Ride in Setouchi & San-in Day 38 (22/4/19) Hagi Castle Ruins 萩城跡
- 菊ケ浜土塁(女台場)
- Hagi Castle Ruins 萩城跡
- 厚狭毛利家長屋跡
- 北の総門跡
- The Tenement House Gate of Suu Old Residence 周布家長屋門跡
- The Old Masuda Family Watchtower 益田家物見櫓跡
- The Old Gate to Tenement House of the Hanzawa Family 旧繁澤家長屋門
- The Former Kubota Family Residence 旧久保田家住宅
- Old Saeki Tange Residence 旧佐伯丹下家屋敷跡
- Old Residence of Aoki Shusuke 青木周弼旧宅
- The Former Noda Family Residence 野田家住宅
- 晋作広場 高杉晋作の像
- The Former Kikuta Family Residence 旧菊田家住宅
- Birthplace of Giichi Tanaka 田中義一生誕の地
- 好生館跡
- Ruins of Noyama Prison and Iwakura Prison 野山獄/岩倉獄
- 鶴江の渡し
維新関連史跡
菊ケ浜土塁(女台場)
文久3年(1863)5月10日、尊皇攘夷派の長州藩が、関門海峡を通過する外国船を砲撃した。下関は大きな被害に見舞われた事で危機感が高まり、萩でも、外国船の襲撃に備え、菊ヶ浜に土塁を築造。作業には老若男女が、身分を問わず奉仕作業し、武士の妻や奥女中までが参加し大きな功績であった。それで、通称「女台場」と呼ばれている。
菊ケ浜 萩城の白い土塀が見える。海岸は一面松葉。小高い山は指月山で萩城の詰城があった所。
毛利氏関連史跡
萩城跡
萩城は毛利輝元が関ヶ原合戦で敗れ、長門/周防に減封された時に広島城から萩に移ってきて築城をしたもの。萩に移って来る際に、幕府にどこに城を築くかお伺いをたてて幕府の意向を推し量って決めた所。その候補は3つあった。山口、防府、そして萩。山口はあまりにも大内家の影響が強く、山口の領民の反発があった。治めにくい土地。防府は瀬戸内に面し毛利水軍を最も効果的に使えるが城を築くには多大な費用がかかる。幕府としてはここにはしたくない。萩は中洲で広島と地形が似ているとして幕府は毛利の機動力を削ぐには良い土地。忖度でここを毛利が選んだ形で決着がついた。政治的判断。どう見ても防府が一番であったが、防府を選んでいたとしたら、難癖をつけられ、多くの藩がそうなったように改易に追い込まれていたのではと思う。その意味では萩を選んだのは正しい選択と考える。
ただ、もう少し考えてみると、この藩庁の選定は毛利輝元が仕組んだ事ではなかったか。3つの候補地は輝元から出している。選ばれて悪い所を候補地にはしない筈。幕府に伺いをするのだが、幕府の出方は予想してしたと思う。幕府に選ばせる事が大切で、防府が選ばれるとは考えていなかっただろう。輝元にしてみれば3つのどれになっても良かった。萩はそれなりに利点もある。海岸沿いで北前船の経由地にもなる。という事で、個人的な結論はこれは毛利が作戦どうりに事を進めた結果が最も可能性が高いという事に行き着いた。
二の丸
本丸への門
本丸の石垣
天守台
CGで再現された萩城
岡崎櫓跡
潮入門 菊が浜への門
東門
志都岐神社 歴代萩藩主を祀る
東園 (庭園) 6代宗広が造園
梨羽家茶室/花江茶亭 他の場所から移設されたもの
