Okinawa 沖縄 #2 Day 264 (07/05/24) 旧北谷間切 北谷町 (05) 桑江 (桑江ヌ前屋取、桑江ヌ中屋取、桑江ヌ後屋取)
桑江 (クェー、くわえ)
桑江ヌ前屋取 (クェーヌメーヤードゥイ)
- 北谷隧道 (チャタントンネル)
- 池城 (イチグスク)
- ビジュル
- 美浜橋
- 桑江駅 (クェーエキ)
- 桑江ヌ前四辻 (クェーヌメーカジマヤー)
桑江ヌ中屋取 (クェーヌナカヤードゥイ)
- 龍宮神 (リューグーシン)
- 網干毛 (アンブシモー)
- 津口 (クェーグチ)、桑江港 (クェーンナトゥ)
字 桑江 (クェー)
- 桑江公園
- 竹山御嶽 (ダキヤマウタキ)
- 竹山御嶽の井泉
- 旧字桑江御願所
- 奈留川 (ナルカー)、子ヌ方 (ニーヌーファ)、土帝君 (トゥーテェークン)
- カンカ神、砂糖毛 (サーターモー) / 豊年神、遊神
- びじゅる、産川、大荒神川
- 殿 (トン)、村火神 (ムラヒヌカン)
- 井戸
桑江ヌ後屋取 (クェーヌクシヤードゥイ)
- 桑江区自治会
- 非核宣言の塔、被爆クスノキ2世
- 字北谷郷友会
- 北谷町役場
- 宮増原ヌ殿 (ミヤマシバラヌトゥン)
- 奈留川 (ナルカー)
- 御願所 (ウガンジュ、諸大明神)
桑江 (クェー、くわえ)
- [第一次屋取: 1713-1751 12代尚敬王] 嫡男でない次男、三男など貧乏士族や零落士族に転職許可を与えれ政策をとった。
- [第二次屋取: 1795-1875 15代尚温王から明治の廃藩置県まで] 第一次の帰農制作に一定の成果が見え、この屋取が貧困士族の解決策と認識されたことと、科挙と呼ばれた官吏への登用試験が実施され、試験に通らない士族が増加し職を失った時代背景もある。。
- [第三次屋取: 1879-1909 廃藩置県から明治の土地整理まで] この時代が一番悲惨な期間で、廃藩置県で大量の士族が職を失った。士族は帰農せざるを得なかった。この時期が屋取集落の発展期にあたる。
- [第四次屋取: 土地整理以降] 集落化した屋取集落が小字として行政区分で独立し、土地所有権が得られる様になったことが、屋取集落への移住の要因となっていた。
桑江集落の拝所
- 御嶽: なし
- 殿: 桑江ヌ殿、宮増原ヌ殿 (ミヤマシバラヌトゥン、字伊礼の拝所)
- 拝所: ビジュル (桑江ヌ前)、龍宮神 (桑江ヌ中)、子ヌ方 (ニーヌファー 桑江)、カンカーヌカミ (桑江)、御願所 (ウガンジュ 桑江ヌ後)
- 井泉: 海ヌ井戸小 (ウミヌカーグヮ 桑江ヌ中)、上樋川 (イーヒージャー 桑江 [消滅])、産井 (ンブガー、壷井 [チブガー] 桑江 [消滅])
桑江ヌ前屋取 (クェーヌメーヤードゥイ)
- クシュックィー (ニングワチャー 旧暦2月): 1941年 (昭和16年) 頃まで行なわれていた。13~30歳 ぐらいのワカカタ、30~40歳ぐらいのナカカタ、50歳以上の トゥスイカタ (ウヤカタ) が三ヶ所に分かれ、3日間行なわれた。1日目は晩から、それぞれのヤードゥで行なう。2日目は年長者のところへ代表者が挨拶へ行き、夜には、トゥスイカタのところに、ワカカタもナカカタも集まり、組踊りや舞踊が催された。3日目は、そろってビジュルまで道ジュネーをしていた。この期間には学事奨励会や向上会も行なわれていた。
- エイサー (旧暦7月): 男性のみが参加し、1日目、2日目は晩から翌日まで集落内の各家を回ってエイサーを披露していた。3日目は道ジュネーをしながらビジュルへ行き御願を行って終了。
北谷隧道 (チャタントンネル)
池城 (イチグスク)
ビジュル
美浜橋
桑江駅 (クェーエキ)
桑江ヌ前四辻 (クェーヌメーカジマヤー)
桑江ヌ中屋取 (クェーヌナカヤードゥイ)
- ニングワチャー (クシユクワーシー 旧暦2月2~3日): 男性のみで行なわれていた親睦会でビジュルと龍宮神 (リューグーシン) を拝んでいた。13~25歳のワカカタ、25~39歳のナカカタ、40歳以上のトゥスイカタの三ヶ所に分かれて行なっていたが、昭和12年 (1937年) 頃からは、戦争のために人が少なくなり一ヶ所で行なうようになっていた。
