Ride in Kyushu Day 44 (28/1/19) Sakitsu Area 崎津地区

Amacusa Colegio Museum 天草コレジオ館
Kawachiura Castle Ruins 河内浦城跡
Amacusa Colegio Ruins 天草コレジオ跡
Sakitsu Village (World Heritage) 崎津地区 (世界遺産)
Sakitsu Suwa Shrine 崎津諏訪神社
Tomi Guardhouse 遠見番所跡
Sakitsu Cathoric Church (Original) 崎津天主堂 (創立時)
Grave of Father Halb ハルブ神父の墓
Sakitsu Cathoric Church 崎津教会
Sakitsu peculiar customs 崎津の風習
Komiyachi Castle Ruins 小宮地城跡
Started in early morning as today’s ride would be long and hard. Taking national road in mountainous area passing three passes.

Amacusa Colegio Museum 天草コレジオ館

Memorial place of Amacusa Colegio shows what portuguese brought and introduced to Amakusa, very first to Japan. Lots of musical instrument which were made by Amacusa Colegio students, such as Pipe organ with bamboo shoots. Most remarkable one is Printing machine which was brought by 4 Colegio Students who travelled to Europe and met with Pope in Rome as representatives of each Christian Daimyos.
There are some collections of “Hidden Christian goods. They looks like buddhist images but they are Mother Maria.
By the printing machines, Amacusa Colegio students published many books such as Heiko Story and Aesop translated in Japanese (not by Japanese characters but Portuguese alphabet.) this was a break through of book history in Japan. Some Amakusa people made Aesop story dolls to show what story can be read in book printed in that time. 

Kawachiura Castle Ruins 河内浦城跡

This castle is a central base of ruling Amacusa territory by Amakusa Hisatane (天草久種) under Konishi Yukinaga (小西行長). Both were Catholic Christian and protected missionaries from Portugal. This is the main reaxon why Japanese Christian culture was developed in Amakusa and so many catholic christians existed there. After Konishi Yukinaga was killed by Tokugawa Ieyasu after Sekigahara war. Amakusa family was moved to Okayama to serve to Kobayakawa but soon his family ended. Christians and missionaries were not protected any more after Amakusa family vanished.
この小西行長や天草鎮尚/久種親子の存在が天草にキリシタン文化が栄えた大きな要因だ。天草五人衆の中で最も熱心なキリシタン大名で、秀吉のバテレン追放令の発布後も宣教師を保護していた。多くのポルトガル宣教師がここを経由して日本の布教活動を行なっている。日本人宣教師養成学校として、コレジオ(カレッジ)をここに置いたのもこの天草氏の保護があったからだ。城は天草島原の乱の後、鈴木重成の命により寺が建てられた。
城跡に建てられた崇円寺

Amacusa Colegio 天草コレジオ

城から程ない所に建てられている。安土城を訪問した際にセミナリオ(コレジオと同じ)もみたが、双方とも立地環境が非常によく似ている。川沿である事と城に極めて近い事。理由は重要と思ってか、目が届く範囲にしたかったのか?機会があれば聞いてみたい。コレジオが天草にあったのは1597年(慶長2年)までで、天正遣欧少年使節の伊東マンショ、原マルティノ、中浦ジュリアン、千々石ミゲルなどが勉強していた。彼らが持ち帰ったグーテンベルク印刷機で平家物語、イソップ寓話、羅葡日対訳辞書を刊行。コレジオで学んだのは59名。教育内容はレベルがかなり高い。コインブラで教えていたものをベースに作られたという。ラテン語、ラテン文学、日本文学、キリスト教、仏教、地理、算数、唱歌、楽器、弁論、説教、実習科目では、油絵、水彩画、銅版画彫刻、印刷術、オルガン製作、時計、天文器具製作があった。これは驚きだ。この内容は当時の日本では教えているところはない。幕末に盛んになった藩校でもここまでの内容では無かった。もし、コレジオが存続していれば、日本の歴史は大きく変わったであろう。明治維新などは200年程早くなっていたか、無かったか。日本という国はとんでもなく進んだ国になっていただろう。秀吉、家康がこのキリシタン文化を潰してしまったのだが、織田信長が存命であったらどのような展開になって行っただろうか? この仮説を考えているのだが、いまいちまとまらない。

Sakitsu Village (World Heritage) 崎津地区 (世界遺産)

