Ride in Kyushu Day 46 (30/1/19) Seinan Civil War Yatsushiro 西南戦争 八代

Places relating to Seinan Civil War 西南戦争関連
Satsuma Army Headquarter (Sokaku Temple) 薩軍本営 (宗覚寺)
Meiji Government National Army Detached Force Headquarter (Jion Temple) 官軍衝背別働旅団本営 (慈恩寺)
Fierce Battle Field Yatsushiro Shrine 激戦地 八代神社
Fierce Battle Field Sakura Baba 激戦地 桜馬場
Fierce Battle Field Shunko Temple 激戦地 春光寺
Fierce Battle Field Hagiwara Tsutsumi 激戦地 萩原堤
Memorial to War Dead Miyazaki Hachiro 宮崎八郎戦没碑
Memorial to War Dead Governement Army Soldiers 官軍墓地

Yatsushiro Castle Ruins 八代城跡
Imperial Tomb Prince Kaneyoshi 懐良親王 (かねよししんのう) 御陵
Yatsushiro City is located at 45 km south from Kumamoto. This area has a long history. It is not sure when this area starts but historical information of this area appeared in 7 century, therefore it has at least 1300 year history. Yatsushiro was one of three trade ocean port in 7 century to and from Korea and China. Once this was the biggest city in Kumamoto in 16 Century.

西南戦争 八代の戦い

田原坂で薩軍と官軍が膠着状態の時 (田原坂の戦いは3月20日まで続く)、明治政府は熊本北部から攻めていた従来の作戦に行き詰まりを感じ、南から薩軍を挟み撃ちにする計画に変更。衝背軍と呼ばれる官軍別働隊4000人が長崎を出港、天草を経て、八代の南に位置する日奈久の洲口浜に3月18日に軍隊が上陸。当初は日奈久の港に上陸を予定していたが、薩軍守備隊の存在が報告されて、その少し南の洲口浜に大型船は陸までは近づけない遠浅のため舟艇にて上陸した。薩軍も官軍の熊本南部からの上陸は警戒していたものの、守備隊は僅か300名で、戦いにならず、官軍は一気に球磨川を渡り、八代に進軍し占領する。本営を八代の西にある光徳寺に設置。別働隊は慈恩寺。八代を攻略した事で官軍の後続の部隊が八代に続々と上陸して来た。

Meiji Government National Army Detached Force Headquarter (Jion Temple) 官軍衝背別働旅団本営 (慈恩寺)

何故、薩軍は熊本の南の防備がこれ程手薄だったのだろうか? そもそもこの進軍の目的は西郷政府尋問使節護衛であったため、長期戦を想定しておらず、補給・兵站に対するの意識が希薄だった。熊本城攻略をすれば、政府が対話に応じると予測、熊本城攻略は短期で終わると想定していた。この様な事情で、熊本城攻略に資源を集中した。そうこうするうち田原坂にかかりっきりになり、南の防備どころではなく、早く決着をつけようと更に兵力を熊本に集中したと言うことだろう。
官軍は八代を基地として、熊本に向かう数カ所で薩軍と戦いが始まる。松原での戦いは薩軍が官軍を苦しめたが、官軍はようやく、3月31日に松橋を陥落させた。その後は4月1日には宇土まで一気に攻略。別動第3旅団も、婆裟神峠での薩軍の激しい攻撃を退け、堅志田まで進んだ。官軍は補給体制不足を解決するまで宇土にて待機する事になり、僅か10km先の熊本城救援への出発は4月12日までとなりその間、宇土の緑川で薩軍と対峙が続いた。
官軍が八代から各地の薩軍と戦っている間に、田原坂から別府晋介、辺見十郎太らが兵員募集のため、密かに鹿児島へ戻っていた。3月26日には約1500名を集め、鹿児島を北上し、衝背軍をさけて人吉に入り、今後の動きを検討していた。3月31日に熊本協同隊・宮崎八郎が人吉に到着し、桐野利秋の特命を伝え、八代攻撃の準備に入る。
4月4日、薩軍約1000の兵は、球磨川沿いを進軍。坂本村の政府軍を敗走させ、八代市街まで約3kmまで迫る。薩軍は宗覚寺に本営を設置、この後、官軍と激戦が始まる事になる。

Satsuma Army Headquarter (Sokaku Temple) 薩軍本営 (宗覚寺)

Fierce Battle Field Yatsushiro Shrine 激戦地 八代神社

薩軍本営のすぐ北に位置しているこの神社付近で激戦があった。八代への侵攻は、球磨川沿いと北側から回り込む様な形の二方向から行った様に見える。この時には官軍は追加兵を続々と上陸させており、数では官軍がはるかに多かった。八代の港を攻略されたことが、薩軍としては致命傷になった。西南戦争戦争を追っていると、やはり西郷隆盛は本格的な戦争を考えていた様には思えない。当然、官軍が南から攻めてくることも予想できたが、準備を全くしていないに等しい状態だ。明治政府の陸軍でトップをしていた西郷や桐野、それに多くのを切れ者がいた筈。もう、ここに至っては、勝つための戦争ではなく、いかに強く主張を世間や政府に見せるかの戦争だ。ここで尻尾を巻くわけには行かない所に追い込まれている。
この神社の狛犬が少し変わっている。一般的な狛犬は神社の守りであり荒々しいのだが、ここの狛犬はペットにしてもいいぐらい可愛らしい。
この八代には九州で三大祭りの妙見祭があり、毎年盛大に催されれいる。境内にはそれが展示されていたが、ガラス越しなので写真はうまく撮れなかった。ここにかけられているパネルが洒落ていた。

