Ride in Setouchi & San-in Day 50 (4/5/19) Matsue Castle Ruins 松江城
Matsue Castle Ruins 松江城
Matsue Shrine 松江神社
Matsue Patriot Shrine 松江護国神社
Samurai Residence 武家屋敷
Meimei An Tea House 明々庵
今日は1日かけて松江城を見学。城跡の近くの県民センターに自転車を停め、徒歩で見学。
Matsue Castle Ruins 松江城
松江城は現存天守12城の一つで国宝にもなっている。連休という事で、大勢の観光客が来ている。入り口でボランティアガイドさんに案内を頼んだ。松江城についてはほとんど知らないし、築城した堀尾吉晴やその後の藩主の堀尾氏、京極氏、そして松平氏についてもあまり知識が無い。こういう時はガイドさんに教えてもらうのが一番。
まずは松江城の歴史から
この城は関ヶ原の戦いの後、旧毛利領地に堀尾吉晴の子の忠氏が24万石で任命された。忠氏が初代藩主となる。父親の堀尾吉晴との共同統治と言われているが、実質は吉晴が主導権を握っていたかも知れない。この松江城に藩庁を置く前は、尼子氏の居城から毛利の吉川元春が入った月山富田城を居城として使用したが、山城で不便な為、松江に城を築くことになった。吉晴は城の完成の6ヶ月後に没している。吉晴は忠氏が早逝し、そに嫡男の幼い忠晴の後見として実質藩主の役割をした。吉晴の死後、忠晴も若くして没し、嫡子が無く、堀尾家は断絶。次に、藩主として名門の京極忠高(京極高次の子)が入封するが、忠高にも嫡子がなく早逝し京極家断絶。その後、松平直政が入封。(直政は結城秀康の子、つまり徳川家康の孫にあたる) 松平直政も目立った人物では無いが、大阪冬の陣で初陣。ガイドさんに松江の人達はどの武将に愛着があるかをたずねると、三人をあげた。松江城開祖としての堀尾吉晴、松平家としての初代藩主の松平直政、そして藩政改革を行った7代藩主の松平治郷 (不昧 ふまい)。そのほかの藩主は松江の人も知らないと言っていた。
県庁が三の丸跡にあるがそこには松平直政の銅像がある。14才で初陣を飾った大阪冬の陣の頃がモデルだろう。大阪冬の陣では初陣である事と徳川家康の孫でありながら冷遇された状況の打破を考えてか、奮闘。夏の陣では兄の政直と共に真田幸村を打ち取る武勲をあげるも、兄の政直は激怒し、茶器を割ってしまったとも伝わる。政直はそれ以降乱行が目立ち、27才にして隠居させられてしまった。どこまで本当の話か分からないが、乱行ぶりがいつも語られる武将。本来であれば父親の結城秀康は徳川家康の子で秀吉の人質にならなければ、将軍になっていただろうし、その次の将軍は政直だったかもしれない。にもかかわらず、冷遇され続けた状況に不満は持っていただろう。徳川家康や秀忠にもとっては、結城秀康と政直は厄介な存在だっただろう。可哀想に、悪名が一人歩きしてしまった武将だった。九州の旅で大分に津守館跡という所があった。政直の隠居幽閉された場所を思い出した。兄の状況を見て直政は以降の振る舞い方を学んだのかもしれない。それが維新まで松平家が藩主であった大きかっただろう。
堀尾吉晴像は二の丸への門を入ったところにある。
7代藩主の松平治郷の事を聞いたのは初めて、茶人として不昧流を起こし、今でも松江で茶道は多くの人が不昧流だそうだ。そう言えば昨日、玉造温泉で抹茶を飲んだ場所に不昧の事が掲載されていた。その時はだれの事かわからなかったが、松江では有名な藩主だった。
松江城の二の丸上段に松江神社が明治時代に作られたのだがこの三人と徳川家康が祀られている。
神社と言えば、城内にはあと2つ神社があった。戊辰戦争以降の軍人/兵士を弔った松江護国神社と小泉八雲が愛した城山稲荷神社。