この地域に多くの隠れキリシタンが存在した。理由は先に述べた天草氏のキリシタン擁護政策と天草島原の乱に参加していない事があると思う。天草から参加したのは北部の三千人でこの南部の天草氏の領内からは参加していなかった。とは言え、禁教下で信仰を継続して行くのは大変であったであろう。後は地理的な理由もあるのではないかと思う。天草は今でこそ陸路で行けるのだが、当時は島であった。天草には100もの島がある。陸路でも自転車でここに来るのは大変だった。その陸路も50年前に天草五橋で繋がった。当時はここまで来るのは船が唯一の手段であった。また崎津は海以外は山に囲まれており難所を越えてやっとたどり着く。ここに来るまで数カ所トンネルを通る必要があった。
Sakitsu Suwa Shrine 崎津諏訪神社
天草島原の乱の後150経って、天草崩れが起きる。崩れとはキリシタンが崩れるという意味だそうだ。この地区に隠れキリシタンがいるという告発があり本格的に取り調べを行い、この神社に信仰に使っている道具を捨てさせた。結果崎津始め天草地域で5000以上の隠れキリシタンが見つかった。崎津では人口2千人のうち千七百名がキリシタンであった。これには代官所が困り果てた。全員処罰をすれば天草が成り立たなくなる。島原の乱では大変であった。3万人もの住民が一度に消滅、各地から移民で何年もかけて対応せざる得なかった。この二の舞は避けたいのが幕府だ。その結果、処罰には及ばず、「心得違い」であるとして放免している。当時は寺の檀家と神社の氏子になる必要があったので、表面上は仏教徒や神道徒として振舞っていた。寺も神社もキリシタンである事は薄々気づいていたが寛大であったのか、面倒を避けたのか表沙汰にはしていなかった。近年これを美談として語られている。寺が隠れキリシタンを助けたというストーリーだ。そうかもしれないが、積極的な支援ではなかったと思う。これは日本人固有の宗教感があるのでは無いだろうか。古くから神仏習合の習慣があり、宗教間の垣根は他の国に比べて極めて低い。そのような感覚を持っていたのではなかったか。

Tomi Guardhouse 遠見番所跡

番所はあったようだが機能していたのか?

Sakitsu Cathoric Church (Original) 崎津天主堂 (創立時)

崎津の教会の始まりはアルメイダ神父により永禄12年(1569年)であった。禁教令の期間は教会は勿論撤去されていたのだが、明治5年に禁教令が廃止になり、明治16年になり再度建てられた教会がここにあった。ハルブ神父は布教の為に明治22年(25歳の時)に来日。この崎津には1927年に赴任。1934年に新しく現在の教会を建て、来日してから一度も帰国しないまま、この地で80歳で生涯を全うした。凄い人だ。これ程強い信仰と使命感を持ち続けられるのか、兎に角凄い。それもこのような異国の田舎で…

Grave of Father Halb ハルブ神父の墓

Sakitsu Cathoric Church 崎津教会

新教会は江戸時代に踏み絵が行われていた役所があった場所に建てられることになった。これはハルブ神父の強い要望が受け入れられたという。執念が感じられる。ハルブ神父の信徒への思いやりなのだろう、畳敷の礼拝堂だ。こんな教会を見たのは初めて。
村の山の中腹に墓地があり、何軒かの墓には十字架が立っている。今は以前ほどキリスト教徒の数はいないがそれでも多い方だ。

Sakitsu peculiar customs 崎津の風習

崎津は漁師の村で独特の作りがある。トウヤ(背戸屋)と呼ばれる密集した家屋の間をすり抜け海に出られる幅1m弱の細い小路とカケ(掛け)と呼ばれる海に突き出た平均幅5m四方のテラス状の木組足場で船の係留や漁具の手入れ・干物干しなどに使われる。両方とも現在でも使われている。
もう一つは天草全土で見られるのだが、一年中、しめ縄を玄関に吊るしている。これはキリシタンでないという証であった習慣が今でも残っている。
海の出口にマリア像が立っている。漁師の無事を祈って建てられた。キリシタンのと漁師の村ならではだ。

Komiyachi Castle Ruins 小宮地城跡

帰りは来た道とは違う県道を選んだ。一車線しかない細い道路だが、車が殆ど通らない。山道を必死に登り、くだりは道のど真ん中をスピードを出して降りていった。快感!

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