Okinawa 沖縄 #2 Day 264 (07/05/24) 旧北谷間切 北谷町 (05) 桑江 (桑江ヌ前屋取、桑江ヌ中屋取、桑江ヌ後屋取)

桑江 (クェー、くわえ)

桑江ヌ前屋取 (クェーヌメーヤードゥイ)

  • 北谷隧道 (チャタントンネル)
  • 池城 (イチグスク)
  • ビジュル
  • 美浜橋
  • 桑江駅 (クェーエキ)
  • 桑江ヌ前四辻 (クェーヌメーカジマヤー) 

桑江ヌ中屋取 (クェーヌナカヤードゥイ)

  • 龍宮神 (リューグーシン)
  • 網干毛 (アンブシモー) 
  • 津口 (クェーグチ)、桑江港 (クェーンナトゥ) 

字 桑江 (クェー)

  • 桑江公園
  • 竹山御嶽 (ダキヤマウタキ)
  • 竹山御嶽の井泉
  • 旧字桑江御願所
  • 奈留川 (ナルカー)、子ヌ方 (ニーヌーファ)、土帝君 (トゥーテェークン)
  • カンカ神、砂糖毛 (サーターモー) / 豊年神、遊神
  • びじゅる、産川、大荒神川
  • 殿 (トン)、村火神 (ムラヒヌカン)
  • 井戸

桑江ヌ後屋取 (クェーヌクシヤードゥイ)

  • 桑江区自治会
  • 非核宣言の塔、被爆クスノキ2世
  • 字北谷郷友会
  • 北谷町役場
  • 宮増原ヌ殿 (ミヤマシバラヌトゥン)
  • 奈留川 (ナルカー)
  • 御願所 (ウガンジュ、諸大明神)


4月12日に東京から沖縄に帰って来た。二週間程の東京滞在だったので、早速、食料の買い出しを行ったのだが、その途中、信号待ちの為に自転車を止めた際に、ペダルのビンディングから足が外れず転倒し膝を捻ってしまった。少し痛みはあったが、買い出しを終えた。翌日から膝の痛みが増し、歩行も出来ない程になり、一週間程は外出出来ず自宅謹慎状態。その後はトレッキングポールで外出できる程に回復、痛みもだいぶん緩和してきたので、無理しない範囲で北谷町の史跡巡りを再開する事にした。

桑江 (クェー、くわえ)

北谷町域西側、字北谷の北が桑江 (クェー) になる。江戸時代から明治時代にかけての北谷間切時代、桑江邑には本村の字桑江、その周辺に桑江ヌ前屋取 (クェーヌメーヤードゥイ)、桑江ヌ中屋取 (クェーヌナカヤードゥイ)、桑江ヌ後屋取 (クェーヌクシヤードゥイ) があり、東の端には東桃原屋取 (アガリトーバルヤードゥイ) があり、謝苅屋取集落、御殿地も桑江邑に含まれていた。桑江邑には400戸以上あり、そのうち本村の字桑江は約70戸で、屋取集落の戸数の方がはるかに多かった。桑江ヌ前、桑江ヌ中、桑江ヌ後、桃原の四つの屋取集落は1938年 (昭和13年) に桑江邑から分離独立している。戦後、この地域は大部分が米軍基地として接収され、地域住民は接収を免れた、桑江後の北部と桃原などに居住を始めている。旧桑江に居住する人口が激減したことから、1948年 (昭和24年) に桑江前、桑江中、桑江後の三つの字は桑江本村と合併して新字桑江となり、1949年 (昭和25年) には字桃原が字謝苅と合併して字吉原となっている。1980年には字桑江の国道58号線の西側を分離して美浜一丁目と美浜二丁目が誕生して、現在に至っている。
琉球王国時代後期の北谷間切の特徴は士族の割合が他の間切に比べて高く、移住士族が形成した屋取集落が多く33もあった。
この屋取集落 (ヤードイ) とは、琉球王朝の士族が、琉球王朝時代はその貧困から、また明治の廃藩置県で職を失った士族が、首里から様々な集落から土地を借りて住み始め帰農し、次第に集落化していったもので、屋取 (ヤードイ) の言葉は農家に身を寄せて「宿った」ことから来ている。屋取集落は琉球王朝時代から4段階で行われている。
  • [第一次屋取: 1713-1751 12代尚敬王]  嫡男でない次男、三男など貧乏士族や零落士族に転職許可を与えれ政策をとった。
  • [第二次屋取: 1795-1875 15代尚温王から明治の廃藩置県まで] 第一次の帰農制作に一定の成果が見え、この屋取が貧困士族の解決策と認識されたことと、科挙と呼ばれた官吏への登用試験が実施され、試験に通らない士族が増加し職を失った時代背景もある。。
  • [第三次屋取: 1879-1909 廃藩置県から明治の土地整理まで] この時代が一番悲惨な期間で、廃藩置県で大量の士族が職を失った。士族は帰農せざるを得なかった。この時期が屋取集落の発展期にあたる。
  • [第四次屋取: 土地整理以降] 集落化した屋取集落が小字として行政区分で独立し、土地所有権が得られる様になったことが、屋取集落への移住の要因となっていた。
北谷間切での士族の割合は移住元の首里・那覇を除くと最も高く49%と半数が士族の地域になる。ついで越来間切 (46%)、具志川間切 (45%) と続く。
北谷間切の屋取集落も前述の第一期から始まっている。士族は帰農し、現地の百姓から土地を借りて耕作をしていた。土地の所有は王府から授与された請地か士族が新たに開墾した土地 (仕明知行地) に限られていたが、その後、1785年に屋取集落の士族が王府から土地購入ができる払請地が北谷間切と越来間切にのみ許可され、この払請地を求め多くの士族が北谷に下りたと推測される。
下の地図左上でオレンジ色にハイライトしているのが明治時代の民家を表している。琉球王国時代と殆ど変わっていないと思われる。集落は琉球王国時代の街道 (現在の国道58号線) 沿いに集中している。その他の地域は殆ど民家は見られない。昔から存在していた桑江本村が最も大きな集落だった。戦後はこの集落があった地域は米軍基地となり、以前は民家などなかった北東の丘陵地に移住している。その後、1970年代までは接収されなかった地域で民家が増えていき、土地が一部返還されるごとに民家がその地域に増えていっている。
旧桑江本村は現在のキャンプ桑江の中に存在してまだ変化されず帰還が叶っていない。
下の図は戦後、米軍基地に接収された後の土地返還の状況で、平成8年にキャンプ桑江地区の一部 (約99ヘクタール) の返還が合意され、
2003年 (平成15年) に、そのうちの約38ヘクタール (キャンプ桑江北側) が先行して返還され、現在では桑江伊平土地区画整理事業が進められている。キャンプ桑江の残り土地は2013年 (平成25年) に日米両政府合意のされた「沖縄における在日米軍施設・区域に関する統合計画」では2025年度以降に返還となっているが、これには返還条件として ❶ 沖縄において代替施設が提供される事、❷ 海軍病院及び中学校のキャンプ瑞慶覧への移設 (2017年完了)、❸ 家族住宅 (375戸) のキャンプ瑞慶覧への移設 (2019年承認) がついている。既に❷ は完了、❸ も目処がたっているようだが、❶ の代替施設が決まったとのニュースは見当たらない。最短返還は2025年となっていたが、返還に向けた進捗状況の情報は内閣府や沖縄県庁の情報は殆どなく、進んでいるのかどうかも公開されていない。まだまだ先の様な気がする。今後、どうなる事だろう。
キャンプ桑江が全面返還された後の都市計画が既に始まっている。下の図は2021年に策定された計画。返還されて、都市計画完了にはまだ数十年かかるのではないだろうか?

