Ride in Kyushu Day 42 (26/1/19) Amakusa Tomioka Castle Ruins 天草 富岡城

Amakusa Tomioka Castle Ruins 天草 富岡城
Memorial Stone of One Thousand Christian Martyrs 富岡 切支丹慰霊碑 千人塚
Amakusa Shiro Port Exile to Shimabara 天草四郎 乗船の地
Long ride to Tomioka castle ruins, which as a battle field in Amakusa-Shimabara Rebellion, which is one of theme in Kyushu Ride Journey. The route to this Tomioka is first through inland  mountainous area and then along sea coast. When inland road ends Shimabara area appears cross Ariake bay.

Amakusa Tomioka Castle Ruins 天草 富岡城

天草・島原の乱 島原の乱 初戦の地
島原での戦いは数週間前に島原城、原城を訪れた。歴史の時系列では前後するのだが、今回は天草側での戦いを追って行く。
昨日、熊本から天草に向かう道で偶然、天草一揆初戦の地というのがあった。ここは談合島で島原キリシタンと天草キリシタンが蜂起の約束をした後、まず島原で蜂起、そして天草ではここで蜂起が起こった。1637年11月13日のことだった。一揆軍2000人、迎え撃つ唐津藩兵士800人、一揆軍は地域の住民の大半の寝返りもあり益々兵力が増え、激戦の末に唐津軍を破る。唐津軍は、本渡(ほんと)に撤退する。住民の寝返りと書いたが、一揆軍が到着するまでは、唐津軍に従わざるを得なかった状況で、一揆軍の勢いを見て、一気に一揆軍に加わったといった方が良いだろう。
島原の時にも書いたが、天草でも民衆は重税に苦しんでいた。天草はキリシタン大名の小西行長が治めていたが、関ヶ原で西軍に組みしたため、改易となる。その後は唐津藩の寺沢広高にこの地はを与えた。唐津と天草はかなりの距離があり、天草は飛び地領だった。ここを収めるために、この地で廃城となっていた富岡城を修復し、統治の拠点とした。当時は天草地方の中心はこの富岡だった。小西行長と加藤清正に征服された天草には「天草五人衆」が分割で統治していた。小西時代には与力としてこの地でを治めていた。今でもこの五人衆の名字がその地域名として残っている。その中で指導者的役割を担っていた志岐氏がこの富岡を治めていた。小西もこの五人衆もキリシタンに改宗していた。動機はポルトガルとの武器交易にあった。特に鉄砲を買い入れる事が主たる目的で、その見返りにキリスト教の布教を許したのだ。後に志岐氏はポルトガルとの交易がうまく行かず棄教している。この小西時代には天草地域の8割がキリシタンであったと言われる。
唐沢氏の統治に変わってキリシタンを取り巻く状況は一変した。寺沢広高は元キリシタン大名であったが禁止令で棄教している。棄教した場合、それを証明するためにキリシタン迫害は激しくなった。また、食べるものが残らないぐらいの重税に苦しんだ。島原の松倉氏が石高を過剰に申告をし、その負担が領民に課されたのと同じく、唐沢氏も石高を実際の2倍で申告し、それに見合う税を領民に強いた。もう一つの類似点はキリシタン大名統治から反キリシタン大名統治に変わり弾圧が激しくなっていた事。旧キリシタン大名の家来が新大名の統治下では奉公先がなく浪人が多数おり、世に返り咲く機会を作ろうとしていた。このように島原と天草は非常に似ている状況であった。両地域の代表者が島原と天草の中間点にある有明海の湯島(談合島)で一揆の蜂起を相談合意し、小西行長の旧臣の息子の天草四郎を盟主と決めた。この談合島は島原からも見えたが、この天草からも見える距離だ。この距離なので、天草と島原とは頻繁な交流があったようだ。
天草四郎は当時16才で優秀ではあるが、軍を指揮するほどの実力はなかったであろう。彼を盟主に祭り上げたのには理由がある。一揆軍を構成するのは一般領民が多く、キリシタンであった。そのキリシタンの団結を強めるために天草四郎は利用された。まず家柄が良い。かなりの切れ者で、長崎に留学をして蘭学を学んでおり、知識的にも申し分なかった。長崎留学中に西欧人から学んだ手品を天草で披露したのが、秘蹟を起こしたという噂に変わった。天草で布教をしていたママコス神父が残した予言で25年後に神が降誕するという言い伝えと天草四郎の誕生が符号した。これが天草四郎が担がれた理由であった。実際の主導権は旧小西、旧大村の浪人達が握っていたであろう。
天草四郎は小西行長の遺臣・益田好次の子として大矢野島出身とされており(諸説ある 宇土とか、熊本とか)、この大矢野には天草四郎が作ったとされている教会の跡地や天草四郎ミュージアム、更に土産物街の藍の天草村には四郎の巨大な銅像がある。大矢野の観光に一躍買っていた。四郎が始めた教会というのは少し信じがたい。16才の少年で、直ぐに一揆軍の盟主に担がれ戦闘に参加している。作ったとすればその前にだが、おそらくどこかに集まって、四郎が色々な話をしていたのだろう、それが恒例になり、教会を建てたとなったのではと思う。
天草の本渡から30km走って、やっと富岡城に到着。ここで一揆軍と唐津藩軍との戦闘があるのだが、この戦闘の前にもう一つの戦いが本渡であった。それについては明日訪問するのでその時に触れる。まずはこの富岡城についてだが、先に述べたように、天草五人衆の志岐氏が小西行長の与力として治めていたところ。本城は志岐城でここは出城であった。小西行長が関ヶ原の後、改易になり、唐津藩の飛び地となる。その際にこの富岡城跡に城を築いた。現在は過去の文献を基にして、城の櫓や塀が復元されている。その元となったのは、天草島原の乱の後、天領として江戸幕府から代官として派遣された木村重成が改修を行った時のものだ。再度、一揆が起こらないようにとの警戒感と、外国船の監視の意味もあり、比較的大きな城の縄張りだ。平山城で山の部分だけでなく、海岸線から城の敷地となっていた。島原で原城を見たが、海岸に突き出て、陸地からは山をよじ登らなければならない城は守りには堅固だ。原城が、力攻めでは落とせなかったように、ここも一揆軍は攻め落とせなかった。この城の難点は水であった。一揆軍がもう少し長く包囲しておれば、富岡城は攻略できたであろうが、幕府からかなりの数の軍隊が来ているのでその余裕はなかっただろう。一揆軍は2度にわたって責めたが落とせず、それ以上の時間をかけるのを断念し、天草から島原に渡り、原城で決戦に及ぶことになる。
城の本丸跡にはビジターセンターがあり、そこの係員から色々な話をしていただいた。天草のヒーローは天草四郎の他には鈴木重成だそうだ。銅像が建っている。(写真左上)重成の兄の正三だ。(写真右上) 重成の功績は、多くの領民がこの乱で死亡している。領地の基盤が失われたにもかかわらず、それを立て直したことだ。広沢氏が過剰申告していた石高を適正に戻すことを江戸幕府に陳情、江戸に出向いた際、腹を切ったと言われている。彼の主張が認められるには後18年かかるのではあるが..... 領民思いの慈悲深い代官であったとの評判で、その美談は今でも語られている。天草のいたるところに鈴木神社なるものがあり、天草では神様扱いだ。