気になるのは萩城は平城として本丸、二の丸、三の丸と江戸期では標準的な作りだが、これにプラスして平城のすぐ背後の指月山(しづきざん)に詰城を築いている。本丸と二の丸で構成されている。なぜこのような山城を築いたのだろう。係員に質問をしたが、人により説明が異なっていた。一人は有事の際には指月山で戦うと言い、もう一人は単なる監視櫓だと言っていた。井戸跡はあったがここに籠城には狭い感じがした。物見櫓にしては大掛かりすぎる。やはりわからない。多分、平時は見張り櫓、有事には戦闘の砦と将来の状況でその形態を変えていける余地を残した作りにしたのだろう。
指月山
CGで再現
指月山 山頂への道。当時、詰城に登城した道が今なお残っている。
本丸と二の丸で構成されており、それぞれの隅には櫓があった。
石垣の石の切り出しの楔の跡が残る巨石が至る所にある。想像だが有事を想定だが、まだこの詰城の拡張をも考えていたのではないか。
指月山の麓には3つの寺院と神社の跡がある。2つは跡地まで行ける。毛利家身内の菩提寺だが、山口市に藩庁とともにを移されて、今は石垣のみ部分的に残っているのみ。
妙玖寺跡
洞春寺跡
ここから見た風景
ここまでは二の丸だが、城は三の丸まであった。三の丸には毛利家の重臣や支藩の萩屋敷があった。藩庁を山口市に移した時に、重臣も共に移動したため、三の丸の屋敷は空洞化となり、明治以降は萩の重要産業となる夏蜜柑の畑となった。いくつかの屋敷跡が公開されている。その他の遺構は屋敷を取り囲む塀でこれは綺麗に残っている。これは蜜柑を風から守るため屋敷内に蜜柑の木を植えた事による。その他の遺構はいくつかの総門跡がある。
厚狭毛利家長屋跡
この萩までの旅で毛利家は宗家、分家がありそれぞれが長州藩の支藩がある事を知った。長府藩 (その支藩の清末藩)、徳山藩、岩国藩は訪れてそれぞれの関係を知ったが、この厚狭毛利(あさもうり)は初めて聞いた。説明によると毛利元就の五男の毛利元秋から始まっている。関ヶ原の戦いの後、長門厚狭 (小野田市) に1万5千石を与えられたことからこのように呼ばれている。長州藩毛利家の重臣を勤めた。
北の総門跡
この北の総門の城側には萩藩の重臣の屋敷にあてがわれており、門の外側とは身分の違いが明確になっていた。まずは内側の重臣の屋敷を見てみる。
The Tenement House Gate of Suu Old Residence 周布家長屋門跡
周布家は大組士(藩主毛利氏の直属の家臣で藩内門閥士族。馬上を許された広義の上級家臣で中士上等)の筆頭。長門に1530石の知行を持っており、ここは周布家の萩屋敷。
The Old Masuda Family Watchtower 益田家物見櫓跡
益田家は二人いる永代家老の一人。知行を須佐に持っていた。(元々は現在の島根県益田市だが毛利家が長門周防に減封されて須佐に移った) 上の家臣団構成図の最高位にあたる。
The Old Gate to Tenement House of the Hanzawa Family 旧繁澤家長屋門
北の総門の外側に入ると、今でも古い街並みが残っている城下町と呼ばれている地区にあたる。参勤交代に使われた大通りの御成道には豪商の店と住居があり、その大通りから何本もの路地が走りそこには、上級武士の屋敷があった。現在は観光地の中心地となって、萩焼の店、土産物屋、カフェ、レストランがひしめき合っている。
この御成道にある豪商のひとつの旧久保田家住宅
自転車を停めて、その路地の一本の江戸屋横丁を歩く。
Old Saeki Tange Residence 旧佐伯丹下家屋敷跡
Old Residence of Aoki Shusuke 青木周弼旧宅
上級武士ではなかったが、藩医という事で、この地域に屋敷を構えていた。藩主に何かがあった時に直ぐに登城できるようにという理由だったそうだ。
