Ride in Kyushu Day 27 (11/1/19) Miike Coal Mine 三池炭鉱

Miike Coal Mine 三池炭鉱
- Miyanohara Coal Mine 宮原坑
- Manda Coal Mine 万田坑
- Mikawa Coal Mine 三川坑 (visited on 12 Jan.)
- Miike Harbor 三池港 (visited on 12 Jan.)
長洲から佐賀に移動の際、三池炭鉱が世界遺産になっている事を知り、是非行って見たくなった。子供の頃、学校でこの三池炭鉱のことは習った覚えがあるし、炭坑節も流行っていたので記憶に残っていた。世界遺産になるぐらいだから、見応えがあるだろうと思っていた。
世界遺産になった理由だが、炭鉱でのボランティアガイドさんから聞いたのは、明治になり世界的にも最短で近代化が出来た国は日本ぐらいしかない。世界でも例がないというのが理由だそうだ。「明治日本の産業革命遺産 製鉄・製鋼、造船、石炭産業」というテーマで、この世界遺産は複数の県で構成されている。長崎などは世界遺産とは知らず訪れたところもあるし、福岡、佐賀は行きたいと思っていたがスキップしたところがあった。もっと事前に調べておけば良かった。とは言え、予定をぎっしり組んでの旅ではなく、旅行中に行き当たりばったりというのも良いので、次回機会があれば行ってみよう。
上の地図の熊本エリア1は全部行ってみた。熊本と書かれているが、三池炭鉱は福岡県と熊本県にまたがっている。(2日にわたって訪問) 全てのところでボランティアガイドさんがついた。頼まなくても、ガイドしますよと言って率先してやってくれた。訪問客がおらず、一人だけなので全てマンツーマンでのガイド。各サイト30分以上にわたるガイドで、いつもはこれ程余裕がなく、マニュアルにある事だけに絞って、なるべく多くのお客様の対応をしなければならないのだが、今日は暇なのでと言って、色々な裏話も聞かせてくれた。

宮原坑 Miyanohara Coal Mine

福岡県にある炭鉱。ここでは、定年になり両親の面倒を見るために帰郷してきたおじさんがガイドでついてくれた。自分もここに帰ってくるまではそれ程知識があったわけでは無いが、勉強中ですよと言いながら一生懸命にガイドしてくれた。三池炭鉱には9の坑があり、宮原坑はその一つで明治31年から稼働を始め、閉山になった昭和6年までかつやくをした。三池炭鉱の始まりは明治6年に官営で政府が運営。この明治6年から機械で掘っていたわけではなく殆どが人海戦術だった。日本での石炭の始まりは足利時代の記録がある。この九州でも早い時期から石炭が燃える事は知られており、地域住民は家庭では使っていた。ただこの時代はそれ以上に使う用途もなく、大量に掘る必要も無かった。幕末、明治初期に外国より蒸気汽船、蒸気機関車が入ってきて、燃料としての石炭需要が必要になった。これが石炭採掘が本格的になるきっかけ。蒸気機関の燃料意外にも製塩のために使われた。
現在残っている設備は官営から三井に払い下げをしてから造られたもので。飛躍的に機械化が進むことになる。これを進めたのが團琢磨(音楽家の團伊玖磨の祖父にあたる) マサチューセッツ大学で学び、三井に入ってから近代的な機械を輸入した。それが写真にある鋼鉄製の櫓。イギリスからの輸入。櫓は縦に掘った坑にワイヤーで地下300-600mまで坑夫や機械、石炭の運搬を行う。建物もレンガ積みでこれも英国技術者によるもの。英国式のレンガ積みとなっている。問題も無かった訳では無く、三池炭鉱は地下水が非常に多く、放って置くと地盤が緩み維持できない。石炭1トン掘るには10トンの水を排水しなくてはならなかった。この問題を解決するために團琢磨が海外技術を視察し、英国のデービーポンプを一機現在の金で何百億円での購入を提案。とんでもなく高い金額で反対されるも進退伺いまで出し採用の運びになった。導入は成功し、飛躍的に採掘量が増え輸出で三井は大儲けをした。採掘量を増やすため次から次へと新しい採掘坑が掘られ、それに伴い、各地から仕事を求めてこの三池に集まってきたという。
全盛期には人口20万を超え。炭鉱の周りは社宅が多く建設され、公園や学校病院まであり、さながら今の工業団地だったという。24時間の3交代制だったので、24時間人の生活が止まらず、賑やかだったそうだ。市街地は飲み屋、娯楽場、風俗店がぎっしりだったという。今とは比較できないほど賑やかで、九州で2番目に大きな都市にまでなった。それでも人手不足で囚人を使っていた。多くの囚人は刺青を入れており、坑夫は暑いため上半身裸で作業をしていた。かなり怖かったので、なるべく関わり合いにならないようにしていたとガイドさんは漏らしていた。戦時中は中国、朝鮮から強制労働もあった。戦後、何度となく補償の争議があったという。ただ日本人も強制労働をさせられていた。戦時中は奉仕という言い方で強制労働は当たり前だったのにと言っていた。坑夫の賃金は他の職種よりはるかに高く、現在の金でいうと月60万円だった。中国人、朝鮮人でもその賃金が魅力で希望して働いていた人も多くいた。

