Okinawa 沖縄 #2 Day 263 (30/03/24) 旧北谷間切 北谷町 (04) 字玉上 (仲山屋取・屋宜屋取)

字玉上 仲山屋取集落 (ナケーマ、なかやま)

  • 大道 (ウフミチ)
  • 玉上集会所
  • 泉小 (イジュングヮ、水神)
  • 大泉 (ウフイジュン、大ヌ井 ウフヌカー)
  • 仲山ヌ井 (ナケーマヌカー、下ヌ井 シチャヌカー)

字玉上 屋宜屋取集落 (ヤージ、やぎ)

  • 天国への階段、キャンプ端慶覧
  • 大毛 (ウフモー)


字吉原 (3月23日の訪問記に含めている) を見終わり、字玉上に移動し、域内の史跡、スポットを巡る。


字玉上 仲山屋取集落 (ナケーマ、なかやま)

白比川と新川の合流地点のタマタから東側字玉上になる。北谷町域の東側の高台に仲山屋取集落があった。戦前は戸数33軒で、その内、カーラヤー (瓦屋) は比較的多く10軒あった。北の高台にある屋宜屋取と合わせて屋宜仲山 (ヤジナケーマ) と呼ばれていた。
明治大正期には字玉代勢 (タメーシ) の一部だったが、1939年 (昭和14年) に屋宜屋取とともに行政字として分離独立し、字玉上 (たまうえ) となった。玉代勢より標高が高いところ (70mぐらい) に位置しているので名付けられたが、戦後は「たまがみ」と呼ばれるようになった。
屋宜仲山のニ集落は中城間切の大平屋取 (ウフンダヤードゥイ) と屋宜屋取 (ヤジヤードゥイ ) に隣接しており、これら四集落はカーラヤー (瓦屋) 造り・墓造りなどの大きな仕事は共同で行なっていた。
主業は農業で、芋やサトウキビなどを作っていた。また、集落の33軒のうち2軒以外からは、フィリピン・ペルー・ブラジル・ア ルゼンチンなどに出稼ぎに出ていた。 

戦後、仲山集落域は米軍に接収され、キャンプ瑞慶覧となり、軍司令部や軍の住宅地などに使用されていた。現在は返還され、元地域一帯は住宅地となっている。


仲山屋取集落の拝所

  • 御嶽: なし
  • 殿: なし
  • 拝所: なし
  • 井泉: 泉小、大泉 (大ヌ井 消滅?)、仲山ヌ井 (下ヌ井 消滅?)

仲山集落で行なわれる主な年中行事

  • クシユクワーシー (旧暦2月1~2日、クスックィー): 上組 (ウィー グミ) と下組 (シチャグミ) に分かれて行なわれた。ヤードゥは毎年変わるが、カーラヤーや大きい家などがあてられていた。1日目は男性のみで行なわれ、2日目は男性がウケーメーを炊いて、女性にふるまった。 
  • 盆 (旧暦7月) : 屋号ヤマーアガリの三叉路のところが広っぱになっており、そこでエイサーの練習していた。


大道 (ウフミチ)

新川と白比川が合流するタマタから仲山集落への道があり、それを登って行く。この道は大道 (ウフミチ) と呼ばれ、仲山集落の真ん中を東西に走っている。荷馬車通れるぐらいの道幅で、道のところどころに、馬車がすれ違うための場所を作ってあったそうだ。以前、この道は、集落の西の端の屋号ナーカグワーあたりまでしか、荷馬車が入ることができなかったが、1934~35年 (昭和9~10年) 頃、日本政府の農道補助金を使い、足りない分は募金もあり、さらにヤードゥイジンミ (村の会議) を行ない、集落の人たちで夜間工事を行い集落の東端まで荷馬車が入れるようになった。大道 (ウフミチ) を境に、上組 (ウィーグミ) と下組 (シチャグミ)に分かれており、それぞれに砂糖小屋 (サーターヤー) が置かれていた。これ以外にも個人所有のサーターヤーも3か所あった。他の地域にではサトウキビを嘉手納の製糖工場にも納入していたが、仲山屋取)は地形が悪いため、工場へ運ぶのが大変で、すべてのサトウキビは村で製糖し売っていた。

玉上集会所

大道を進むと元の仲山集落の手前に玉上集会所が置かれていた。元の集落内ではなく、この場所に置かれたのは、戦後、この辺りに民家が増えていったためだろう。

泉小 (イジュングヮ、水神)

仲山屋取に入り、集落のほぼ中心、大道沿いに泉小 (イジュングヮ) がある。この丘陵地の斜面から泉が湧き水の豊富な地域で各家に井戸があった。これ以外に仲山屋取集落には共同井戸が三ヶ所あり、その内の一つになる。ニーブガー (杓井) で日照りの際に水量が減っていたそうだ。元々の場所は大道が延長整備された際に埋められてしまった。その脇に他の共同涌井泉の仲山ヌ井 (ナケーマヌカー、下ヌ井 シチャヌカー) と大ヌ井 (ウフヌカー) を合祀し、ウジュマーヌクシヌカーとして、水神を祀っている。

大泉 (ウフイジュン、大ヌ井 ウフヌカー)

三つの共同井戸の一つが大ヌ井 (ウフヌカー) で、集落の最上部、上組 (ウィー グミ) にあったそうだ。地面から豊富に水が湧き出していた。この井戸も石やセメントで作ったニーブガー (杓井) で水はヌーファガーラに流れ込んでいた。資料 (2000年発行) ではまだ残っており畑に流れ込んでいるとなっていたので、その場所に行って探した (写真左下の場所) が見つからなかったが、ヌーファガーラへんl水路があり勢いよく水が流れ落ちていた。畑の側には資料は20年以上前なので、井戸は無くなり、先程のイジュングワーの場所に合祀されたのだろう。

