Ride in Setouchi & San-in Day 72 (26/5/19) Tomo no Ura 鞆の浦

Tomo no Ura 鞆の浦
Yamanaka Sikanosuke Kubi Zuka 山中鹿之助首塚
Ogajima Castle Ruins 大可島城跡
Konko Kyo HQ 金光教本部
わざわざ福山まで来たので、福山城以外の見どころを調べる。瀬戸内海に面している鞆の浦が人気がありそう。福山から12キロの距離なので、行ってみることにする。

Tomo no Ura 鞆の浦

鞆の浦は潮待ちの街として町おこしをしているようだ。今回の旅で瀬戸内を走っていくつかこの潮待ちの港に遭遇した。江戸時代は上方に行くには海路と陸離があったが、初めは海路の方が主流だった。瀬戸内海では一日に2回の干満があり、6時間毎に潮流が逆転する。逆潮を避け、潮に乗るために潮待ちの停泊があった。一定の距離ごとにこの潮待ちの港ができたと言う事だ。
陸地沿には赤間関(下関)、中の関、室積、上関、沖の家室、津和地(松山市)、蒲刈(三ノ瀬)、尾道、鞆ノ浦、下津井、牛窓、室津、兵庫、大阪。帆船の性能が向上すると陸地沿よりも沖合の潮に乗り一気に進む沖乗りのルートが17世紀後半にできた。上関から沖の家室、津和地(松山市)、御手洗、鼻栗瀬戸(伯方島と大三島との間)、岩城、弓削瀬戸から鞆ノ浦とすすむ。今回の旅で訪れたのは下関、蒲刈(三ノ瀬)、尾道、御手洗だが、この潮待ちの港として町おこしをしていたのは御手洗と蒲刈(三ノ瀬)。
鞆の浦は古い町並みを売りにしている。多くの古めかしい商家が残っている。特に目立ったのが保命酒の酒屋で何軒もあった。こんなに多く同じような店があって商売になっているのだろうか? 保命酒は養命酒と同じような漢方薬を使った酒で鞆の浦には4つの酒屋で作っている。それぞれが複数の店を出しているので、この小さな町を歩けばいくつもにぶちあたる。
潮待ちの港がここの目玉で多くの観光客が来ていた。同じ潮待ちの港の蒲刈にもこんなに観光客はいなかった。やはり地の利か?蒲刈は島にある港なので少し不利かもしれない。ここにはいろは丸資料館がある。坂本龍馬のいろは丸がここに沈んだという事、ここで坂本龍馬がその賠償交渉を行った。龍馬はそれほど滞在はしなかったが、町おこしで利用できるものは何でも使っているようだ。
沖合に酒酔島があるが5分ほどで行けるのだが、いろは丸を形取った渡し船(遊覧船?)が出ている。
これは坂本龍馬の隠れ家だったという商家。
坂本龍馬が賠償の談判を行ったと言われているところはいろはというカフェになっている。
町並みは古い家が多くある。江戸時代から街の道は変わっておらず、道幅はきわめて狭い。道幅の狭いメイン通りからは極細の通り道が何本も出ている。これは田舎の港町には多くみられる。生まれ故郷の小豆島福田もこんな極細道がいっぱいあったのを思い出した。
一般の人は滅多には行かないのだが、個人的興味は別のところにあった。ここには山中鹿之介の首塚がある。先に訪れた備中松山城に護送される途中の阿井の渡しで惨殺された鹿之助の首実検がここ鞆の浦で毛利輝元、足利義昭によって行われた。鹿之助人気は健在。

Ogajima Castle Ruins 大可島城跡

この鞆の浦は村上水軍の勢力範囲だった。その運営の為に南北朝時代からあった大可島の城を使っていた。現在はお寺になっている。

Konko Kyo HQ 金光教本部

出雲大社に行った時に、出雲大社教という組織のことを知った。神道十三派に代表される神道系新宗教教団で、幕末期に起こり、明治時代に教派として公認された。最も大きい教団は天理教。神道十三派のうち、この岡山には黒住教、金光教という2つの新興宗教の本部がある事に興味が湧いた。なぜ幕末期に多くの新派が出てきたのか? 本家の神道との関係は? 正当神道よりはるかに積極的だが、神道からはどう思われているのか? 色々と疑問が出てくる。焦らず直ぐに答えを出さず、少しずつ調べて行くことにする。
通り道に金光教本部があったので立ち寄ってみた。昨日訪ねた玉島市の親戚の家に小さい時に行った時、そこの子供がしきりと金光教の話をしていた事を覚えている。金光町と玉島町は近いので、影響があったのだと思う。金光は小さな地域だが本部前はさながら門前町のようになっており、金光教一色。本部はかなり広い敷地にスケールの大きな建物が立ち並んでいた。見て回っている間にも、多くの信者が参拝に来ていた。
この神道系新興宗教の拡大には明治政府が発布した神仏分離令があるだろう。天皇中心の集権国家を目指す上で、天皇家の宗教の神道を擁護し、国民のメンタリティを神道中心に持って行くという祭政一致の方針。多くの教団の起源は幕末期でそれぞれが異なる性格を持っている。教祖の神懸かりで始まったもの。黒住教や金光教はこれにあたる。その他復古神道系や山岳信仰系など様々だ。明治初期にはこれら神道系新興宗教は政府公認で擁護され、それぞれが組織化し拡大していった。
更に1882年(明治15年)、祭政一致方針を180度変え、祭教分離が行われた。国家神道の概念は残すが、布教には国家が関係しない。神官教導職についているものが祭祀を行うことを禁止という方法をとった。この直接の原因は仏教界からの反発ではあったが、国際的に国家として存続するには批判がある体制だった事もあるだろう。出雲大社教はこの様な背景から生まれた。布教に専念する組織。皮肉な事にこれが国家神道を更に強化することになり、これは第二次世界大戦までは異常なほど国民思想がコントロールされる事になった。皇室が今の様な状態に誰も疑問を持たない事や、政府高官が靖国神社をお参りに行くと問題になるが、伊勢神宮は問題にならないのはこの明治以降の日本政府のとった巧妙な政策にあったろう。この中で、神道系新興宗教も発展したというわけだ。
それぞれに神道系新興宗教はその教義を微妙に変化させてはいるが、キリスト教で言う異端宗教の様な扱いではない。これは一時期にせよ国家が認めた事による。日本独自の発展形態だ。


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