桑江集落の拝所

  • 御嶽: なし
  • 殿: 桑江ヌ殿、宮増原ヌ殿 (ミヤマシバラヌトゥン、字伊礼の拝所)
  • 拝所: ビジュル (桑江ヌ前)、龍宮神 (桑江ヌ中)、子ヌ方 (ニーヌファー 桑江)、カンカーヌカミ (桑江)、御願所 (ウガンジュ 桑江ヌ後)
  • 井泉: 海ヌ井戸小 (ウミヌカーグヮ 桑江ヌ中)、上樋川 (イーヒージャー 桑江 [消滅])、産井 (ンブガー、壷井 [チブガー] 桑江 [消滅]) 



桑江ヌ前屋取 (クェーヌメーヤードゥイ)

北谷町域西側、ケンドー (国道58号線) 沿い、チャタントンネルの北側には桑江ヌ前屋取 (クェーヌメーヤードゥイ) 集落があった。北側は桑江ヌ中屋取 (クェーヌナカヤードゥイ) に隣接し、更にその北には桑江ヌ後屋取 (クェーヌクシヤードゥイ) があった。この三つの屋取集落は移住当時は一つの屋取集落で、人口が増加して分離したと思われる。戦前には戸数82-90軒あり、そのうち瓦屋 (カーラヤー) は19軒だった。桑江ヌ前屋取は桑江ヌ前 (クェーヌメー)、桑江前 (クェーメー)、桑前 (クワマエ) とも様々に呼ばれ、地元住民は前屋取 (メーヤードゥイ) と呼ぶ事が多かった。また、仲地家の祖先が第13代尚敬王時代 (在位1713年 - 1751年) この地に移住したのがこの屋取集落の始まりで仲地姓の多いため、仲地屋取 (ナカチヤードゥイ) とも呼ばれていた。
桑江ヌ前屋取は主業は農業で、砂地が多いので、主として砂糖キビ、落花生や野菜を作っていた。サーターヤーは共同のものが一ヶ所あったが、嘉手納製糖工場ができてからは、あまり利用されなくなっていた。フィリピン、南洋移民が多く、働き盛りの青年は、ほとんど出稼ぎに行っていたそうだ。
集落内を南北に通るケンドー沿いや県営軽便鉄道嘉手納線桑江駅前には飲食店、マチヤ、写真館、理髪店、旅館などが立ち並んでいた。
集落内の各家に井戸があり海に近い集落だが水は塩辛くなく水質が良かった。