仲山ヌ井 (ナケーマヌカー、下ヌ井 シチャヌカー)

三つ目の共同井戸の仲山ヌ井があった場所にも行ってみたが、これも見つからなかった。大ヌ井と同じように消滅して合祀されたのだろう。


字玉上 屋宜屋取集落 (ヤージ、やぎ)

字玉上にはもう一つ屋宜屋取集落があった。
北谷町域東側の高台に存在した戸数40軒程の集落で東側は中城村に隣接していた。集落は三つの組があり、西からの13軒が前屋宜 (メーヤギ)、集落の真ん中の12軒が中屋宜 (ナカヤギ)、東側には15軒の後屋宜(クシヤギ) に分けられていた。屋宜屋取集落も明治大正期には字玉代勢 (タメーシ) の一部だったが、1939年 (昭和14年) に仲山屋取とともに行政字として分離独立し、字玉上 (たまうえ) となっている。主業は農業で、芋やサトウキビなどを作っていた。仲山集落と同様にフィリピン・ペルー・ブラジル・アルゼンチンなどに出稼ぎに出る人も多かったそうだ。 
集落内には泉が少なく、共同井戸だった前ヌ井 (メーヌカー) も水量は少なく、日照りには涸れた為、仲山屋取の泉井や大泉井に水を汲みに行っていた。
屋宜集落全土は戦後、接収されキャンプ瑞慶覧の米軍の住宅地となり、現在でも返還されておらず、返還時期は未定だ。

屋宜屋取集落の拝所

  • 御嶽: なし
  • 殿: なし
  • 拝所: なし (山里のビジュル)
  • 井泉: 前ヌ井 (基地内 消滅?)、泉井小 (基地内 消滅?)、大泉 (基地内 消滅?)

屋宜集落で行なわれていた主な年中行事

ニングワチャー (クスックィー 旧暦2月2~3日): ニーセーカタ (青年組) とトゥスイカタ (年寄り組) の2組に分かれて行なわれた。初日ヒャーナーウガミとして屋宜集落の北東の沖縄市の山里のビジュルを拝みに行っていた。


天国への階段、西ヌ山、キャンプ端慶覧

米軍に接収された屋宜集落があった高台は気になっていたのだが、先日、北玉公民館でウロウロしている時に宮城さんから声をかけられて、「天国への階段」を探しているのかと聞かれた。Google map には確かに天国への階段 (Stairway to Heaven) とあったが、訪問予定はなかった。高台の上に幾つかの建物が見えていたので気にはなっていた。高台はキャンプ端慶覧の一部で、東側は単身士官宿舎、西側はライコムプラザ家族住宅として使われていた。この高台のキャンプ端慶覧は北は後山 (クシヤマ 写真中)、西はアカギヤマ (写真下) に囲まれている。
宮城さんによると、数年前からから、なぜか天国への階段 (Stair to Heaven) と呼ばれるようになったそうだ。英語では Stairway to Heaven Workout とあるので米軍兵士達がトレーニング場所として名付けたのだろうか? ともかく登って見ることにした。階段は268段あり、一気に登ったがかなりきつかった。頂上はキャンプ端慶覧でフェンスで囲まれて中には入れない。
頂上には何本も溝があり、階段の脇に下へと水路がある。マンホールには Sewer と書かれているので、基地からの下水路で、階段はそのメンテナンス用に造られたのだろう。
フェンスの向こう側奥に森 (上の写真の右下) が見えるが、そこにはトゥールガマ (マテーシグワーガマ) という洞窟がある。ガマへは前屋宜 (メーヤジ) とn中屋宜 (ナカヤジ) からの水が流れ込んでいた。大雨や長雨が続いたときには、ガマから大水が流れ出し新川 (アラカーガーラ) へ流れ込んでいた。排水路がトゥールガマ方向に伸びており、キャンプ瑞慶覧内での軍の排水に利用されているそうだ。
ここからは下界のキャンプ端慶覧が一望できる。

大毛 (ウフモー)

キャンプ端慶覧の階段の西側も山になっており、その上は大毛 (ウフモー) で屋宜集落の西の端だった。このウフモーは屋宜屋取と仲山屋取で船旅の人やや出征兵士を見送るフナウクイをする場所だった。戦後、米軍基地となってからこのウフモーには将校クラブも置かれていたと地元の人が言っていた。

玉上は半分が米軍基地なので、史跡も殆ど無く終了。自宅への帰路に着く。来週からは定期検診で東京行き。10日程娘夫婦宅に滞在し、杉並区の史跡巡りを予定している。今年は東京での桜の開花が遅れ、見頃が丁度滞在期間中なので、今回の東京滞在は桜も見ながらになりそうだ。

参考資料

  • 北谷村誌 (1961 北谷村役所)
  • 北谷町の綱引き (2000 北谷町教育委員会)
  • 北谷町の自然・歴史・文化 (1996 北谷町教育委員会)
  • 北谷町の戦跡・基地めぐり (1996 北谷町役場企画課)
  • 北谷町の戦跡・記念碑 (2011 北谷町教育委員会)
  • 北谷町の地名 (2000 北谷町教育委員会)
  • 北谷町の遺跡 (1994 北谷町教育委員会)
  • 北谷町史 第1巻 通史編 (2005 北谷町教育委員会)
  • 北谷町史 第3巻 (上) 資料編 (1992 北谷町史編集委員会)
  • 北谷町史 第3巻 (下) 資料編 (1944 北谷町役場)
  • 北谷町史 第6巻 資料編 北谷の戦後1945〜72 (1988 北谷町史編集委員会)

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