万田坑 Manda Coal Mine

宮原坑から万田坑に向かう途中は、当時使われていた鉄道線路跡残っている。これも世界遺産の一部になっている。
ここは熊本県の方の炭鉱。鉱脈が熊本県から福岡県を通って有明海まで続いている。この鉱脈に沿って、多くの坑が作られた。三池炭鉱で工夫として働いていたおじさんがガイドについてくれた。次に行く三川坑で働いていたという。三川坑は1963年に大きな炭鉱事故があり458名の死者と839名の一酸化炭素中毒患者を出した。ガイドさんはこの時に三川炭鉱勤務だった。事故の時は三交代制の地上待機のグループだったので助かった。ただ一緒に働いていた同僚をなくし、団地では無くなった工夫の家族とも親しかったので、非常に複雑な状態だったという。この時には色々なドラマがあった。今でこそ語れると言っていた。綺麗事だけでは無いみたいだ。ズル休みをした人が助かり、代わりに勤務したが亡くなった。その後の色々な行動の違い。誠実な人、自分勝手な人。色々な人間模様があった。
この万田坑は宮原坑より多くの設備が残っている。ここでも世界遺産になってから、その保存の規制に苦労している。廃墟はその廃墟の状態を維持しなければならない。これは、ちゃんとしている建物の維持よりもはるかに難しい。手を入れていいところと手を入れてはいけないところがある。ここでも賛否両論が出ている。規模が大きく維持に費用がかかるのか、入場料を取っていた。
ここはるろうに剣士のロケ地だった。ポスターを飾ってあった。映画を見たことがあった。戦闘シーンが迫力があったが、ここだったのだ。
炭鉱跡の隣に資料館があったので寄って見た。来館者は自分のみだったので、館員さんがつきっきりで解説をしてくれた。解説というよりは、当時の様子、特に裏話を中心に話してくれた。殆どが昔話に終始して、実際に見学したのは最後の数十分。ここに入ったのが4時半ごろ、5時に閉館なので、半時間くらいで見れるだろうと思っていたのだが、館員さんは全く時間を気にしていない。こちらが恐縮して、今日はもう閉館ですよねと聞くと、ここはこの地域の集会所も兼ねているので、勤務は9時までなので、気にしなくていいと言ってくれ、それから7時半まで話が続いた。館員さんは、三池炭鉱の終盤に採用されたので、ガイドグループでは最年少と言っても、定年は過ぎているのだが、事故もあり、社会も労働争議が盛んになってきていた時期なので、館員さんが働いていた頃は、随分とシステム化が進んでいた。工夫も直接採用ではなく下請け会社への委託が中心となっていた。だんだんと商品の競争力が無くなって、会社が縮小して行く時期を過ごしたのは少し寂しい気がすると言っていたが、いまだに、三池炭鉱には愛着があり、ガイドをしているという。下の写真の一番下の櫓の模型は館員さんの手作り。竹で作っているのだが、それはわからないほど金属感を出していた。ワイヤーの上下を再現している。これにはびっくり、実物は何キロにもなるワイヤーがつるべ方式で上下するのだか、館員さんの模型は下の箱だけでこれを擬似的に再現していた。これにてる気がついたので凄いと褒めると、嬉しそうに、失敗を繰り返して、どの様な仕組みをしたかを説明してくれた。

三川坑 Mikawa Coal Mine

ここには翌日いったのだが、この日に載せておく。三川坑は昨日行った宮原坑と万田坑とは異なり、斜坑で縦穴でゴンドラで現場に行くのではなく、地上から斜度15度ぐらいでトンネルを掘り、トロッコでワイヤーで現場に移動する。ここでもガイドさんがついてくれた。もう80才になる。大事故があった時に現場にいた。ここで働いていた工夫は約2100名。三交代になっているので1グループは700名。事故が交代時に起きたため、約1400名がこの事故に巻き込まれた。トロッコの連結が外れ暴走、火花が散り爆発が起きた。ガイドさんは、地上に行くトロッコに遅れ下でつぎを待っていた。乗り遅れたトロッコでの乗っていたら、助からなかった。しかし、その後、一酸化炭素中毒で苦しんだ。同じように苦しい生活をした人が多くいた。今でも辛いと言う。

三池港 Miike Harbor

三池炭鉱の事務方の人、労働争議や閉山時の解雇を担当したおじさん。良い時代を経て、終焉まで会社側から見てきた人だ。工夫とは違い、もともとストレスの多い仕事をしてきたのだろう。話したく無いこともいっぱいあっただろう。ただ、感じるのは会った残りの3名のガイドさんと同じく三池炭鉱で働いたことを誇りにし、愛着を持っていることを感じた。以前の日本企業はこんな感じだったと思う。色々あるが、社員は会社が家族のような感じだった。自分が入社した頃もそんな感じだった。
この三池港は遠浅で干潮差が大きく、大型船が停泊できる場所ではなかった、小舟で沖の大型船まで石炭を運び、人海戦術で大型船に石炭を積み込む。これに画期的な企画を持ち込んだのが、デービーポンプを導入した團琢磨だった。彼は物事の本質が見れる人だ。小手先の対応ではなく、長い大きな視点で問題解決の原因を突き止め、解決策を出し、実行をする。彼がいなければ、三池炭鉱はなかっただろうし、日本の発展もなかった。それ程有名ではないが (孫の音楽家の團伊玖磨の方が有名だろう)、もっと評価されて良い人だ。港に大型船をつけなければ発展はないえと考え、港湾全体の設計を行った。近くには税関跡がある。輸出も直接できるようにした。鉄道もしかれた。町全体を作った人だった。不幸にも右翼に暗殺されるのだが、彼が存命ならばもっと素晴らしいことが起きていただろう。

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