Ride in Setouchi & San-in Day 93 (16/6/19) Aoyama Battle Field 青山古戦場
鶴松亭跡・興浜丸亀藩陣屋跡
Murotsu Castle Ruins 室津城跡
Aoyama Battle Field 青山古戦場
鶴松亭跡・興浜丸亀藩陣屋跡
官兵衛が秀吉を網干に招待し催した茶会の場所。秀吉の席の近くの大松に、鶴の巣があり、秀吉は陣屋の名を鶴松亭と名付けた。丸亀藩の飛び地領がここ網干であった。鶴松亭は丸亀藩陣屋になった。現在は門のみ復元している。
網干には多くの古い建物が残っている。
Murotsu (Muroyama) Castle Ruins 室津(室山)城跡
室津への入り口
室津港の向こうに見える山全体が城だった。
室津城の築城の時期は不明だが、建武2年(1335年)には赤松円心の頃からこの城の記録がある。南北朝や応仁の乱の舞台となった。後に、赤松政則が浦上美作守則宗を室山城に入れ守らせた。則宗はここに関所を設け蓄財をし、主君赤松政則と対立する事になる。互いに暗殺合戦があり、浦上と龍野赤松との対立は一層激しくなっていた。
官兵衛が小寺氏の近習の頃の状況は複雑だ。浦上、赤松宗家、龍野赤松、小寺、別所、それに織田信長の台頭。それぞれが、同盟/敵対が目まぐるしく変化していた。置塩城の赤松惣領家が衰退すると、龍野の赤松村秀・政秀父子が台頭する。
龍野城の赤松政秀は室山城の浦上政宗と対立していた。この室津城主の浦上政宗は子清宗の嫁に姫路城主黒田職隆の娘 (養女という説もある) を迎え、黒田氏と手を結ぼうとする。永禄9年 (1566年) その婚礼の隙をつき、赤松政秀が室山城を攻め、政宗/清宗親子と職隆の娘は殺害され落城、以後は廃城となった。黒田官兵衛にとり、赤松政秀は宿敵となる。
城跡は海岸の切り立った山の上にある。遺構はない。早い時期に廃城になったので仕方ない。本丸と二の丸の城址碑があった。
室津へ向かう道と室津から相生に向かう道は海岸線の崖の上の国道を走る。瀬戸内の島々が綺麗に見える。
今日のお気に入りの2枚
室津から次の目的地は青山の古戦場だが、かなりの距離があり途中で相生を通る。相生は特色のない市だが、町おこしとしてペーロンをきっかけにしようとしている。ペーロンは長崎が有名だが、長崎から相生に伝わった。相生市の海岸線にペーロン館があった。休憩がてらに寄ってみる。誰もいないので、受付のおばさんと世間話をして、相生のペーロンの経緯を教えてくれた。相生はIHIの本拠地。昔は石川島播磨造船所と呼んでいたところだ。かつて造船業を長崎に学びにいったり、ここ相生で創業するにあたって長崎から多くの技術者が来ていた。その時にペーロンがIHIで始まったと言う。30年ぐらい前まではIHIの特権としてIHIに閉じていたのだが、一般市民にやっと解放され、毎年レースが行われている。ペーロンは元々は神事であったので女性は乗れなかったそうだ。それも時代の流れで許されて、おばさんも若い頃はペーロンを漕いでいた。 IHIも不景気で人員がどんどん減ってきていることが不安だといっていた。
IHI
青山・土器山の戦い
青山・土器山の戦いは、永禄12年(1569年) 5月 - 6月 播磨国で行われた西播磨守護代赤松政秀と姫路城主黒田氏との間に起きた戦い。黒田官兵衛と赤松政秀の過去の経緯については前述の室津城に書いたが、特別な因縁がある。この戦いの発端たが、置塩城の赤松宗家と龍野城赤松氏との争いにある。其々の赤松氏に播磨の豪族が加担して争いが拡大した。簡単な背景を書いておこう。
- 永禄元年(1558年) 浦上政宗が赤松義祐を擁立し、父の赤松晴政から家督と置塩城を奪い、父晴政を追放。この晴政を晴政の娘婿の龍野城主赤松政秀が支援。これ以降、両赤松が対立。
- 永禄8年(1565年) 晴政が死亡。赤松宗家と龍野赤松氏は和睦。赤松政秀はこの和睦を無視。
- 永禄9年 (1566年) 赤松政秀が室津城を急襲し浦上政宗/清宗と職隆の娘は殺害され落城。
- 永禄元年(1558年) 浦上政宗が赤松義祐を擁立し、父の赤松晴政から家督と置塩城を奪い、父晴政を追放。この晴政を晴政の娘婿の龍野城主赤松政秀が支援。これ以降、両赤松が対立。
- 永禄10年(1567年) 8月、当時、松永久秀に京を追われた足利義昭が全国の諸侯に後援を要請、赤松政秀にも使者が訪れ、以後、政秀は義昭と接近。
