Ride in Kyushu Day 26 (10/1/19) Saga Castle Ruins 佐賀城跡

Saga Castle Ruins 佐賀城跡

佐賀城 Saga Castle Ruins 

佐賀城は殆どが消失して残っていないが、堀の位置などは大部分が昔のままであった。しろの大きさを実感するため堀の周りを一周自転車で走った。かなりの広さだった。堀は本丸、二の丸、三の丸、武家屋敷跡を囲んでいる。武家屋敷は堀の外側にも拡張されていた。
城跡は公園になっている。この公園の構成が面白い。公園と称している地域、つまり堀の内側には美術館、博物館、佐賀県庁、学校、店舗、そして住宅までもがある。公園が複数に分散している。言い方を変えると、公園の中に街がある。県庁などは広い敷地でいい環境だ。最も、佐賀藩の藩庁はここにあったし、明治以降も、藩庁が県庁に変わっただけ。建物が新しくなっただけで、違和感を持つ方がおかしい。とは言え、古風な堀や石垣の内側に、近代的なビルが建っているのは妙な光景だ。
江戸時代から残っているのは唯一門のみ。ここを入ると立派な本殿が復元され、博物館になっている。本殿の全てではなく一部だけだが、かなりの大きさだ。結構、金をかけている。中の展示も充実して、設備もしっかりしている。無料で入館できる。
新年で、お年玉の粗品を配っていた。子供が喜びそうなフィギュア。もらったのは大隈重信のフィギュアが入っていた。5種類ぐらい用意している。本当は江藤新平が欲しかった。
まだ正月という事で、門松と松飾り(しめ縄)があった。我々が通常見ているのと少し違う。「鼓の胴の松飾り」という。解説には「1638年、閉門を命じられていた佐賀藩主鍋島勝茂公が、年末を迎えた江戸・鍋島屋敷でひっそりと新年を迎えようとしていたが、12月28日に処分が解かれた。不意の開門で正月の準備がなく、納屋にあった米俵などを用いてにわかに松飾りを作り、その形が鼓の形に似ていたので鼓の胴の松飾りといいこれを吉例とした」とあった。館員さんにこれは街中でも見ますか?と聞いたが、街では見た事はないそうだ。庶民にまでは広がらなかったのだろう。当時、藩の経済状況は決して良くなく、質素倹約を奨励実践していた鍋島藩らしく門松も松の木だけの質素なものだ。
中に入ると綺麗な案内嬢が出迎え簡単に館内の説明。ロボット嬢だ。口の動きも滑らか、こちらが移動すると目線も移動し、目を見ながら話し続ける。技術もここまで来ているのか。これが商品化されると、世の寂しい男性は買い求めるのかな。
この本丸御殿は天守閣が江戸時代に火災で消失してからは、政治の中心になったところで、天守閣は再建されなかった。天守台のみが残っている。
佐賀城は鍋島藩(佐賀藩)の藩庁があり、鍋島本家の居城であったが、元は龍造寺氏の居城であった村中城を拡張し、佐賀城とした。鍋島藩10代藩主 鍋島直正(閑叟)が余りにも偉大すぎて、そのほかの藩主や龍造寺氏は影が薄く、特に龍造寺氏については、佐賀市には見るものもない。龍造寺の中では最も異才を放った龍造寺隆信 (1月8日に訪れた島原で有馬晴信が仲田畷で打ち取った武将)の生誕の石碑が佐賀城近辺にあるのみ。鍋島氏は龍造寺の家臣で主君で、一時期は九州北部はこの龍造寺が勢力を持っていたのだが、全く人気が無い。
鍋島藩は地理上は綺麗にまとまっているわけではなく色々な地域に飛び地を持っている。1月5日に訪れた島原の神代(こうじろ)城(鶴亀城)などはその一つ。嫡男以外に分領をしたり、恩賞として全く離れた領地をもらったりして、時代と共に複雑になっていく。これは鍋島藩に限った事では無いが、九州は特に複雑だ。対馬藩が九州本土に飛び地を持っていたりする。
道を後戻りしてまで佐賀城に来たかった理由は鍋島閑叟に興味があった。不思議な人との印象がある。
幕末に西欧の技術を取り入れ、産業でも軍事設備で最も進んだ藩であった。これだけの技術があれば、幕末、明治維新で主導的な役割を果たせた筈だが、殆ど行動を起こさなかった。各藩は勤皇にも佐幕にもならない閑叟を肥前の妖怪と称した。上野戦争から新政府軍にはついたものの消極的なものだった。これは鍋島閑叟の性格に起因しているのではないかと思う。幕末で活躍できたはずの河井継之助の長岡藩と似ている。鍋島閑叟は自ら技術を理解して、製造の先頭に立った。全て自分で考え、動き、指導した。反射炉建設、大砲製造、蒸気機関車などあげればきりがない。藩校を設立し、先進の文化、技術を学ばせた。
想像するに閑叟は行動を起こす前に全てのシナリオを描いていたと思う。シナリオが描けなければ動かない。これが幕末の面舞台に上がれなかった原因でないかと思っている。全て自分の手の中でコントロールしたい人だったのではないか。幕末を動かしたのは理想と情熱だった。閑叟にはそれが欠けていたと思う。彼への評価は両極端だ。この鍋島藩からは維新で何人かが活躍している。大隈重信、江藤新平、副島種臣、大木喬任、佐野常民などを輩出している。大隈重信は閑叟には否定的な評価をしている。身近に見ていたから閑叟の考えに疑問を持ったのだろう。大隈重信は画一的な教育ではなくもっと自由な教育を目指した。それが早稲田だった。彼の思想が今でも引き継がれている。
色々考えると閑叟は物凄く優秀なワンマンな中小企業の社長のように思える。リーダーは先が見えなくてもギャンブルをしなくてはならないが、閑叟にはできなかった。他藩より優れているという自負から鍋島藩に閉じてしまった。
佐賀城の後、街中を散策した。長崎街道が走っており、一部が保存地区となっている。古い建物を修復して博物館や商店として利用している。観光の目玉なのか多くの観光客でにぎわい、博物館などは平日にもかかわらず30分待ちだった。

佐嘉神社 Saga Shrine 

佐賀藩10代藩主鍋島直正と11代藩主鍋島直大を祀っている。明治初期には旧藩主を祀る事が流行ったそうだ。ちなみに江戸時代は佐賀を佐嘉と書いていたので、この神社はその時代の字をそのまま使っている。
今日もこの佐賀に泊まり、明日は大牟田市に移動。大牟田市にある世界遺産になった三池炭鉱を見る予定。

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