利神城があった山が見える。

Shirahata Castle Ruins 白幡城跡

上月城に向かう途中にこの白幡城が目に入った。白旗城の存在は知っていたが、詳しくは知識は無かった。赤松氏の城という程度であったが、ここには幟が立っていて「赤松円心の里」と書かれている。赤松円心は兵庫県では知る人ぞ知る英雄でもある。赤松氏の開祖的な存在。赤松円心は佐用荘の赤松村の領主から播磨、摂津、備前、美作の守護を務め、中央では三管領(細川、畠山、斯波)に次ぐ四職(赤松、京極山名、一色)にまで上りつめた。自分も小学校の時にこの赤松円心は知っていた。赤松円心の里と言われては、行きたくなる。が今日は上月城が一番の目当てなので時間が許せば行く事にしようと思い。行き道の途中での訪問は断念した。
赤松円心橋なる物もある。近くには、河野原円心駅までもある。地元の赤松円心への想いが伝わってきてますます行きたくなる。
上月城城があまり高くなく、遺構も少なく、あまり時間を使わなかったので、白旗城に行く事にした。ワクワクする。
白旗城は室町時代に播磨国白旗山(標高440m)に赤松円心によって築かれた播磨守護赤松氏の居城。築城の経緯には二つの説がある。赤松円心が護良親王の令旨で鎌倉幕府打倒の為という説と、円心が建武政権から離反した足利尊氏に従い、後醍醐天皇側の新田義貞を食い止めるために築いた説。
赤松円心の後は、則祐(のりすけ)、満祐(みつすけ)、則尚(のりなお)、義村(よしむら)と城主が続くが、義村を最後として、白旗城の名は歴史上から消えている。義村は既に置塩城主の2代目であった事から見ると、赤松氏の政治基盤は白旗城から置塩城に移っていた。
登山口から登城。初めは整備された広い道。長くは続かず。石がゴロゴロした道に変わり、上に近ずくに連れて岩がゴロゴロした道へと変わる。足元が不安定で歩きにくい
麓近辺にはこの城で戦って死んだ兵士の慰霊塔がある。その近くには寺跡も。
標高380mまで登ると城跡が始まる。
堀切り跡
櫛橋丸跡
二の丸跡
三の丸跡  何段にも曲輪になっている。
本丸跡 標高440mのところにある。登り口の所が標高40mぐらいだったので、400m登った勘定になる。急な歩きにくい坂だったので疲れた。頂上から見る景色で報われる。
下山した時には既に5時半になっており、これから姫路市内には二時間半かかり、今日は宿に着いたのはが8時を過ぎていた。移動距離は115kmで大台を軽く超えていた。


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