- 翌永禄11年(1568年) に足利義昭は織田信長の支援で室町幕府第15代将軍に就任。政秀は将軍義昭との関係強化の為、自身の娘を義昭の側仕えとして京へと向かわせた。これは赤松宗家の義祐に危機感を抱かせ、家臣の御着城主小寺政職に政秀の娘の身柄を拘束、備前の浦上宗景に龍野攻めを要請。浦上宗景には播磨侵攻の大義名分ができ、9月には備前・美作から集めた兵を率いて政秀の領地に踏み込んだ。
- 永禄12年(1569年) 2月、赤松政秀は足利義昭に浦上対策の救援を求め、義昭は織田信長に播磨出兵を促す。信長は池田勝正ら摂津国衆に東播磨の別所安治・別所重宗・明石祐行が加わった軍団が播磨の義祐領に攻め込む。時を同じくして備前では宇喜多直家が浦上宗景に対して謀反を起こし、浦上軍は備前へと急ぎ兵を返す。これで優勢に立った小寺政職の御着城の支城の一つで黒田職隆・孝高親子の守る姫路城の攻略へ兵を動かす。
- こうして一連の動乱は龍野赤松・織田・別所・宇喜多連合と赤松宗家・浦上・小寺連合の争いへと発展。
以上が青山の戦いが起こる前の一連の動き。次は青山の戦いについて書こう。
- 永禄12年 (1569年) 5月、赤松政秀は3千の兵で出陣。黒田軍は主君小寺政職が殆どの兵を赤松宗家の置塩城に入れて赤松義祐とと籠城していたので、姫路城での動員は300人程度しか無かった。兵力で10倍の敵を相手にする事になった。姫路城はまだ砦程度のもので籠城は不利として野戦を仕掛る。黒田官兵衛孝高は軍を率いて姫路城の西の青山に伏兵を置き、姫路へ向かう赤松軍を奇襲、撤退させることに成功。
夢前川
- 翌月の永禄12年 (1569年) 6月に、再度、3千の兵の赤松政秀は小丸山に布陣。対する黒田軍は夢前川東岸にある土器山(かわらけやま)に布陣。裾野の土器坂で戦闘が起こる。戦闘は赤松軍の土器山の黒田軍への夜襲に始まる。兵150の官兵衛は叔父の井手友氏や母里小兵衛などの有力な武将を失い窮地に陥るが、夜が明けると英賀城主の三木通秋の280の兵が南から赤松軍を攻撃、さらに姫路から職隆が出撃、赤松軍の後背を突く。赤松軍は優勢にまま、昼には小丸山の陣に兵を収めた。 黒田軍の被害は甚大、官兵衛は長期戦を避け攻勢に出る。黒田軍布陣は孝高が先鋒、職隆が殿で同夜に小丸山の赤松軍を奇襲。赤松軍はこの夜襲で混乱、敗走。
- 黒田勢は、敗走する赤松勢を夢前川から龍野城の中間あたりの太子町あたりまで追撃。黒田勢の死傷者287人にのぼり、それ以上の追撃も断念。この戦で母里一族は24人もの戦死者を出し、後継者が絶えるが、孝高は曽我一信と母里氏の女との間の子に母里姓を与え名籍を継がせた。これが母里友信(太兵衛)である。
今日は狐に遭遇。
この戦いは、赤松宗家と龍野赤松との戦いの一部分で、その他の戦いの状況は以下の通り。
浦上 VS 宇喜多
宇喜多直家は浦上宗景の筆頭の家臣。ここに主君に敵対姿勢をあらわにしたのだが、浦上軍と単独で戦うことはせず、大友宗麟との戦いで九州戦線に釘付けの毛利の隙をついて香川広景の守る美作の高田城を攻撃していた。備前に浦上の動向が影響し、攻略を諦め撤兵。また浦上も織田・別所・龍野赤松らの動向を見極めねばならず宇喜多を攻められずにいた。浦上は青山・土器山の戦いでの赤松政秀の敗退と織田・別所軍の撤退を知り、赤松政秀を討つべく、龍野赤松氏へ攻め込む。赤松政秀は永禄12年(1569年)11月に降服し、浦上宗景は龍野城を手中に収めた。宇喜多直家も浦上宗景に降服し、反省の意を示し、宗景はこれを赦している。
赤松宗家 VS 織田・別所
龍野の赤松政秀救援の為の池田勝正や別所安治は大塩城・庄山城・高砂城ら赤松宗家の義祐領の城を次々と陥落し、奪った庄山城を本陣として置塩城・御着城を脅かしていた。赤松義祐は援軍を待ち置塩城で籠城をし持久戦に出る。暫くすると織田軍が兵を撤退させた。何らかの事情で兵が必要になった織田軍は永禄12年(1569年)9月に池田ら摂津衆を畿内に呼び戻した。別所安治らも兵を退いた。
赤松義祐は織田軍が退くとすぐに信長に恭順の意を示し、息子の赤松則房を龍野城攻略中の浦上宗景と対峙させた。全くおかしな展開になった。浦上は義祐救援の為に兵を出しているので、赤松則房と戦う意味が無いし、赤松則房も仇敵の龍野赤松政秀を助ける気もない。したがって、お互いに攻撃は仕掛けず静観していただけだった。そのうちに11月に政秀が浦上に降伏したため、双方ともに兵を引いた。
赤松一族の争いで始まった戦いが結果としては、赤松宗家は織田に屈服、龍野赤松は浦上に降伏し、赤松両家が衰退するきっかけとなった。さらに、織田が中国に侵攻する始まりとなる。
帰りは夢前川の遊歩道を通る。この遊歩道は港まで続いている。途中で遊歩道を離れ宿に向かう。
0コメント