桑江ヌ前屋取集落で行なわれていた主な年中行事は
  • クシュックィー (ニングワチャー 旧暦2月): 1941年 (昭和16年) 頃まで行なわれていた。13~30歳 ぐらいのワカカタ、30~40歳ぐらいのナカカタ、50歳以上の トゥスイカタ (ウヤカタ) が三ヶ所に分かれ、3日間行なわれた。1日目は晩から、それぞれのヤードゥで行なう。2日目は年長者のところへ代表者が挨拶へ行き、夜には、トゥスイカタのところに、ワカカタもナカカタも集まり、組踊りや舞踊が催された。3日目は、そろってビジュルまで道ジュネーをしていた。この期間には学事奨励会や向上会も行なわれていた。
  • エイサー (旧暦7月): 男性のみが参加し、1日目、2日目は晩から翌日まで集落内の各家を回ってエイサーを披露していた。3日目は道ジュネーをしながらビジュルへ行き御願を行って終了。


北谷隧道 (チャタントンネル)

旧北谷 (チャタン) 集落から国道58号線を進み白比川 (シラヒージャー) に架かる白比橋 (北谷橋、) を渡ると謝苅交差点に出る。戦前迄は沖縄初の北谷トンネルがあった場所になる。トンネル開口以前には、海側に丘陵部を迂回する坂道があり、この道を通り海側にあったより一段と高い丘陵を越えて北谷集落から桑江ヌ前屋取 (クェーヌメーヤードゥイ) に通じていた。トンネルの長さは約18mで馬車が1台通れる道幅の小さなトンネルで、トンネル内は一年中風が吹き抜けて涼しく、雨宿り場としても重宝されていたという。このトンネルを過ぎると桑江ヌ前屋取 (クェーヌメーヤードゥイ) が広がっていた。トンネルの南側には碑文も置かれていた。
トンネルの頂上からは、船が沖を通っていくのが見え、1937年 (昭和12年) 迄は、そこでフナウクイをしていた。煙をたてたり、女性たちが太鼓を叩いたりして船を見送った。北にあった日本軍の屋良飛行場の整備のためのトラックが通れなかったために、1944年 (昭和19年) の十・十空襲の後、日本軍によってダイナマイトで爆破された。

池城 (イチグスク)

北谷トンネルが掘られた丘陵には三山時代には池城 (イチグスク) と呼ばれた城が置かれていた。北谷城の出城だったとの伝承がある。白比川上流の東側には丘陵が残存していて、両側は崖をなし、自然の要害をなしていた事が分かる。池グスクとその本城の北谷城は1609年 (慶長14年) の慶長の役には攻防の伝承を残しているが、詳細は文献は残されておらず不明。
池城 (イチグスク) の丘陵は北谷トンネル開通後はトンネルヤマと呼ばれていた。丘陵には松林があったが、1944年 (昭和19年) に白比川沿いに基地があった日本軍の特攻隊の船の枕木にするために伐採されてしまい消滅し、更に日本軍に北谷トンネルが破壊されて、丘陵も削られてしまった。
また、丘陵崖下には北谷グスクの城主と伝わる大川按司の墓もあったのだが、吉原の東宇地原に移されている。

ビジュル

白比川を渡ると西側に美浜第一公園があり、その西角に祠が建っている。祠の中には霊石 (ビジュル) が祀られている。このビジュルは移設されたもので、戦前には桑江よりの丘陵北側斜面、チャタントンネルとマヤーガマの間にあった拝所で石積みの階段を上がると香炉が置かれ、三方を石で囲み、屋根も石造りの祠が置かれていた。昭和12~13年 (1937~38年) 頃に、石造りからコンクリート造りの瓦屋根の祠に改築した際に、埋もれていたビジュルが三個掘り起こされて、祠に祀ったそうだ。桑江 (クェー)、桑江ヌ前屋取 (クェーヌメーヤードゥイ)、桑江ヌ中屋取 (クェー ヌナカヤードゥイ)、桑江ヌ後屋取 (クェーヌクシヤードゥイ) の4集落の人たちに、旧暦2月2日のニングワチャーや、兵士が出征するときに拝まれていた。

美浜橋

白比川の白比橋の南側にもう一つ橋が架かっている。美浜橋という。美浜橋ができる前までは北谷から桑名へは国道58号線に架かる白比橋が唯一の道だった。この橋の完成で交通量が緩和され、利便性が向上している。
美浜橋の高欄部は波とヨットの帆をイメージしたデザインで、歩道部分はカラーブロックになっている。中央部は半円形のバルコニーも作られている。戦前迄はこの美浜橋のすぐ北側に軽便鉄道が通り、鉄橋が架かっていたそうだ。

桑江駅 (クェーエキ)

