Ride in Kyushu Day 43 (27/1/19) Amakusa Hondo Castle Ruins 本渡城

Battle Field At Hondo 天草島原の乱 本渡の戦い
Memorial Panel Amakusa War 船の尾 尾越の板碑
Hondo Castle Ruins / Amakusa Christian Museum 本渡城跡 / 天草キリシタン館
Martyr Park 殉教者公園
Graves of Karatsu Soldiers 武将の墓
Meitoku Temple 明徳寺
Amakusa Culture Center 天草文化交流館
No long ride today and visit some places within Hondo central area of Amakusa district.

Battle Field At Hondo 天草島原の乱 本渡の戦い

1637年11月13日に初戦で敗れた唐津藩兵士は、ここ本渡まで退却して本渡城を拠点にして、一揆軍を待ち構えていた。激戦地は町山口川にかかる日本で現存している最古の石橋の祇園橋の付近で起こった。ここを越える本渡城へは僅かの距離の為、双方ともに必死の戦闘が行われた。町山口川は戦死者でせき止められたと伝えられているぐらいの激戦であった。石橋なるものはいくつか見たがこの石橋はなるほど古いだけあり、他の石橋とは少し異なっている。石が横ではなく、縦に敷き詰められており、平に整形されておらず、粗く加工されているだけで、隙間も目立ち、でこぼこのままだ。昔はこの様な石橋が主流だったのか。

Memorial Panel Amakusa War 船の尾 尾越の板碑

戦国時代にはこの天草は天草五人衆と呼ばれる豪族が割拠し、お互いに争いを行なっていた。もともとこの本戸 (ほんと、現在では本渡 ほんどと呼ばれている)は天草氏の領土であったが、昨日訪問した富岡の志岐氏に侵され占領されていた。天草氏が志岐氏に1530年に戦いを挑み、晴れて本戸(本渡)城を奪還し、その際に亡くなった人の供養を行なった。その慰霊碑。

Hondo Castle Ruins / Amakusa Christian Museum 本渡城跡 / 天草キリシタン館

本渡城跡は殉教者公園として整備されており、中には天草島原の乱や隠れキリシタンの展示として天草キリシタン館が建っている。入り口には例のごとく天草四郎の銅像がある。天草には一体いくつぐらいこの天草四郎の銅像があるのだろうか? いたるところにあるような気がするし、同じような展示をしている資料館が多くある。世界遺産になってから増えたのだろうか? 本丸跡に社があった。何かと思い解説板をみると、もう一つここで大きな戦があった。それは、豊臣秀吉の九州征伐で小西行長、加藤清正、更に有馬、大村もがこの城に立て籠もる天草氏の客将の木山弾正惟久を攻め、弾正の妻を筆頭に女性まで最後まで戦って亡くなっていった。それを祀った社。弾正社と言う。この際にキリシタン大名の小西行長は城内のキリシタンを救う為、色々と骨を折ったそうだ。
本渡城は山城で本丸跡の天草キリシタン館からは天草市の中心の本渡や天草の島々が見渡せる。

Martyr Park 殉教者公園

天草島原の乱、それに禁教令時代殉教したキリシタンの慰霊碑がある。そこに向かう階段の両脇には灯籠が並ぶ、灯籠はキリシタンの姿と十字架を変形させた印でデザインがされている。
同じ所にキリシタンの墓とキリシタン信仰を守るために尽くした人の慰霊碑がある。一人は宣教師として来日し、精力的に活動をしたルイス・デ・アルメイダ,もう一人は伴天連追放令で宣教師が国外追放になった後信徒を指導し、殉教したアダム荒川。彼の殉教地は富岡で富岡城の麓に墓があった。その殉教の時の様子が残されている。富岡は唐津藩の飛び地で寺沢氏が治めていた。キリシタンは禁教ではあったがまだ比較的穏やかな年締まりであった。しかし、「その番代であった川村は、ほどなく、主君の計画がうまくいかないことに気付いた。アダム荒川がいる限り、信者は信仰を守り続けるであろう。老いた伝道士は責任をもって職務に献身していた。そこで川村はアダムを呼び、始めは穏やかに棄教を勧めた。それは川村自身だけの望みではなく、領主と将軍の命であると説明した。しかしアダムは、これに応じなかった。川村の態度は一変し、脅しと脅迫で弱い老人に恐怖を与えようとしたが、すべては無駄であった。川村は行動に移った。袋湾の浜に裸にされたアダムは二本の丸太に縛られ、朝から晩まで、3月の冷たい風にさらし置かれた。アダムは静かに祈り、近付く人びとに神について話した。一週間たっても変化が見られなかったので、アダムは狭い部屋に監禁された。そこでも老人は信者たちを励ましながら深い祈りの日々を続けた。ついに寺沢の堪忍袋の緒が切れ、アダムが信仰を棄てないのであれば殺すよう命じたのである。信者はアダムの殉教の立ち会いが許されず、6月4日、アダムは富岡城に移され、5日の夜明けごろ城山の裏道を下ったところに連れ出され、そこで斬首された。そこは、小川が潮入りで袋湾に注ぐ場所であった。アダムの遺体は重石を付けられ、湾外の海中に沈められた。」

Graves of Karatsu Soldiers 武将の墓

キリシタンの墓ばかりが注目されるのだが、ここには唐津藩の兵士の墓も残されている。彼らも主君の命令で戦わざるを得ない立場であった。天草島原の乱では幕府軍も非常に多い戦死者を出している。幕府軍戦死者の慰霊碑が少ないのは、民心を反映してのことなのか?

Meitoku Temple 明徳寺

この寺は鈴木重成が天草島原の乱以降、天領となったこの地を復興のため、兄の????を呼び寄せ建立した仏教寺院。キリシタンから
仏教で民衆の気持ちを収めたい彼の意図がある。しかし地域によっては、隠れキリシタンとして信仰をそれ以降長く保っていった。それほど天草や島原にはキリシタン信仰が根付いていたのは驚きだ。なぜこんなに長く維持されたのか、その背景はなんだったのか、知らない何かがあるような気がする。教科書の歴史考察では解明できない何かがあると感じる。出来るだけそれも探ってみたい。

Amakusa Culture Center 天草文化交流館

旅で見たいと思っているものに、郷土文化がある祭りとか民芸品に興味がある。本当は、民芸品は買ってコレクションにしたいぐらいなのだが、自転車旅で荷物になるので、この旅では買わないと決めている。一度買うと全部欲しくなるから、写真だけにする事にした。天草の代表的民芸品はこの3つかな。他のもあるのだが、この3つは行くところでは必ず展示されていたから、そうなのだろう。
バラモン凧 なぜバラモンと言うのかはわからないそうだ。伴天連が伝えたと言われているが、少し疑問。係員は南欧の感じがするでしょうと言っていたけれどバラモンでイメージするのはバラモン教でこれはインドヒンズー教の源流宗教だから、凧が出す音からでもきているのではないか。後二つは手毬と天草人形。天草人形の女性が赤ん坊に乳をあげているのは、隠れキリシタンからマリアとイエスに見立てて拝まれていた事もあるそうだ。個人的には凧が気に入っている。講習会で1日4時間3日で完成させることができるそうだ。いつか本でも見ながらチャレンジしたい。

0コメント

  • 1000 / 1000