- 海神祭 (ハーリー 旧暦5月4日): 桑江ヌ中屋取を中心として、桑江、桑江ヌ前屋取、桑江ヌ後屋取の四集落合同で海神祭を行い龍宮神 (リューグーシン) を拝む。海神祭では1941年 (昭和16年) 頃まではハーリーが行われて、二隻のウガンバーリーはで、三隻アガリバーリー (スーブバーリー) で競争が催されていた。で 行なわれた。ハーリーは行なわれていた。ハーリーを終えた後は、アンブシモーで他集落からも参加して沖縄相撲やムラ芝居が行なわれた。
- 盆 (旧暦7月13~15日): 盆では桑江ヌ中屋取の男性だけでエイサーが行われて、集落内の家を1軒ずつ回わっていた。
龍宮神 (リューグーシン)
網干毛 (アンブシモー)
津口 (クェーグチ)、桑江港 (クェーンナトゥ)
字 桑江 (クェー)
- ニングワチャー (旧暦2月1~3日): 男性のみの参加で、3日間行なわれた。メンダカリとクシンダカリに分かれ、さらに13~25歳ぐらいまではワカカタ、30代はナカカタ、50代以上は トゥスイカタの3組に分かれて行なっていた。ビジュルやトゥンを拝みに行っていた。
- 綱引き (旧暦6月): メンダカリとクシンダカリに分かれて行なっていた。
- エイサー (旧暦7月15~17日): 大太鼓としめ太鼓を用いてエイサーを行なっていた。
桑江公園
竹山御嶽 (ダキヤマウタキ)
竹山御嶽の井泉
旧字桑江御願所
奈留川 (ナルカー)、子ヌ方 (ニーヌーファ)、土帝君 (トゥーテェークン)
- 奈留川 (ナルカー) - 桑江集落に水を供給していたのが奈留川 (ナルカー) で「神が宿る川」として崇められており、この旧字桑江御願所に最後に合祀されている。
- 子ヌ方 (ニーヌーファ) - 支那事変 (1937年 昭和12年) の頃に竹山御嶽の神を遷して祀ったという。この拝所は元々この場所にあり、他の拝所をここに合祀している。戦前ではノロやヤクミ (役目 = 行事世話役) によって子ヌ方 (ニーヌーファ) で初拝み (ハチウガミ) が行われ、住民の無病息災や豊作の祈願などが行われていた。沖縄戦直前 (昭和13〜14年頃) には出征軍人が拝んでいた。
- 土帝君 (トゥーテェークン) - 戦前の桑江集落の南側に置かれ、中国由来の土地の神様の土地公を祀っていた。戦後、この場所に合祀されている。戦前まで旧2月1日から3日間にわたりニングヮチャーの行事が行われ、シンムイと呼ばれる、お膳に大根や豆腐などを盛ったものを供えて豊作の祈願を行っていた。
カンカ神、砂糖毛 (サーターモー) / 豊年神、遊神
- カンカ神 - 現在の北谷町役場付近のイチには戦前には池があり、その池の近くにカンカ神が祀られていた。旧暦の12月7日にはカンカーと称し悪霊侵入防除の儀礼を行なっていた。「カンカー」とは「見張る」という意味で、池で豚を殺して解体し、その骨片や肉をヒジャイナー (左巻の縄) に挟み、村の入口に吊り下げカンカ神に供えて、悪霊や悪疫の集落内への侵入を阻止してた。この行事は各集落で行われており、他の地域ではシマクサラシとも呼ばれている。残りの豚肉はその場で煮炊きして桑江集落住民の老若男女で共に食したと伝わっている。
- 砂糖毛 (サーターモー) / 豊年神 / 遊神 - 旧桑江集落の南側、現在のキャンプ桑江内の米軍病院の裏側には、戦前、サーターヤー (製糖工場) があった。この一帯は砂糖毛 (サーターモー) と呼ばれており、そこには「豊年神」と「遊神」が祀られ、旧暦8月15日の十五夜の遊び (ジューグヤヌアシビー) で、豊作を感謝する唄や踊りが奉納されたと伝わっている。
びじゅる、産川、大荒神川
- びじゅる - 桑江ヌ前屋取の北谷トンネルの北西側にあってびじゅるは腰憩い (クスッキー) を行う場所だった。首里桃原にある普天間権現とクサイ (一対) と言われていた。
- 産川 (ンブガー) - 桑江集落の北東には出産時の産水 (ンブミジ) を汲んだ井戸。この井戸は古くからあり、その周辺が桑江集落が始まった場所と伝わっている。
- 大荒神川 -詳細は不明だそうだ。
殿 (トン)、村火神 (ムラヒヌカン)