ケンドー (現 国道58号線) と平行して西側に軽便道 (ケービンミチ) と呼ばれた道路が南北に走っている。戦前にはこの道には1917年 (大正6年) に開通した県営軽便鉄道嘉手納線が通っていた。現在の桑江中学校校門前あたりが桑江駅の場所だった。桑江ヌ前駅 (クェーヌメーエキ)、桑江ヌ駅 (クェーヌエキ) とも呼ばれた。他の駅の多くは無人駅だったが、この桑江駅は駅長常駐で比較的大きく、構内には事務所や砂糖樽を保管する倉庫、給水用のタンクなどの施設があり、具志川や越来など中部の各地から砂糖や物資などが集積され、運搬の中継所の役割も果たし、那覇に運ばれていた。那覇の師範学校や中学校・女学校、 嘉手納の農林学校などへの通学の交通機関でもあった。また、桑江駅の近くには旅館や精米所、食堂、サカナヤー (飲み屋)、自転車店、マチヤ (雑貨店)、写真屋などが軒を並べ、人力車や荷馬車の往来も頻繁だった。

桑江ヌ前四辻 (クェーヌメーカジマヤー) 

この桑江駅は交通の要所となり、桑江ヌ前屋取は人や荷馬車が行き交うにぎやかな集落で、現在は無くなってしまったのだが、ケンドー (国道58号線) と謝苅道 (ジャーガルミチ 現在は一部は基地内で消滅している) が交わる場所は桑江ヌ前四辻 (クェーヌメーカジマヤー) と呼ばれ、他集落でも良く知られ有名だった。現在では交差点も消滅して、昔の面影は失せてしまっている。


桑江ヌ中屋取 (クェーヌナカヤードゥイ)

桑江ヌ前屋取の北、ケンドーに沿って桑江ヌ中屋取 (クェーヌナカヤードゥイ) 集落が伸びていた。桑江ヌ中 (クェーヌナカ)、桑江中 (クェーナカ )、中屋取 (ナカヤー イ)、桑中 (クワナカ) とも呼ばれていた。桑江ヌ中屋取は元々は桑江ヌ前屋取と一体で、1750年頃に移住し、1800年頃に桑江ヌ前から独立して桑江ヌ中を形成している。1939年 (昭和14年) から通りが昭和通り (ショーワドーリ) となり、桑江ヌ中屋取集落もそう呼ばれることもあった。集落の東側は桑江 (クェー )、北側は 桑江ヌ後屋取 (クェーヌクシヤードゥイ ) に隣接していた。戦前の桑江ヌ中屋取集落には民家は87軒あり、そのうち瓦屋 (カーラヤー) は13軒だった。
桑江ヌ中屋取の主業は農業と漁業で、ケンドー沿いには雑貨商、専売品の売店、醤油 の製造・販売店、豆腐屋、旅館などが立ち並んでいた。
戦前までは集落の西に桑江港があり、その船着場では美里、越来、仲城及び北谷の中南部からは砂糖がこの浜辺に集められ那覇へ砂糖の積出しが行われ、国頭方面からは材木、薪炭、竹茅等が輸入されて販売されていた。
桑江ヌ中屋取内には井戸は各家にあったが、鉄道から海側の井戸には潮が混ざるので、飲み水は他に汲みに行っていたそうだ。
桑江ヌ中屋取集落で行なっていた主な年中行事は
  • ニングワチャー (クシユクワーシー 旧暦2月2~3日): 男性のみで行なわれていた親睦会でビジュルと龍宮神 (リューグーシン) を拝んでいた。13~25歳のワカカタ、25~39歳のナカカタ、40歳以上のトゥスイカタの三ヶ所に分かれて行なっていたが、昭和12年 (1937年) 頃からは、戦争のために人が少なくなり一ヶ所で行なうようになっていた。
  • 海神祭 (ハーリー  旧暦5月4日): 桑江ヌ中屋取を中心として、桑江、桑江ヌ前屋取、桑江ヌ後屋取の四集落合同で海神祭を行い龍宮神 (リューグーシン) を拝む。海神祭では1941年 (昭和16年) 頃まではハーリーが行われて、二隻のウガンバーリーはで、三隻アガリバーリー (スーブバーリー) で競争が催されていた。で 行なわれた。ハーリーは行なわれていた。ハーリーを終えた後は、アンブシモーで他集落からも参加して沖縄相撲やムラ芝居が行なわれた。
  • 盆 (旧暦7月13~15日): 盆では桑江ヌ中屋取の男性だけでエイサーが行われて、集落内の家を1軒ずつ回わっていた。


龍宮神 (リューグーシン)

桑江駅跡 (現在の桑江中学校辺り) の軽便道 (ケービンミチ) を北に進むと龍宮神が祀られている。現在では美浜龍宮神と呼ばれている。元々は屋敷内の井戸の側にあったが、1936年 (昭和11年) 頃に護岸 (ゴガン) が造られ、道も整備され、その道沿いの広場 (現在の場所) に移された。国道より西側の海岸沿いのこの辺りには北谷町唯一の漁民集落の浜屋取 (ハマヤードゥイ) が存在していた。北谷の他の屋取とは少し性格が異なり、糸満、読谷、首里などからの九軒の寄留民の集落だった。イノー中心に沿岸漁業で生計を立てていたので、集落の海岸沿いに龍宮神を祀り、航海の安全を祈願していた。
戦前はこの場所まで海になっていたが、戦後、海岸は埋め立てられてゴガンもなくなってしまった。現在ではかつての海岸線は水路になっている。
埋め立て地は美浜と名付けられ、龍宮神も美浜龍宮神と呼ばれ、年末の解ち御願 (フトゥチウガン) や正月の初拝みや旧暦5月4日のハーリーの後には根屋 (ニーヤー) と共に桑江ヌ前や桑江ヌ中の船主 (フニムチャー) が拝んでいた。現在でも5月の吉日の竜宮拝みで桑江集落住民が魚貝類などの海の幸を供えて拝んでいる。

