Ride in Setouchi & San-in Day 71 (25/5/19) Fukuyama Castle Ruins 福山城跡

Rose Garden ばら公園
Fukuyama Castle Ruins 福山城跡
Abe Shrine 備後護国神社(阿部神社)
Hiroshima History Museum 広島県立歴史博物館

Rose Garden ばら公園

昨日、福山に着いた時に公園に薔薇が沢山植わっており、福山市がばらの街として薔薇を市のトレードマークにしている事を知った。城に向かう道には薔薇が咲いており、ばら公園があった。町中、色々な種類の薔薇でいっぱいだ。

Fukuyama Castle Ruins 福山城跡

福山駅の前(裏?)に福山城跡がある。駅は三の丸跡に建てられているので、ここから階段で直ぐに二の丸に入る。
登りきるとそこには本丸石垣の上に伏見櫓が現れる。伏見櫓は水野勝成が築城の際、伏見城の物を移設したもので、空襲での焼失を免れ残っている。この城は本格的なものとしては、最も遅く築城された。江戸時代に入ると幕府は大名の軍事力を抑える為に破城を大々的に行ったが、ここだけは例外だった。西の毛利を警戒し抑えるために水野勝成には大規模な築城の許可を与えた。福山藩が10万石であったから、石高に比べて相当大きな城である。伏見櫓の様な三重櫓が7基も存在した。広島から兵庫までは毛利対策で池田、水野、松平と徳川と関係が近い大名を配した事がよくわかる。
本丸から見た伏見櫓
登ってきたところから伏見櫓を見て左側には鉄砲櫓、鑓櫓、櫛形櫓跡がある。今は何も残ってはいない。
鉄砲櫓跡から伏見櫓前を見たところ。
天守閣から
ここから本丸に行く筋鉄御門があるのだが
まずは本丸を取り囲む二の丸を時計まわりに歩いて見よう。大体はこの様な周り方をする。外からぐるっと周り最後に本丸天守閣に行く。この方が城の構造もわかり、何故と思う疑問の答えが見つかる事がある。
二の丸のここには神辺一番櫓、西坂口御門、門を抜けると神辺二番櫓、神辺三番櫓と続く。
ここに幕末期に活躍した阿部正弘の像が立っている。ちょうど神辺二番櫓があったところだ。阿部正弘は福山藩の第7代藩主だった。これは知らなかった。この小さな藩から幕府の老中首座が出ていたとは.... ただ、阿部正弘は江戸屋敷に住まいし福山藩に行ったのは生涯一回きりだった。大変な時代だった。外国からの開国圧力や、国内では開国派の井伊直弼の圧力もあった。阿部自身は攘夷派ではあったが、そのために国内の軍事および産業を発展させる必要があるとし安政の改革を行った。また島津斉彬など外様大名も幕政に参加させた。水野勝成と並び、福山市の歴史上人気ある一人だ。
ここから本丸の石垣は枡形になっており、鐘櫓が残っている。
ここにはもう一つ櫓があった。火打櫓という。本丸から見るとよくわかる。
ここの曲輪の端が神辺三番櫓跡になる。
この端の所には三の丸からの登城道が水ノ手御門を経て二の丸に入る様になっている。
水ノ手御門から二の丸に入ると本丸石垣が迫っておりそこのは物騒な名前だが人質櫓跡がある。
二の丸を更に進む。
本丸への棗木(なつめ)御門がありそこには荒木櫓跡。本丸への門はこの棗木御門と筋鉄御門の2カ所のみ。
二の丸が右に曲がる。門には神辺4番櫓があった。売店になっている。
ここへの登城道。昔もあったのかはわからないのだが.... 後で資料館の館員さんに聞くと、元々は存在しない道路で観光用につけたそうだ。
まだ本丸には入らずに更に二の丸を行く。本丸石垣、直ぐに二階櫓跡がある。
そして塩櫓跡。丁度天守閣の前に建てられていた。
天守閣最上階から見た二の丸
ここに水野勝成の銅像
水野勝成は関ヶ原の後、この城を築いて、ここを福山と命名し、福山藩を開いた人物。徳川家康とは家康の生母の於大が水野氏出会ったのでつながっている。水野氏と徳川氏との繋がりは強い。人物は伝わっている限り破天荒でそれは生涯続いた。と言いながら、この福山を与えられて、領地の運営にも大きな功績を残している。町の基礎を築いたのは勝成といっても過言でない。やはりここでの一番人気はこの水野勝成だろう。波乱に富んだ生涯とそこからは想像出来ない緻密さ。魅力のある人物。彼に関わる小説があれば読んでみたいものだ。
上の写真に階段が見えるが、三の丸からこの二の丸への道になる。ここは東揚楯御門。門の上には東坂三階櫓と鹿角菜(ひじき)櫓で両側を守られている。
ここは直接本丸への階段との二股に分かれているが、これも観光用に作られたもので存在しなかった道。
天守曲輪門を通って本丸に入る。これも観光用の物でここから本丸に直接は入れなかった。本来の登城ルートは東揚楯御門で二の丸に上がり、二の丸をぐるっと周り、棗木(なつめ)御門から本丸に入る。
天守閣最上階からの本丸
門をくぐると直ぐ左に鏡櫓。資料館になっている。
月見櫓 復元。天守閣以外は伏見城からの移設だった。
湯殿 復元だがこれも伏見城からの移設だった。
伏見御殿跡  築城当初から2代目まではこの御殿に住んだが、それ以降は三の丸に御殿を造り、そちらを使っていた。本丸にある御殿は式典など公式行事に使われていた。
筋鉄御門 空襲の戦火から残った建物。ここが公式の本丸への入り口になる。
伏見櫓
鐘櫓
人質櫓
遂に天守閣に到着。
天守閣 残念ながら、これは復元天守閣でオリジナルは空襲で焼失。内部は博物館になっている。貴重なものが多く展示されているが、ただ展示してあるだけで、説明もほとんどなく、ストーリー性に欠ける。
天守閣最上階からの景色
三の丸には小丸山といって幕末期に長州藩との攻防の舞台となったところがある。福山藩は幕府側につき朝敵として新政府軍に攻められることになった。この時にもこの小丸山が戦闘の舞台となったが、本格的に城を攻撃される前に新政府に対して恭順を示し、攻撃は中止となった。明治維新の廃藩置県では福山県となった。1871年に福山県は深津県へ名称が変更、翌年(1872年)には深津県と倉敷県が統合され小田県が設立、1875年には小田県が岡山県へ編入、この翌年(1876年)に岡山県から広島県に移管された。

Hiroshima History Museum 広島県立歴史博物館

三の丸跡は遺構はほとんどなく、公共施設や商店街、住宅地になっている。城に近い部分は公園になっており、美術館と博物館があった。天守閣にあった博物館が期待外れだったので、この公園内にある広島県立歴史博物館に行くことにした。もう少しちゃんとした展示があると期待した。結果はあまり変わらず、期待していた福山藩や福山城の展示はあまり無かった。博物館に行っていつも感じるのはその博物館の魅力はそこに勤めている研究者と行政担当者で大きく変わってくる。福山はお世辞にも良いとは言えない。

Abe Shrine 備後護国神社(阿部神社)

藩主であった阿部氏歴代藩主を祀っている。

結局、城見学は1日かかってしまった。最近は見学の時間がどんどん長くなってきている。ただ、自分内での消化度合いも高くなってきている。急ぎの旅では無いのでこれで良いかと思っている。

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