Ride in Kyushu Day 25 (9/1/19) Yanagawa Castle Ruins 柳川城跡

Yanagawa Castle Ruins 柳川城跡
City ride in Yanagawa 市内散策
佐賀への経路を変更。諫早経由で陸路を考えていたがこれでは2日かかるので多比良港から長洲に船で渡って佐賀に向かう事にした。出会った半浮浪者状態の斉藤さんにお別れの挨拶で連絡を取ると見送りに来てくれた。有り難い。
船には乗船客はたった6人だった。経営大丈夫なのか? カモメが乗船客から餌を貰おうと船の後を追いかけている。かなりの数のカモメが急接近してくる。圧巻!
島原は長崎県なのだが、長崎に行くよりは熊本に行く方が便利なので、島原住人のまとまった買い物は熊本に行くらしい。
熊本県長洲に到着。今日は長崎県から熊本県に渡り、福岡県を通って、佐賀県に行く。4つの県を1日で走るのは初めてだ。福岡県が有明海に接しているとは想像していなかった。

柳川城

今日は是非とも行ってみたいところがある。柳川市にある柳川城跡。城跡には何もないのだが、柳川藩の初代藩主の立花宗茂に興味があった。戦国武将の中でも豪傑で非常に魅力的な人物。と言うことで、何もない柳川城に行ってみたくなった訳だ。
立花宗茂は豊後の大友宗麟の重臣 高橋紹運(この武将も魅力的。岩屋城を訪問した時にこの高橋紹運については触れている。12月22日のブログ参照)の長男として生まれた。14才の時に同じく大友宗麟の重臣であった立花道雪の嗣子となり、立花家の家督を継いでいた道雪の娘・誾千代(ぎんちよ)と結婚、婿養子となり立花家の家督を継ぐことになった。戦をすれば連勝続き、敵の動きが見えるのか、彼の読みは的確だったと言う。大友宗麟亡き後は独立大名となり、豊臣秀吉に仕える。関ヶ原の戦いでは徳川家康の法外な恩賞での誘いを断り西軍に参加するが、関ヶ原の合戦時には大津城攻めで関ヶ原には行けなかった。関ヶ原で西軍の敗戦となると、この柳川城に帰り籠城。黒田如水や加藤清正の説得で降伏を受け入れる。柳川城開城後は改易されて浪人生活となるが、徳川家康より陸奥棚倉に1万石を与えられて大名として復帰、後に3万5千石まで加増された。大阪冬の陣の活躍で、旧領の筑後柳川10万9,200石を与えられ、関ヶ原に西軍として参戦し一度改易されてから旧領に復帰を果たした、唯一の大名であった。戦上手だけではなく、常に温厚で誠実に人に接し、そして義理堅く正直な人物などから「武士の中の武士」とも呼ばれた。こんな人間になれたらと思っていた理想の人物だった。
市内にこの立花宗茂と誾千代の物語をNHK大河ドラマに取り上げてもらおうという活動をしているらしく、そのたて旗やポスターがいたるところにあった。実は2020年の大河ドラマの有力候補だったが、明智光秀に決定した。諦めずに、活動を続けている。確かに魅力的な人物なのだが、宗茂と誾千代は無理矢理結婚させられた事、誾千代は女性ながら、家督まで継ぐ女武将だったのに横から宗茂にその家督を奪われてしまった事などが原因なのか、二人は不仲で別居状態だったと伝えられている。もし、誾千代と宗茂が仲の良い夫婦であったなら、女武将であった事は非常に面白いし、宗茂も豪傑で題材としては申し分なかっただろう。夫婦仲が悪かったのは残念。不仲では無かったという説もあり、小説などはこの説で書かれているのだろう。一度読んでみたい。
城跡は天守台が残っているが、それ以外は学校や住宅地となり遺構はほとんどない。明治三年にとられた写真が残っている。城の見取り図もあり、当時の姿を再現しているものもインターネットで見れる。
この柳川は水郷の街と呼ばれており市内に四方八方に水路がはりめぐらされている。観光客はこの水路の船旅を楽しむと言う。水路には多くの船が泊まっていた。
ここは北原白秋が生まれた所だった。生家跡が記念館になっていた。石畳の道路の近所には古風な建物もあり雰囲気が出ている。
雰囲気の良い「御花」と言うところがあり記念館やレストラン、料亭がある。柳川藩主立花邸であった。小舟でこの料亭につけて入る志向となっている。
5時半までここ柳川を散策し、暗くなりかけて、今日の泊まりの佐賀市に向かう。途中で完全に日が暮れて着いたのは8時だった。

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