網干毛 (アンブシモー) 

龍宮神が鎮座している事でも分かるが、桑江ヌ中屋取集落には漁業に携わる人が多く、網を干す場所である網干毛 (アンブシモー) が二ヶ所あった、龍宮神のすぐ北側の長崎原 (ナガサチバル) にあったものは300坪ぐらいの広さで、3~4軒で使用していた。更に少し北側の長港原 (ナガンナトゥバル 写真左) にも500 ~ 600坪ぐらいの網干毛 (アンブシモー 写真右) があったそうだ。この網干毛の広場では悪天候の日に漁網の修繕や漁網作りが行われていた。現在では商業地となり店が建ち並んでいる。

津口 (クェーグチ)、桑江港 (クェーンナトゥ) 

埋め立て地は美浜区となり、沖縄有数のリゾート地となっている。高層マンションやショッピングモールも建てられている。その中にある北谷公園の北には夕陽スポットとしても知られるサンセットビーチが造られている。埋め立てられる前、戦前は長港原 (ナガンナトゥバル) の北の端の海にはサンゴ礁の切れ目から船が出入りできる場所があり、津口 (クチ)、桑江港 (クェーンナトゥ) と呼ばれていた。10~18mぐらいの深さがあり、潮が引いたときでも、ある程度の水深があった。
この場所では旧暦5月4日の干潮時には桑江ヌ中屋取 (クェーヌナカヤードゥイ) で海神祭が行われてハーリーが催されていた。はっきりした場所は分からないのだが、サンセットビーチからかつての護岸まで水路がある。この辺りが津口 (クチ) が通り、天然の桑江港 (クェーンナトゥ) になっていたのではと思う。


字 桑江 (クェー)

桑江ヌ中屋取の東側は戦前迄は桑江の中心地だった字 桑江 (クェー) の集落が存在していた。旧桑江集落は、戦後、米軍基地 (キャンプ桑江 Camp Lester) として接収され、現在でも返還されていない。戦前の桑江集落には戸数47軒あり、そのうち瓦屋 (カーラヤー) は9軒だった。ほとんどの家に井戸があったという。組分けは集落の中央の中道 (ナカミチ) を境にして、北側は後村渠 (クシンダカリ)、南側は前村渠 (メンダカリ) のニつに分けられていた。サーターヤーは二ヶ所あった。フナウクイはゴガンの切れ目のところから浜に下りたところで行い、アンマーやオバーたちが、太鼓小 (テークグワー) を叩き、ダンジュカーリーをして踊り、旅に出る人を見送っていたそうだ。集落内には桑江馬場 (クェーンマイー) があり、1942年 (昭和17年) 頃までは、馬勝負 (ンマスーブ) をしていた。
桑江集落は戦後はキャンプ桑江として接収され、人々は他集落に分散して暮らしているが、郷友会を組織して様々な行事を行ない、伝統の継承に勤めている。戦前に桑江集落で行なわれていた主な年中行事は
  • ニングワチャー (旧暦2月1~3日): 男性のみの参加で、3日間行なわれた。メンダカリとクシンダカリに分かれ、さらに13~25歳ぐらいまではワカカタ、30代はナカカタ、50代以上は トゥスイカタの3組に分かれて行なっていた。ビジュルやトゥンを拝みに行っていた。
  • 綱引き (旧暦6月): メンダカリとクシンダカリに分かれて行なっていた。
  • エイサー (旧暦7月15~17日): 大太鼓としめ太鼓を用いてエイサーを行なっていた。


桑江公園

沖縄戦後に米軍により桑江集落の土地は接収され米軍基地 (キャンプ桑江 Camp Lester) となり、行き場を無くした集落住民は現在の北谷町桑江地区の丘稜地に移住させられ、山や森を切り拓いて戦後の生活を営んでいた。集落の数多くの拝所は米軍基地内に取り残されていたのだが、戦後、桑江集落の住民の米軍への懇願で、集落に点在していた11の拝所を基地内の奈留川原 (ナルカーバル) のキャンプ桑江内の北側の陸軍貯油施設第一桑江タンクファームへの道沿いの桑江ヌ殿 (クェーヌトゥン) があった場所に旧字桑江御願所を設置して合祀していた。
しかし、基地内という事で住民は自由には拝する事が許されず、御願所は現在の桑江公園内にある竹山御嶽の麓に移設されている。この辺りは字桑江だったのか字桑江ヌ後だったのかはよくわからないのだが、桑江の拝所が集められているので、ここに記載しておく。

竹山御嶽 (ダキヤマウタキ)

