Okinawa 沖縄 #2 Day 262 (23/03/24) 旧北谷間切 北谷町 (03) 字吉原 (謝苅屋取・崎門屋取)、字桃原 (桃原屋取)
字吉原 謝苅屋取 (ジャーガル)
- 池グスク、北谷トンネル
- 白比川 (北谷川)、新川 (あらかわ、シリンカー)、タマタ
- 謝苅区公民館
- 北玉小学校
- 北玉区公民館
- 旧北谷役場跡
- トーヤマ井 (ガー)
- 謝苅道
- 謝苅三叉路、ナポリ座跡
- 謝苅劇場跡
- 北宝館跡 (謝苅琉映館)
- 長老酒造、トゥラジミチ
- 機関銃基地跡
- 沖縄戦避難壕、通信部隊基地跡
- 上ヌ井
- 謝苅毛小ビジュル
- 謝苅坂 (ジャーガルビラ)
- 謝苅公園、ワイトゥイ跡
- 宇地原公民館、宇地原公園
- 宇地井 (ウージガー、ホースガ-)
字吉原 崎門屋取 (サチジョー)
- 泉井 (イジュンガー)
- 桃原井 (トーバルガー)
- 桃原川 (トーバルガーラ)
- 平和の塔
- 旧北谷役場跡
字桃原 桃原屋取 (トーバル)
- インナー
- アシビナー
- 越来桃原井 (グィークトーバルガー)
- 桃原公園、フナウクイモー
- 桃原区公民館
- 栄口団地、栄口区公民館
字吉原 謝苅屋取 (ジャーガル)
下の地図は北谷町内の米軍基地の変遷を表しているが、かなり長い期間、ほぼ全土が米軍基地となり、居住地となっていたのはこの字吉原が中心となっていた。
謝苅集落の拝所
- 御嶽: なし
- 殿: なし
- 拝所: 謝苅毛小ビジュル
- 井泉: トーヤマガー、上ヌ井 (ウィーヌカー 又は東ヌ井)
謝苅屋取集落で行なわれていた主な年中行事
- ニングワチャー (旧暦2月): アガリ・ナカ・イリの3つの組に分かれて行なっていた。
- エイサー (旧暦7月): エイサーではまずはビジュルを拝に行われていた。
池グスク、北谷トンネル
白比川 (北谷川)、新川 (あらかわ、シリンカー)、タマタ
謝苅区公民館
北玉小学校
北玉区公民館
旧北谷役場跡
- 1945年 (昭和20年) に疎開地に指定された羽地村へ役場分所を設置。
- 1946年 (昭和21年) に越来村嘉間良に北谷村仮役所を設置。
- 帰還許可がおりた後には上勢頭の大毛にあった先遣隊事務所を設置し、1947年 (昭和22年) 2月にこの先遣隊事務所に仮役所を移転している。同時に、桃原一区 (吉原520番地) に木造トタン葺庁が建設。
- 1950年 (昭和25年) 4月に謝苅一区 (崎門屋取集落、平和の塔が置かれている辺り) に木造瓦葺庁舎を建設し移転。
- 1961年 (昭和36年) に、吉原10番地のこの場所に新たに北谷村役場を建設し移転。
- 1998年 (平成10年) に桑江226番地に現在の北谷町役場を建設し移転。
トーヤマ井
謝苅道 (ジャーガルミチ)
謝苅三叉路、ナポリ座
謝苅劇場跡
北宝館跡 (謝苅琉映館)
長老酒造、トゥラジミチ
機関銃基地跡
沖縄戦避難壕、通信部隊基地跡
上ヌ井 (ウィーヌカー)
謝苅毛小ビジュル
謝苅道の西側の崖の上は謝苅毛 (ジャーガルモー) と呼ばれる広場がある。アザモー、マーチューモーとも呼ばれていた。
謝苅坂 (ジャーガルビラ)
謝苅公園、ワイトゥイ跡
宇地原区公民館、宇地原公園
宇地井 (ウージガー、ホースガ-)
字吉原 崎門屋取 (サチジョー)
崎門屋取集落で行なわれた主な年中行事
- クスックィー (クシユクワーシー・ニングワ チャー 旧暦2月2日-3日): 大きな家を借り、そこに集まって、三味線を弾き、太鼓を叩いたりして遊んだ。ごちそうは膳に盛り、桃の花を挿して飾った。
- エイサー (旧暦7月):2~3週間前から、マーイシモーに集まって練習していた。当日は集落内の各家を回っていた。
- カーウガミ (旧暦8月): トーバルガーを掃除して拝んでいた。
泉井 (イジュンガー)
桃原井 (トーバルガー)
謝苅道を進むと栄口区中央通りの入口南側の崖下に桃原井 (トーバルガー) がある。作られた時期は不明。水が涸れることはなく水の豊富な井戸だった。崎門 (サチジョー) 門中が水道が普及するまで生活用水として使用し、若水や産水が汲まれていた。かつては崎門屋取集落、桃原屋取集落住民により、2月2日と3日にニングヮチャー(クスックイ、クスユクヮーシー)がおこなわれ、初日には、ウチャヌク・酒・花米・線香を供えて、男性による豊作の祈願を行っていた。現在でも崎門屋取集落では旧暦8月にはこの井戸を掃除して井御願 (カーウガミ) が行われている。