Memorial Stone of One Thousand Christian Martyrs 富岡 切支丹慰霊碑 千人塚

城の近くには天草島原の乱で亡くなったキリシタンの慰霊碑を作っている。天草島原の乱から10年後のことである。仏式ではある。殉教者キリシタンへの慈悲とこれからは仏教中心であることを形で見せたのであろう。
この富岡城への道に、頼山陽がここに来たという記念碑が建っていた。彼の著した日本外史は幕末の尊王攘夷思想に大きな影響を与えた。海岸線は綺麗な松林のトンネルがある。今日は風はあるが、快晴で、トンネルの中は風も弱まり快適に走れる。

Amakusa Shiro Port Exile to Shimabara 天草四郎 乗船の地

富岡城を諦めた一揆軍は島原の一揆軍と合流して、幕府の大軍勢との戦いを行う。天草からはこの地から船で移動した。島原は直ぐそこにある。これからの島原での戦闘は1月6日の原城訪問時の旅日記を見てほしい。
ここからは余談になるのだが、天草のことについてだ。資料館との係員さんと話しをした内容だ。熊本から自転車で天草まで走って、感じていた事を率直に聞いてみた。天草と熊本の関係は強くないのではないかと思っていた。天草は島の集まりで、橋がないと移動が出来ない。それもルートは一本きりだ。天草中心の本渡まで80キロある。頻繁な行き来は無理だ。歴史的にも加藤清正や細川氏の熊本には属していなかった。係員さんが言うには、言葉も熊本弁は使わない。どちらかというと島原の言葉と同じだ。橋もできたのは50年前。熊本の一部の意識より、天草がたまたま熊本県に属しているという感じだと言っていた。天草は、長崎にmなったり大分になったりもしている。複雑な土地柄だ。自動車で熊本に行くのは2〜3時間、天草空港から福岡へは1時間以内でいける。大阪にも熊本に行くより早い。ただ、天草からはこの2都市しかないのだが… 以前は松山や神戸行きもあったのだが…
天草の中でも五人衆時代の地域の特色がまだ根強いみたいだ。戦国時代から、バックボーンは当時のものがまだ続いているように感じた。

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