現在の桑江公園の中には孟宗竹林の山があり竹山 (ダキヤマ) と呼ばれ、山への階段を登るとガマ (鍾乳洞) があり竹山御嶽と称され拝まれていた。このガマは谷茶大主 (チャタンウフヌシ) に攻め滅ぼされた北谷グスク城主だった大川按司が逃げ延びた場所と伝わっている。戦時中は住民の避難壕として使われていた。現在では山の下の旧字桑江御願所の近くに香炉が置かれ拝まれている。

竹山御嶽の井泉

竹山御嶽がある山には現在でも豊富な水量の湧水があり、井戸が残っている。竹山のガマに逃げ込んだ大川按司はこの湧水で生き延びたとされる。竹山御嶽の井泉には香炉 (ウコール) が設置され、神の水として現在も住民に拝まれている。

旧字桑江御願所

竹山の階段の下には奈留川 (ナルカー) の源泉の池がある。この場所に旧桑江集落に点在していた九つ (後に11) の拝所を子ヌ方の拝所の場所に集め、1989年 (平成元年) に合祀した旧字桑江御願所が置かれている。

奈留川 (ナルカー)、子ヌ方 (ニーヌーファ)、土帝君 (トゥーテェークン)

旧字桑江御願所には11の拝所が合祀されている。向かって右から見ていく。
  • 奈留川 (ナルカー) - 桑江集落に水を供給していたのが奈留川 (ナルカー) で「神が宿る川」として崇められており、この旧字桑江御願所に最後に合祀されている。
  • 子ヌ方 (ニーヌーファ) - 支那事変 (1937年 昭和12年) の頃に竹山御嶽の神を遷して祀ったという。この拝所は元々この場所にあり、他の拝所をここに合祀している。戦前ではノロやヤクミ (役目 = 行事世話役) によって子ヌ方 (ニーヌーファ) で初拝み (ハチウガミ) が行われ、住民の無病息災や豊作の祈願などが行われていた。沖縄戦直前 (昭和13〜14年頃) には出征軍人が拝んでいた。
  • 土帝君 (トゥーテェークン) - 戦前の桑江集落の南側に置かれ、中国由来の土地の神様の土地公を祀っていた。戦後、この場所に合祀されている。戦前まで旧2月1日から3日間にわたりニングヮチャーの行事が行われ、シンムイと呼ばれる、お膳に大根や豆腐などを盛ったものを供えて豊作の祈願を行っていた。

カンカ神、砂糖毛 (サーターモー) / 豊年神、遊神

  • カンカ神 - 現在の北谷町役場付近のイチには戦前には池があり、その池の近くにカンカ神が祀られていた。旧暦の12月7日にはカンカーと称し悪霊侵入防除の儀礼を行なっていた。「カンカー」とは「見張る」という意味で、池で豚を殺して解体し、その骨片や肉をヒジャイナー (左巻の縄) に挟み、村の入口に吊り下げカンカ神に供えて、悪霊や悪疫の集落内への侵入を阻止してた。この行事は各集落で行われており、他の地域ではシマクサラシとも呼ばれている。残りの豚肉はその場で煮炊きして桑江集落住民の老若男女で共に食したと伝わっている。
  • 砂糖毛 (サーターモー) / 豊年神 / 遊神 - 旧桑江集落の南側、現在のキャンプ桑江内の米軍病院の裏側には、戦前、サーターヤー (製糖工場) があった。この一帯は砂糖毛 (サーターモー) と呼ばれており、そこには「豊年神」と「遊神」が祀られ、旧暦8月15日の十五夜の遊び (ジューグヤヌアシビー) で、豊作を感謝する唄や踊りが奉納されたと伝わっている。

びじゅる、産川、大荒神川

  • びじゅる - 桑江ヌ前屋取の北谷トンネルの北西側にあってびじゅるは腰憩い (クスッキー) を行う場所だった。首里桃原にある普天間権現とクサイ (一対) と言われていた。
  • 産川 (ンブガー) - 桑江集落の北東には出産時の産水 (ンブミジ) を汲んだ井戸。この井戸は古くからあり、その周辺が桑江集落が始まった場所と伝わっている。
  • 大荒神川 -詳細は不明だそうだ。

殿 (トン)、村火神 (ムラヒヌカン)

  • 殿 (トン) - 戦前迄は旧桑江集落の北側、現在の北谷高校辺りに殿 (トゥン) が置かれていた。(旧字桑江御願所がここに移される前には殿の場所に前旧字桑江御願所が置かれていた) 琉球國由来記には平安山ノロが各ウマチー (2月の麦収穫祭、3月の感謝祭、5月の稲収穫祭、6月の稲感謝祭) を司っていたとある。
  • 村火神 (ムラヒヌカン) - 正確な位置は不明だが、キャンプ桑江にあった桑江集落には村の守護神としての火ヌ神 (ヒヌカン) 集落の守護神が祀られていた。