城の話から脱線するが、街で「ホーランエンヤ」が5月18日に行われるとのポスターがよく見られる。この城山稲荷神社のお祭りだった。ホーランエンヤは全国最大級の船祭りだそうで、豊来栄弥とも宝来遠弥とも書く。誘導船を先頭に、清目船、櫂伝馬船、神器船、神輿船、神能船、両神社氏子船など約100隻が連なり、延々1kmに及ぶ大船団となって進む。「ホーオオエンヤ ホーランエーエ ヨヤサノサ エーララノランラ」の舟唄に合わせ櫂を漕ぐ。見てみたいがその時期まではいられない。
松江は川が多い。どれも川幅が広い。昔からホーランエンヤを経験しているのか高校生がボート練習をしていたのが印象に残った。
松江城の話に戻る。二の丸上段に西南戦争碑なるものがあった。説明は松江と西南戦争の関わりを記したものとのみあるが、どんな関係かは書いていない。中途半端な説明だ。西南戦争の戦場は九州内だったので、島根の人が従軍し、戦死した兵士への慰霊碑では無いかと思うが、薩軍か?それとも官軍か?多分、徴兵された官軍兵士のことと思う。
慰霊碑の後ろに見えているのが興雲閣。松江市工芸品陳列所として明治36年に建てた建物。当初は、明治天皇の行在所に使用する目的であったが、結果的には日露戦争の 最中、天皇の巡幸は実現し無かった。洋館ながら、畳の部屋もあるのが面白い。
では、城を見学した様子を書く事にする。城は本丸、二の丸、三の丸で構成されていた。ここに築城する際にはまず堀を作ったという。どこが人工的に掘られた堀かは分からないが、とにかく川や用水路が多い。松江市は自称、水の都との事。三の丸は県庁など公共施設と商業街になっており、三の丸の雰囲気は失われている。
二の丸から公園として整備されている。明治の廃城令の際には多くの 市民が廃城を望んだという。維持に多くの金がかかり市民への負担を恐れてのことだった。当時の古写真が残っている。相当に荒れている様子が伺える。入札で民間への払い下げが決定後、天守閣だけは残したいと落札額と同額で有志三名に引き渡された。これが無ければ天守閣はもう存在しなかっただろう。その後市民の意識も変わり、城跡を出来るだけ復元しようとの活動もある。今でもなお城の存在は各市の住民には特別なシンボルだ。日本特有のものなのか? 中国、韓国、欧州ではどうなのかを実際に現地で見てみたい気がする。
二の丸は内堀に囲まれていて、この内堀と川を周回する堀川巡りが人気がある。順番待ちの長蛇の列。
内堀
二の丸には大手門を入り広い馬留。
馬留の向こうは二の丸下ノ段 米倉があった。
階段を登り二の丸上ノ段へ。石垣の刻印の説明板。
三ノ門を通過して、二の丸上ノ段へ。太鼓櫓、中櫓、南櫓がある。
二の丸からニノ門、一ノ門をくぐり、本丸へ
記念撮影 ガイドさんに撮ってもらった。
様々な所からの天守閣
天守閣の中へ
地下から最上階の6階まで登る。
地下
一階 ハート型の年輪の節が一時期大人気だった。
二階 何故か後藤又兵衛の甲冑がある。
三階
4階と5階 変則な作り4階が中二階といった感じ。城にもトイレがあったとは知らなかった。平時は城はほとんど使われていなかったのでトイレは無いと聞いていたが...
天守閣最上階からみた景色
天守閣の本丸からまた降ると、内堀内に梅園があり、そこで昼食。
Samurai Residence 武家屋敷
松江城から内堀沿にある公開している武家屋敷に行く。ここは城の内堀のすぐ外にあり、上級武士が住んでいた所
武家屋敷の裏側に大太鼓の展示がされていた。これホーランエンヤ祭り程大規模ではないが松江の重要な祭りで使われる。松江祭鼕行列で、10月の第3日曜日に、松江神社の例大祭に合わせ松江の開府を祝う祭。街中を走った時に大きな倉庫が数カ所にあった事には気がついていて、祭りに使う何かを保管しているとは思っていた。大太鼓が大事に格納されていたのだ。この松江では大太鼓の事を鼕(どう)と呼んでいる。難しい字で読めなかった。
Meimei An Tea House 明々庵
松江藩七代藩主 松平不昧が建造。松平不昧は禅や茶道をたしなみ、格別茶道には常人以上のものであった。彼の死後、弟子たちによって不昧流茶道が創設された程。不昧の島根での文化発展の功績は非常に大きい。
2コメント
2019.05.09 04:09
2019.05.09 03:41