江戸屋横丁から右に入る。並行して伊勢屋横丁、そして、菊屋横丁と三本のの横丁が現在観光地として整備されている。この横丁の名前は、大通りにはある豪商の屋号で呼ばれている。
The Former Noda Family Residence 野田家住宅
伊勢屋横丁の屋敷跡は別の日に来ることにし、菊屋横丁を歩く。
この菊屋横丁に入るところに高杉晋作の像が建っている晋作広場があった。この近くに高杉晋作旧宅があるのだが、後日訪問予定。
この通りの名となった菊屋が大通りにある。
Birthplace of Giichi Tanaka 田中義一生誕の地
菊屋の横丁に入ったところにあった。田中家は上級武士の家ではなく藩主の駕籠かきの下級武士の家であったが、菊屋の住居を貸してもらっていたのでここに生まれた。屋敷跡ではなく、単にここで生まれた場所。維新後はもっぱら陸軍で力を拡大して将来は元帥とも言われたが、持病の狭心症で政治家に転換し、立憲政友会総裁となり、昭和2年に総理大臣に就任。田中義一内閣の成立後、軍国主義中心の政治に転換していく。田中義一は満州事変の軍部関与で陸軍との関係がこじれ、昭和天皇からの信頼を失ったとして、昭和4年に総理大臣を辞職。三ヶ月後に狭心症が悪化死去している。この田中の死によって、政界での長州閥の終焉となった。明治、大正と維新での長州閥が昭和初期まで影響力を維持していた事は考えさせられる。良かったのか悪かったのか? 両面を持っていたのだろう。ただ軍国主義に傾倒していった事は不幸であったと思う。別のシナリオはなかったか?
伝えられている事は、当時の昭和天皇は自分が田中義一を叱責したことによって、内閣総辞職、田中義一の死を早めたと責任を痛感し、以後は政府の方針に不満があっても一切口を挟まないことを決意したと独白録 (平成7年) で述べていた。これをどう捉えるか?これも日本の天皇制の複雑な側面だと思う。天皇の政治への介入を自ら辞した事は現在の天皇象徴制は天皇自ら望んだものだったのか。また、この事により更に軍部の増長を招き不幸な戦争に突入した原因だろう。ある意味で昭和天皇のこの行動は身勝手な無責任な行動として捉える事もできる。見て見ぬ振りをしたとも考えられる。それとも、戦争責任が無いと思って欲しかったのか。どちらにせよ、昭和天皇の独白録のこのくだりには失望する。もし、この精神が今も天皇制に流れているとすると、天皇制自体に大きな疑問が出てくるだろう。
好生館跡
長州藩の医学研究施設で城下町で旧宅があった青木周弼などが頭取を務め、久坂玄瑞も一時期通っていた。後に藩校の明倫館に移る。この跡地には青木病院が建っている。
Ruins of Noyama Prison and Iwakura Prison 野山獄/岩倉獄
城下町から離れた所にこの牢屋がある。 殆ど東の松本川に近い。城は西の橋本川が日本海へ通じるところにあり、東の松本川に近づくにつれて、下級武士、商人、漁師などの住まいとなっていく。この牢屋は、城下町からはかなり離れ庶民が住んでいる場所に置かれていた。
野山獄は上級武士の牢屋 吉田松陰が捕らえられ入れられていた。
岩国獄は下級武士、庶民の牢屋。細い道路を挟んで野山獄と向かいあっている。
岩倉獄で亡くなった金子重輔の住んでいたところが、岩倉獄から遠く無いところにある。吉田松陰の密航について行った所を捕らえられた。まだ20才前半の事。理想に燃え、松蔭にどこまでもついて行くと思っていたのだろう。獄中でもその情熱は持ち続けられたのだろうか? 松蔭とは身分が違い獄中での扱いはひどいものだっただろう。口惜しかったのではないかと思う。
今日は沢山見て消化不良気味。宿に帰る途中に松本川に昔ながらの渡し場があった。
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2019.07.28 03:20