- 殿 (トン) - 戦前迄は旧桑江集落の北側、現在の北谷高校辺りに殿 (トゥン) が置かれていた。(旧字桑江御願所がここに移される前には殿の場所に前旧字桑江御願所が置かれていた) 琉球國由来記には平安山ノロが各ウマチー (2月の麦収穫祭、3月の感謝祭、5月の稲収穫祭、6月の稲感謝祭) を司っていたとある。
- 村火神 (ムラヒヌカン) - 正確な位置は不明だが、キャンプ桑江にあった桑江集落には村の守護神としての火ヌ神 (ヒヌカン) 集落の守護神が祀られていた。
井戸
桑江ヌ後屋取 (クェーヌクシヤードゥイ)
戦前迄は字桑江 (クェー) の北には桑江ヌ後屋取 (クェーヌクシヤードゥイ) があり、東シナ海に面し、ヤードゥイ 北谷町域西側、屋取集落。集落の南側は北側は伊礼 (イリー ) と隣接していた。 桑江ヌ後屋取も元々は桑江ヌ前屋取と一体で、1750年頃に移住し、1800年頃に御殿地屋取の一部 (約15戸) も含めて桑江ヌ前から独立して桑江ヌ後を形成している。
御殿地屋取集落の発生については不詳だが、字桑江と字伊礼にまたがって一つの部落を形成していた。集落一帯が元総地頭の役地であつた事から御殿地と呼ばれたと推察されている。
戦前の桑江ヌ後屋取は戸数42軒あり、そのうち瓦屋 (カーラヤー) は6軒だった。桑江ヌ後 (クェーヌクシ)、桑江後 (クェークシ)、後屋取 (クシヤー ドゥイ)、桑後 (クワクシ ) などとも呼ばれていた。また、知念姓が多いため、他の集落から知念屋取 (チニンヤードゥイ) とも呼ばれていた。主業は農業で、小さな村だったった。戦争前には砂糖小屋 (サーターヤー) は一ヶ所あったが、嘉手納製糖工場へ持っていくようになり使用されなくなっていた。集落内には各家に井戸があったので共同井戸はなかった。
桑江ヌ後屋取には拝所の様に扱われた石敢當が一ヶ所あった。ここでは旧暦2月2日の腰憩め (クスックィー) のときに拝んでいたそうだ。集落の北端に、澱粉を軍事用品として使うために作られたデンプンコージョーがあった。1942~44年 (昭和17~19年) 頃までは稼動していたが、それ以降は生産を止め日本軍の兵舎となっていた。桑江ヌ後屋取は、この工場があったために十・十空襲を受け、集落の人が何名かが亡くなっている。
桑江ヌ後屋取集落で戦前に行なわれた主な年中行事は
- クスックィー (ニングワチャー 旧暦2月2日): 道脇の石敢當を拝んでいた。この日には男性のみが参加し、豚を一頭潰し、天ぷら、豆腐、タマナーイリチャーなどのごちそうを作り、膳に盛って、真ん中に大根の葉を飾っていた。三味線を弾きながら、ヤードゥから拝所まで道ジュネーをしていた。
- クスックィー (ニングワチャー 旧暦2月2日): 道脇の石敢當を拝んでいた。この日にはd豚を一頭潰し、天ぷら、豆腐、タマナーイリチャーなどのごちそうを作り、膳に盛って、真ん中に大根の葉を飾っていた。三味線を弾きながら、ヤードゥから拝所まで道ジュネーをしていた。
- エイサー (旧暦7月): 男性のみの参加して行っていたが、1944年 (昭和19 年) からhは徴兵で青年も少なくなり、やらなくなった。
戦後、旧集落域は米軍に接収され、キャンプ桑江となり、以前の地形は変わっている。現在は土地が返還され、北谷町役場西側一帯は、北谷町の中心地となっている。
桑江区自治会
非核宣言の塔、被爆クスノキ2世
字北谷郷友会
北谷町役場
宮増原ヌ殿 (ミヤマシバラヌトゥン)
奈留川 (ナルカー)
御願所 (ウガンジュ、諸大明神)
桑江訪問ログ
参考資料
- 北谷村誌 (1961 北谷村役所)
- 北谷町の自然・歴史・文化 (1996 北谷町教育委員会)
- 北谷町の戦跡・基地めぐり (1996 北谷町役場企画課)
- 北谷町の戦跡・記念碑 (2011 北谷町教育委員会)
- 北谷町の地名 (2000 北谷町教育委員会)
- 北谷町の遺跡 (1994 北谷町教育委員会)
- 北谷町史 第1巻 通史編 (2005 北谷町教育委員会)
- 北谷町史 第3巻 (上) 資料編 (1992 北谷町史編集委員会)
- 北谷町史 第3巻 (下) 資料編 (1944 北谷町役場)
- 北谷町史 第6巻 資料編 北谷の戦後1945〜72 (1988 北谷町史編集委員会)
0コメント