井戸

桑江公園の北西の角と井泉跡がある。詳細は見つからなかったが、桑江公園の奈留川 (ナルカー) 源泉から流れてきていると思われる。井戸には水が湧き、魚が何匹も泳いでいる。井戸の側には汲み上げポンプも設置されているので、まだ何かに使用されているようだ。ここから奈留川 (ナルカー) を通り海岸に流れ出しているのだろう。


桑江ヌ後屋取 (クェーヌクシヤードゥイ)

戦前迄は字桑江 (クェー) の北には桑江ヌ後屋取 (クェーヌクシヤードゥイ) があり、東シナ海に面し、ヤードゥイ 北谷町域西側、屋取集落。集落の南側は北側は伊礼 (イリー ) と隣接していた。 桑江ヌ後屋取も元々は桑江ヌ前屋取と一体で、1750年頃に移住し、1800年頃に御殿地屋取の一部 (約15戸) も含めて桑江ヌ前から独立して桑江ヌ後を形成している。

御殿地屋取集落の発生については不詳だが、字桑江と字伊礼にまたがって一つの部落を形成していた。集落一帯が元総地頭の役地であつた事から御殿地と呼ばれたと推察されている。

戦前の桑江ヌ後屋取は戸数42軒あり、そのうち瓦屋 (カーラヤー) は6軒だった。桑江ヌ後 (クェーヌクシ)、桑江後 (クェークシ)、後屋取 (クシヤー ドゥイ)、桑後 (クワクシ ) などとも呼ばれていた。また、知念姓が多いため、他の集落から知念屋取 (チニンヤードゥイ) とも呼ばれていた。主業は農業で、小さな村だったった。戦争前には砂糖小屋 (サーターヤー) は一ヶ所あったが、嘉手納製糖工場へ持っていくようになり使用されなくなっていた。集落内には各家に井戸があったので共同井戸はなかった。

桑江ヌ後屋取には拝所の様に扱われた石敢當が一ヶ所あった。ここでは旧暦2月2日の腰憩め (クスックィー) のときに拝んでいたそうだ。集落の北端に、澱粉を軍事用品として使うために作られたデンプンコージョーがあった。1942~44年 (昭和17~19年) 頃までは稼動していたが、それ以降は生産を止め日本軍の兵舎となっていた。桑江ヌ後屋取は、この工場があったために十・十空襲を受け、集落の人が何名かが亡くなっている。


桑江ヌ後屋取集落で戦前に行なわれた主な年中行事は

  • クスックィー (ニングワチャー 旧暦2月2日): 道脇の石敢當を拝んでいた。この日には男性のみが参加し、豚を一頭潰し、天ぷら、豆腐、タマナーイリチャーなどのごちそうを作り、膳に盛って、真ん中に大根の葉を飾っていた。三味線を弾きながら、ヤードゥから拝所まで道ジュネーをしていた。
  • クスックィー (ニングワチャー 旧暦2月2日): 道脇の石敢當を拝んでいた。この日にはd豚を一頭潰し、天ぷら、豆腐、タマナーイリチャーなどのごちそうを作り、膳に盛って、真ん中に大根の葉を飾っていた。三味線を弾きながら、ヤードゥから拝所まで道ジュネーをしていた。
  • エイサー (旧暦7月): 男性のみの参加して行っていたが、1944年 (昭和19 年) からhは徴兵で青年も少なくなり、やらなくなった。

戦後、旧集落域は米軍に接収され、キャンプ桑江となり、以前の地形は変わっている。現在は土地が返還され、北谷町役場西側一帯は、北谷町の中心地となっている。



桑江区自治会

桑江公園の西の道路を渡った所には桑江区自治会が置かれている。
北谷町では字と区による二つの行政地域がある。米軍基地の一部返還などで一つの区に人口が集中し増加した際に、その区を分けて新たに区を作り、区による偏りが無い様にしている。この桑江区は旧字桑江の中心地を管轄区としており、旧字桑江の東は上勢頭区、西は美浜区が管轄している。

非核宣言の塔、被爆クスノキ2世

桑江公園の斜面を登りきった北側は御殿地原 (ウドゥンチバル) と呼ばれている地域で、かつては隣接する伊平にまたがって御殿地屋取集落があった場所になる。1800年頃に御殿地屋取の桑江邑部分 (約15戸) は桑江ヌ後屋取集落とともに桑江ヌ前から独立して桑江ヌ後を形成している。ここには北谷町生涯学習支援センター整備事業により、北谷町中央公民館跡地に建設された生涯学習のための施設の北谷ニライセンターが置かれている。北谷ニライセンターには生涯学習プラザと町立図書館が併設されている。1時間程、町立図書館で北谷町の人口データを調べるが、1980年以前のデータは保管されておらず、公文書館にあるという。ここで1981年以降のデータは入手し、公文書館には後日行く事にした。図書館の交差点の場所には非核宣言の塔が置かれている。これは、1985年に北谷町が核廃絶と恒久平和のために全力を尽くす決意の元「北谷町非核宣言」行い、翌年に建設されたもの。碑文の左上にはヒロシマを語る会のメンバーが爆心直下の広島市平和記念公園近くの相生橋のふもとの地中などから掘り出した民家の瓦の欠片が埋め込まれている。
非核宣言の塔の後方の駐車場には長崎県で被爆したクスノキの種から育てた苗をここに植樹し育てている。この原木となったクスノキは1945年8月9日の長崎市の原子爆弾が投下され、死者7万4千人、負傷者7万5千人の犠牲者を出している。その中にあって、山王神社の2本のクスノキも大きな被害を受け、一時は生存も危ぶまれたが、その後樹勢を盛り返し、現在は長崎市の天然記念物に指定されている。原爆の恐ろしさと生命の尊さを伝えるものとして、大切に保存され、被爆クスノキの種から育てられた苗を各地に配布しており、ここのクスノキは配布された一つになる。

