Ride in Kyushu Day 41 (25/1/19) Kawajiri/Uto/Amakusa 川尻/宇土/天草

Kawajiri 川尻
Seinan Civil War Satsuma Kawajiri Base薩軍川尻本営/野戦病院
Kawajiri Post Town 川尻宿
Kawajiri wharfs / Rice Storehouse / Loading Area 川尻船着場/米倉/手渡し場

Uto Wharf Bridge 宇土船場橋
Misumi Port 三角港
川尻に寄ろうと思ったのは、西南戦争で薩軍が熊本に入る前に、この川尻に本営を置いており、その場所や距離感が知りたかったからだ。

Seinan Civil War Satsuma Kawajiri Base薩軍川尻本営/野戦病院

川尻は古い町で鎌倉時代に川尻三郎実明が領主として治めていた。その川尻実明が建立した延寿寺にまず本営を置き、熊本を素通りするか、攻めるかの軍議が行われ熊本城にある鎮台を攻める事に決した。この後すぐに、本営は???に移り、この寺はこの後に展開される西南戦争の負傷兵の収容治療の野戦病院、熊本戦の兵站基地として使用される。ここに収容され亡くなった薩軍兵士は850名に及び、この寺に埋葬されていた。後に殆どの遺骨は鹿児島の家族が引き取り、今は薩軍兵士の慰霊塔が置かれている。亡くなった薩軍兵士の名前が書かれた石板もある。小さな町だ。この地域の住民が駆り出され大勢がこの寺の病院で働いていただろう。薩軍がここに着いた時は、意気揚々で勢いがあった筈で、誰もその後の苦しい展開は考えていなかった。戦況の悪化で薩軍やこの地域の住民の気持ちはどう変化していっただろう。
これが延寿寺から移った本営。商家が旅籠の様だ。

Kawajiri Post Town 川尻宿

ここ川尻は薩摩街道の宿場町で港町として栄えた。

Kawajiri wharfs / Rice Storehouse / Loading Area 川尻船着場/米倉/手渡し場

延寿寺もこの本営も川幅の広い加勢川沿にあり近くには加藤清正が築いた船着場がある。城か要塞を思わす立派な石垣で作られている。先に訪れた高瀬にも同じような船着場があった。加藤清正の偉業の一つだろう。それが細川氏に引き継がれ江戸時代の繁栄がある。
この船着場は軍港や領内の年貢米を積み込み拠点で、すぐ側に米倉跡も残っている。江戸時代は海上輸送が大量の物資の運搬の唯一の手段だったが、鉄道輸送に取って代わられ、ここも使用されなくなった。

Uto Wharf Bridge 宇土船場橋

川尻から宇土へ向かった。
1780年にかけられた石橋なのだが、残念ながら、地震で崩落してしまった。復元計画がある。
元はこの様だった。
西南戦争では田原坂の攻防が最終局面を迎えている時に、3月18日に日奈久に上陸した官軍が、その日のうちに八代を占領し、3月31日の松橋のたたかいを経て、この宇土に到着し、宇土の戦いが4月1日に行われた。官軍と薩軍は緑川を挟んでのげきせんとなった。官軍は薩軍を退けたものの、兵站を整えるため、ここに留まり4月12日の熊本への侵攻へとなる。
再び走りに戻り、海岸線を行く。宇土ヨットハーバーがあった。桜の蕾が膨らみ始めている。寒桜なのか?暖かいせいか。

Misumi Port 三角港

宇土の次は宇城市に入る。ここには三角港がある。ここは三池炭鉱と同じく明治の産業革命の世界遺産に選ばれている。三角にはその世界遺産の明治から残るたてものが保存されている。ここは明治政府が招いたオランダ人のムルドルによって、港の街全体の設計が行われ、単に一つの産業とか建物に限定したものでは無かった。街全体が、なんとなく、バランスが取れていたことが感じられる。小さな地域なのだが、丘には裁判所や役所を配置し、平地には港とそれに関わる施設があり、水路も作られている。
水路
裁判所と役所
この後はいよいよ天草に入る。至る所に天草四郎の銅像があった。この日の見た天草島原の乱に関わるところは、後日まとめて記そうと思う。(1月26日参照)
ここにはそれ以外で天草で見たものを乗せる。
有明町には大きなタコの像。タコ街道と書いてある。タコが名産なのだ。このすぐそばにサンタマリア館というのがあって、のぞいて見たら、営業はやめていた。隠れキリシタン遺産が世界遺産登録された時は盛況だったのだろうが、ブームが去って客足もへり、天草に乱立していたキリシタン関連の施設は経営が大変だろう。ここも天草四郎ミュージアムに吸収されている。

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