Fierce Battle Field Sakura Baba 激戦地 桜馬場

春光寺から球磨川に向かう道路沿いに激戦地跡の標識が建っている。球磨川と春光寺の間にあり、春光寺の大砲での攻撃の前線という模様だったのだろうか?もう一つの激戦地であった萩原堤もすぐそこ。八代神社も程ない距離にある。この地域一帯が官軍と薩軍が入り乱れて、各所で熾烈な戦いがあった。この地を見ていると、当時の戦闘の模様が浮かんでくる様だ。

Fierce Battle Field Shunko Temple 激戦地 春光寺

薩軍の球磨川沿いから八代に攻め上がる基地。薩軍はここに大砲を設置して、八代方面から球磨川沿いに攻めてくる官軍に砲撃を行った。
4月6日、薩軍は球磨川沿から八代市街へ突入。しかし官軍の反撃受け、次第に後退し、辺見隊は球磨川・荻原堤を渡河。別府隊と合流し人吉方面へ後退していった。この戦いで辺見隊に同行していた宮崎八郎が戦死している。

Fierce Battle Field Hagiwara Tsutsumi 激戦地 萩原堤

球磨川に沿って、もう一本細い川が流れている。それぞれに小高い堤がある。この両側に薩軍、官軍が兵を配置して、川越しに銃撃戦が行われただろう。河原や川に多くのしたいが散乱していただろう。この地域にはそれ程多くの民家はない。当時はもっと見晴らしが良く、この地に大勢の軍隊が戦っていた事を想像する。

Memorial to War Dead Miyazaki Hachiro 宮崎八郎戦没碑

この宮崎八郎は有名な宮崎滔天の兄で、ルソーの社会契約論に影響を受けて自由民権運動家となった。この西南戦争では民権党の同志と共に熊本協同隊を結成。隊の参謀長として薩軍・桐野利秋の傘下で戦った。明治維新から僅か10年で自由民権運動が活発化しており、政府に対しての不満か、変革を目指してか、薩軍に合流。想像だが、宮崎もこれ程の戦争になるとは思っていなかったのではないか、西郷の東京に意見をしに行く際に、自分たちの理想とする自由民権も主張に盛り込めればと思っていたのではと思う。この薩軍に合流したのは武士の世の終わりに行き場がない不平士族だけではなく、積極的に明確な思想を持った若者もいた。西南戦争はその機会と 捉えた者も多くいたと考えている。宮崎の遺体から「民約論」が出てきたという、享年27、今からの時に亡くなった。最後まで理想のために戦った。この時代、こんな思いを抱き、道半ばで倒れていった無名の若者達が多くいたとと思うと胸が痛む。

Memorial to War Dead Governement Army Soldiers 官軍墓地

官軍別働隊の本営からわずかの距離のところに、官軍墓地がある。個人個人の墓ではなく、戦後しばらくしてこの地で多くの人骨が見つかり、集めて供養した。

Yatsushiro Castle Ruins 八代城跡

八代城は江戸時代に加藤清正の嫡男で第2代熊本藩主の加藤忠広が幕府の許可を得て築城された珍しいケースの城。当時は一国一城の例で、軒並み多くの城が破却されていたが、熊本藩では、熊本城の他にこの八代城が明治の廃城例まで存続した。築城許可の理由については諸説ある。南の薩摩藩の牽制のためとか、天草のキリシタン監視とか (天草島原の乱の起こるだいぶん前のこと)、豊臣恩顧の加藤家に経済的負担強いて弱体化を狙ったとか (この後に、加藤忠広は理由不明だが、改易で加藤家は歴史から姿を消す。)
城主は加藤家から細川家が熊本藩に移封してからは筆頭家老の松井家が廃城まで務める。西南戦争時には松井家旧臣360名が八代正義隊を結成し、官軍が日奈久から八代に到着した時に合流して、薩軍と戦っている。

Imperial Tomb Prince Kaneyoshi 懐良親王 (かねよししんのう) 御陵

懐良親王の墓がこの九州にあったとは知らなかった。先日、鞠智城にいった際に、南北朝時代に九州で足利幕府、足利直冬、後醍醐天皇南朝の3勢力で三つ巴の戦いの渦中にあった事を知った 。結局、都には戻れず、この地で病死した。御陵は宮内庁の管理下だった。こんなに古い皇族も宮内庁の管轄だったとは驚き。

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