字北谷郷友会

北谷ニライセンターのすぐ近くには北谷郷友会の事務所があった。戦前までは字北谷は現在のキャンプ桑江内にあり、現在でも返還されていない。移住を余儀なくされた住民有志で、郷友会を組織して旧字住民の繋がりや拝所や祭祀などの文化の継承を行なっている。キャンプ桑江は全面返還が合意されているので、跡地利用計画に地権者など旧住民の期待の実現に重要な役割を担う事になるのだろう。

北谷町役場

北谷図書館の西の道路でキャンプ桑江を越えて下ると北谷町役場が建てられている。戦後、平場は米軍に基地建設の為に接収され、基地に適さない山間部 (写真下) が住民の帰還できる場所となっていた。戦前はこの山間部には民家などはなく、帰還した住民が自力で切り開き住み始めた場所になる。
坂道を降り切った所に北谷町役場がある。戦後、転々としていた北谷町役場は吉原から1998年 (平成10年) に現在の場所に移って来ている。

宮増原ヌ殿 (ミヤマシバラヌトゥン)

北谷町役場の裏のキャンプ桑江の道路との境に拝所がある。祠内には香炉が四つ置かれている。その隣には、井戸を形取った拝所もあり、香炉が三つ置かれている。「北谷町の遺跡」では琉球国由来記の宮増原ヌ殿となっている。この宮増原ヌ殿付近には宮増火ヌ神もあるとなっている。宮増原ヌ殿では、旧暦のニ月/三月の麦ウマチーの際に、芋の神酒一完、旧暦五月/六月の稲ウマチーの際に、米の神酒一完を桑江の村人が供えて、平安山ノ口が祭祀をおこなっていた。
この拝所のすぐ北のキャンプ桑江の道路沿いにも拝所らしきものが見える。この拝所を移してきたのだろうか? この東はキャンプ桑江で丘陵斜面になっている。この斜面山手に住んでいたのが、伊礼の宗家と伝わる屋号 前桝 (メーマシ) といい、その宗家の拝所がこの宮増原ヌ殿という。山手では耕作に不便という事で、便利な所に転住して伊礼部落を形成したと考えられる。桑江村から分離して村を創設した年代は明かでないが、第二尚氏王朝初期の1440~50年頃と考えられている。

奈留川 (ナルカー)

桑江公園の池を源とした奈留川 (ナルカー) がキャンプ桑江の道路から現れている。桑江集落に水を供給していたので、「神が宿る川」として崇められ、桑江公園内の旧字桑江御願所に合祀されている。

御願所 (ウガンジュ、諸大明神)

桑江ヌ後屋取集落には拝所はなかったのだが、旧集落内の三叉路 (カジマヤー) に置かれていた石敢当を御願所 (ウガンジュ) としてクスックィーの際に拝んでいた。そこにはエイサーの練習をしていたそうだ。また、60斤 (36kg) と130斤 (78kg) の2つのマーイサー (真石、力石) が置かれ青年達が力比べをしていた。戦後、桑江ヌ後屋取集落全体はキャンプ桑江となっていた。一部が返還され、奈留川 (ナルカー) に沿った西の公園内に新たに拝所が造られている。「石敢當」ではなく「諸大明神」と書かれている。


これで桑江の史跡巡りを終えて帰宅。膝の具合が気にはなっていたのだが、翌朝はかなり痛く、以前より悪化していた。三日間歩るくことも出来ず、まだ痛みが残っている。去年の夏から、故障続きで、以前に比べて治るまで時間が長くなっている。今回は無理をせず治るまでは遠出は控える事にする。(いつ再開できるだろう、少し時間がかかりそうだ。)


桑江訪問ログ


参考資料

  • 北谷村誌 (1961 北谷村役所)
  • 北谷町の自然・歴史・文化 (1996 北谷町教育委員会)
  • 北谷町の戦跡・基地めぐり (1996 北谷町役場企画課)
  • 北谷町の戦跡・記念碑 (2011 北谷町教育委員会)
  • 北谷町の地名 (2000 北谷町教育委員会)
  • 北谷町の遺跡 (1994 北谷町教育委員会)
  • 北谷町史 第1巻 通史編 (2005 北谷町教育委員会)
  • 北谷町史 第3巻 (上) 資料編 (1992 北谷町史編集委員会)
  • 北谷町史 第3巻 (下) 資料編 (1944 北谷町役場)
  • 北谷町史 第6巻 資料編 北谷の戦後1945〜72 (1988 北谷町史編集委員会)

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