桃原川 (トーバルガーラ)
平和の塔
謝苅道を更に上がって行くと、鳥居が建っている。鳥居を潜り中に入ると広場の崖上に平和の塔の戦没者慰霊碑が建てられていた。1950年代に当時の遺族会の有志5名によって、謝苅で2日間、桃原で1日間芝居を興行し、資金を作り、また村有志からの寄付金を集め、平和之塔の建立計画を作成し、1954年に村議会に提案され可決、同年には平和之塔が完成し除幕式が挙行された。当初、この平和之塔では町出身の軍人、軍属、準軍属に限られた968名の戦没者を祀っていた。昔からの拝所ではないのだが、鳥居が建てられたのは、戦時中の国家神道の影響が残っていたからだろう。その後、終戦33年目の1978年に戦没者を再確認し、1,294柱に刻名者は増えた。
1995年10月22日 (町民平和の日) に終戦50周年記念事業として平和之塔を再整備し、民間人も含めた町出身者の全戦没者を刻名し慰霊する事になった。塔の正面には2,321柱の戦没者名が刻名されている。
旧北谷役場跡
桃原屋取集落 (トーバル)
桃原屋取集落で行なわれた主な年中行事
- クスックィー (ニングワチャー、旧暦2月2~4日: 1日目は普天間拝みへ行った後、大きな家をヤードゥとして借り集まってごちそうを食べた。2日目はヒャーナーとインナーを拝みに行木、各家庭で豆腐、天ぷら、チンヌク (サトイモの一種)、ゴボウ、野菜などをインナーに持ちより、みんなで食べた。3日目はクスックィージューシーを炊い て、ヤードゥで食べる。男女一緒に行なわれていた。
- ヤイサー (エイサー 旧暦7月):のみで行なわれ、桃原屋取と越来桃原の青年男子が一緒になって行なわれた。女子や子どもは参加しなかった。練習場所はインナーで、 当日もここを拝んでから出発し、集落内の各家を回った。
- ジューグヤー (十五夜 旧暦8月15日): アシビナーで明治時代までは芝居が行なわれていた。
インナー
アシビナー
越来桃原井 (グィークトーバルガー)
桃原屋取集落内には井戸が少く、東に隣接している沖縄市の越来桃原にある桃原井 (トーバルガ-) を若水や生活用水として使用していた。北谷町ではないのだが、関連史跡なので、沖縄市に入り、越来桃原井を見学した。
桃原公園、フナウクイモー
桃原集落の北側には大きな公園がある。桃原公園といい。公園高台の斜面を利用してかなり長いすべり台が置かれている。今日も子供達がにぎやかに遊んでいた。
桃原区公民館
桃原公園の北側には桃原区公民館が置かれている。ここも字吉原内になる。
栄口団地、栄口区公民館
桃原公園の西側は栄口原 (エグチバル) と呼ばれた場所で、戦前はこの辺りには民家は全くなかった。戦後、米軍基地に土地を接収され元の村に戻ることができなかった人が多く移住してきて、北谷村役場にとって住宅地開発が急務となっていた。この栄口原に民間主導で住宅造成が進められ、1967年に桃原団地が出来上がった。その後も村営団地など住宅地が形成され人口は増加し、1980年に村政から町制への移行した際に、行政区の再編が行われ、旧謝苅一区から人口2,481人、606世帯が分離し、栄口区となっている。現在 (令和4年1月現在) 2,879人、1,190世帯となっている。
これで3日間にわたって、字吉原内の史跡やスポット巡りがようやく終了。3日目はこの後字玉上に移動したが、そのレポートは別途。
参考資料
- 北谷村誌 (1961 北谷村役所)
- 北谷町の綱引き (2000 北谷町教育委員会)
- 北谷町の自然・歴史・文化 (1996 北谷町教育委員会)
- 北谷町の戦跡・基地めぐり (1996 北谷町役場企画課)
- 北谷町の戦跡・記念碑 (2011 北谷町教育委員会)
- 北谷町の地名 (2000 北谷町教育委員会)
- 北谷町の遺跡 (1994 北谷町教育委員会)
- 北谷町史 第1巻 通史編 (2005 北谷町教育委員会)
- 北谷町史 第3巻 (上) 資料編 (1992 北谷町史編集委員会)
- 北谷町史 第3巻 (下) 資料編 (1944 北谷町役場)
- 北谷町史 第6巻 資料編 北谷の戦後1945〜72 (1988 北谷町史編集委員会)
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