Ride in Setouchi & San-in Day 51 (5/5/19) Matsue History Museum 松江歴史館
Matsue History Museum 松江歴史館
Horan-enya Memorial Hall ホーランエンヤ伝承館
小泉八雲記念館/旧居
Mefu Shrine 賣布神社
伊勢宮新地遊郭跡
Yaegaki Shrine 八重垣神社
Izumo Kokufu 出雲国府跡 (Izumo County Capital Ruins)
Izumo Kokubunji Ruins 出雲国分寺跡
Matsue History Museum 松江歴史館
武家屋敷造りの博物館になっている。手を加えてはいるが一部は昔の武家屋敷が残っているものを移設している。落ち着いて雰囲気。中には庭園を楽しみながらお茶を味わえる洒落たスペースもある。
展示内容はちゃんと吟味し、わかりやすくしている。子供から大人まで幅広い層にわかるようにエッセンスを強調して、どうでも良いものはあえて展示していない。試行錯誤でここまでたどり着いた様な気がする。研究員は表には出てきていないが、一生懸命に考えている事は分かる。
これは面白い図だ。尼子、大内、毛利、堀尾、京極と滅亡や改易でその都度、以前の領主に支えていた武士を取り込んで行った結果松平氏の時代には小禄の武士が他藩に比べ非常に多い。財政は困窮していた。
その結果としてどんどん借金が増えていった。米の生産だけでは成り立たない。新たな産業を起こし地道に育て7代藩主松平不昧の時に借金を完済し、貯蓄が出来るまでになった。不昧の功績は強調されているが、それまでの藩主の努力も忘れてはいけない。
新たな産物は櫨 (蝋燭の原料)、人参 (朝鮮人参に近いもの)と和銑(わずく 砂鉄を炭で精錬し、釜や工芸品に使われてきた地金) どれも高付加価値のもの。
安価な物の代表が木綿で、重要な産業に育った。木綿街道を先に訪れた平田で訪問。
幕末から明治維新の期間は徳川親藩としての難しい立場があった。
7代藩主松平不昧の功績は経営改革だけでなく文化的貢献も大きい。茶道、それに刺激を受けた和菓子や工芸品。この発展は経営改革の成功で心の余裕が出てきたからだろう。
写真には取らなかったが、小泉八雲に関わる展示もあった。近くに小泉八雲の博物館があるのでは八雲について詳しくは触れていないが、八雲が松江/出雲で見田であろう当時の写真をミニ・プラネタリウム形式で長椅子に寝そべり天井に映し出される古写真を見る。粋な演出だった。
見学には70歳を超えただろう女性ボランティアガイドさんがつきっきりで説明してくれた。品の良い、親切な女性だった。
Horan-enya Memorial Hall ホーランエンヤ伝承館
松江歴史館のチケットで無料で入れるので覗いてみた。大きく無いのだが、この祭りが松江で一大イベントである事がよくわかる。昨日まではどこにでもある村祭り程度に思っていたのだが、江戸時代初期の松平直政が農作物不作の年に五穀豊穣の祈願で昨日行った城山稲荷神社の神体を阿太加夜神社に移し8日後に帰ってくるその船旅の護衛に5つの地区から船を出した事から始まり、360年も続いている。これは10年に一度の開催で今年がその10年目。8日間続く。これで良く続いたものだ。驚きだ。誰でも参加できるわけでは無いので (5つの地区のみ)、裏方も含めこの祭りに関われることは名誉だろう。あと2週間で始まる。見れないのは残念だが、伝承館の展示やビデオでその熱気は伝わってきた。
同じような祭りが他の地方にもあり、このホーランエンヤ祭りは日本三大船神事の一つ。
小泉八雲記念館/旧居
ここでは内部の写真撮影が禁止されているので、雰囲気や展示パネル等の紹介は出来ないのだが、うまくまとめている展示内容だった。八雲の誕生から亡くなるまでの活動、思想、それに影響を及ぼした外的要因がすっきりと解説されている。更に、彼の家族や重要な関係のあった友人の事までに及ぶ。彼の人となりが垣間見れる。熊本でも八雲の旧宅で展示があったが、熊本は熊本の生活が中心でそれ以外は館員さんに聞かなければ分からない。松江を去った理由は両方とも松江の寒さとしているのは共通だった。給料が良いという理由はここでは触れられていなかった。松江で一切触れられていなかったのは夏目漱石との関係だ。これは漱石側から見ると小泉八雲は漱石にとって重要な影響者だが、八雲はあまり意識していなかったのかもしれない。
Mefu Shrine 賣布神社
松江城から大橋を渡った中洲の端に白潟神社があった。昔はこの地区を白潟と呼んでいた。今は賣布神社(めふじんじゃ)と呼ばれている。出雲風土記にも出てくる古社。一時期は白潟の漁業権まで保有していた有力神社。
伊勢宮新地遊郭跡
賣布神社の隣あたりには伊勢神宮から分霊をした社があり、その周りは色街だった。侍達が橋を渡り遊びに来ていた。今は夜の繁華街になってる。形は変われど、生活風習は継承されている。
Yaegaki Shrine 八重垣神社
縁の結びの神社として有名。行くとなんのことはない普通の神社だが、出雲の神話に由縁のある所で、八岐大蛇退治で名高い素盞嗚尊と、稲田姫命の夫婦が新婚宅を構えたところと伝わる。日本で最初の結婚式という事で結婚したい若い女性に大人気の所。男女の縁結びのスポットをいくつも作っている。三本ほの夫婦椿という地面から二本の木が出て地上で一本になっているものや、男性器の木造、女性器の形の木に男性器、佐久佐女の森には、稲田姫命が日々水に姿をした鏡の池での縁結びの占い (占い用紙に硬貨を乗せて浮かべ、沈み具合とイモリが現れるとかで占うらしい) など。夕方6時を過ぎているのだが多くの若い女性客が絶えない。一時期は松江城を抜いて松江市の訪問客一番になった程。いつの頃からこのようなスポットが作られたのか、大昔からあったのだろうか?
Izumo Kokufu 出雲国府跡 (Izumo County Capital Ruins)
出雲地方には奈良時代に編集された出雲國風土記が残っている。出雲國の各地区の地理、生活風習などをまとめたものだが、これを基にして国府跡の場所を特定して発掘をしたそうだ。この時代ににこのような物を編纂しているとは行政の意識の高さの表れと思う。地方を整備するにはまずそこを知る事が必要だが、それを行なっていたとは凄い。国府跡はあまり訪れる人もいないのか、草が伸びている。現地でテレビか映画か巫女さんの格好をした女性グループの踊りを撮影していた。撮影の邪魔にならないように、遠慮気味に見学。
Izumo Kokubunji Ruins 出雲国分寺跡
国府跡から1.5kmのところに国分寺跡がある。ここも草が茂ってはいるが整備はされている。観光客など誰もいない。国分寺の構成通りになっている。そう考えると、どこの国分寺に行ってもほぼ同じ建物跡で位置もほぼ同じで、訪問して何が面白いのかと思えるのだが、それはそれで色々あるのだ。国分寺がその地に選ばれたのは当時そこに人が集まりやすい、水が確保できる等々あった。であればもっと発達していいのだが、ほとんどの国分寺跡は今は田舎で人も多く無いところにある。何が理由で発展しなかったのかいつも気になる。
今日も夕方になってしまった。少し疲れたが楽しい1日だった。色々な新しい事に出会えた。
2コメント
2019.05.14 08:57
2019.05.09 15:15