埼玉県 (12/04/23) 蓮田市 (8) 蓮田地域 閏戸

蓮田地域 閏戸 (うるいど)

下閏戸

  • 馬頭観音 (4番)
  • 伊夜彦神社
  • 備後稲荷神社
  • 馬頭観音 (5番)、甲子塔 (59番)
  • 養牛寺、庚申塔 (24番)

中閏戸

  • 庚申塔 (22番)
  • 牛頭観音 (9番)
  • 馬頭観音 (6番 不明
  • 馬頭観音 (3番) 
  • 牛頭観音 (8番)
  • 薬師堂
  • 閏戸久伊豆神社

上閏戸

  • 堤外公園
  • 馬頭観音 (16番)、六十六部供養塔
  • 巡礼社、大山街道
  • 庚申塔猿田彦大神 (23番)
  • 牛頭観音 (7番)
  • 庚申塔 (25番) 
  • 子育地蔵
  • 道祖神
  • 愛宕神社
  • 秀源寺、馬頭観音 (未登録)
  • 桟俵地蔵
  • 久伊豆橋
  • 馬頭観音 (2番)、庚申塔 (20番)、弁天、力石
  • 馬頭観音 (1番) 
  • 庚申塔21 (市役所に移設)

蓮田地域

蓮田地域は蓮田市の中央部に位置し、元荒川と綾瀬川沿いの農地とその間の集落地からなり、閏戸と貝塚がこの地域にあたる。元荒川の東側、綾瀬川と見沼代用水に挟まれる地域は農地を中心に水と緑の豊かな田園環境が残っている。元荒川沿いには総合市民体育館や総合文化会館が建設され文化と健康の総合拠点として、市民活動に利用されている。しかしながら、生活道路の安全性や豪雨時に冠水の問題があり、道路もが不足している。また、高齢化により、耕作放棄地や空き家の増加、コミュニティの活動への支障が存在している。土地利用計画については地域の大半は集落的ゾーン、農業的ゾーンを維持しながら閏戸地区北側を都市的ゾーンとして、工場や流通業務施設の立地する工業・流通業務系ゾーン化を計画している。

蓮田市が発行している地域カルテは地域現状を簡単にではあるがポイントを抑えて紹介している。それによれば
  • 蓮田市の面積の17%を占めるも、人口は9%で人口に比べ農地の占める割合が大きい
  • 人口は減少傾向にある
  • 蓮田市全体に比較して高齢化が顕著に進んでいる。子供の人口は横ばいなので労働人口の減少が課題
  • 地域住宅のほとんどが一戸建てで共同住宅が少なくその中でも公営住宅はほとんどない。これは長男以外の住居確保に問題があり、この地域から流出の一要因と思われる。
  • 住民の不満は道路、上下水道、買い物環境にあり、生活を営む上でのエッセンシャルな所が大きい。これは大きな課題だろう。


蓮田地区 閏戸 (うるいど)

閏戸村は古くは閏戸郷とも呼ばれ、広大な地域の幾つかの部落を含んでいた。江戸時代には岩槻藩領で、1689年 (元禄11年) に閏戸村は上閏戸村、中閏戸村、下閏戸村、貝塚村、根金村、根金新田村の6つの村に分かれた。明治7年に上閏戸村、中閏戸村、下閏戸村の三か村が合併して再度、閏戸村が成立している。明治22年に閏戸村、貝塚村、蓮田村が合併して南埼玉郡綾瀬村が誕生し、旧閏戸村は大字閏戸となった。その後、綾瀬村は昭和9年に綾瀬町に名称変更し、昭和29年に平野村と黒浜村戸合併し蓮田町となり、昭和47年に蓮田市となっている。この期間に大字閏戸として行政区は変わっていない。


大字閏戸の人口推移状況は以下の通り。閏戸は蓮田市の中で4番目に人口の多い地区。他の地域同様に高齢化が進んでいる。


資料に記載されている閏戸の寺社仏閣や民間信仰の塔は以下の通り

  • 仏教寺院: 養牛寺(下閏戸)、薬師堂 (中閏戸)、秀源寺 (上閏戸)
  • 神社: 伊夜彦神社 (下閏戸)、備後稲荷神社 (下閏戸)、閏戸久伊豆神社 (中閏戸)、愛宕神社 (上閏戸)
  • 庚申塔: 6基  馬頭観音: 7+1基



閏戸訪問ログ



下閏戸村

蓮田台地の中央部、元荒川右岸、綾瀬川の左岸に位置し、北は中閏戸村、南は上蓮田村。古くは閏戸郷に属していた。1698年 (元禄11年) までは閏戸村に含まれたといわれるが、1665年 (寛文5年) の上尾宿助馬調に下閏戸村があげられており、この頃から分村化が進んでいたとみられる。江戸時代は岩槻藩領で、寛文12年に180石余あったとされている。


馬頭観音 (4番)

1912年 (大正元年)駒角柱形の石材に「馬頭観世音」の文字が刻まれている。死んだ馬のために建立したも。正月に雑煮などを供え拝んでいるそうだ。

伊夜彦神社 (いやひこじんじゃ)

創建の年代は不明だが、下閏戸の七件百姓と呼ばれた原嶋、岩崎、小花、神田、森田、清水、花井の七家の先祖が開いたと伝わっている。この中では原嶋家や岩崎家などの家々は、草分けで250年ほど続いているので、伊夜彦神社もまた、江戸時代の初期に、これら草分けの人々によって勧請されたものと思われる。言い伝えでは、下閏戸村の草分けの岩崎氏の郷里が越後ということで、己の故郷の弥彦 (伊夜彦) 神社をこの土地に勧請して、一族の繁栄と安穏を祈願したという。 祭神として天香久山命 (あめのかぐやまのみこと)、素戔男尊 (すさのおのみこと) を祀っている。下閏戸の守護神として住民に信仰されていたが、明治の神仏合祀令で、明治43年頃に中閏戸の久伊豆神社に合祀されたが、閏戸村では維持管理にお金が掛かることや、各地区が神社の祭りを主張したりしてまとまりが付かず、昭和20年には旧地に戻している。昭和32年には現地に移っている。社殿の老朽化のため大き詣入 の奉箔に本殿奥に拝殿を改築している。
伊弥彦神社付近は大小の古墳があったといわれ、最近まで残っていたものでは浄水場付近の十三塚古墳、その北側に小墳 (南北朝時代1336年の南朝の年号の板碑出土) があり、伊弥彦神社も小墳の上に建てられたと考えられている。
参道脇には二つの力石が置かれている。それぞれには「奉納 力石 廿六貫目 (約97.5kg)」、「奉納 力石 二十八〆目 (約105kg )」の文字が刻まれていた。

備後稲荷神社

地元ではここのお稲荷様はトウモロコシの茎で足にケガを負い、足が不自由になったと伝わっているそうだ。現在ではこの近所の数軒の住民により、毎年1月に祭礼を行っているそうだ。

馬頭観音 (5番)

見沼用水に架かる高砂橋の所に祠が建てられて、その前には1891年 (明治24年) に奉納された社寺型手水鉢が置かれ、祠内には1848年 (嘉永元年) に下閏戸村講中により造立された角柱形の甲子塔が祀られている。本体正面に「あげお」、本体右側面に「此方 さって 高の すぎと」と記され、道しるべを兼ねている。甲子塔とは本来、大黒天を祭り、甲子の日の夜に子の刻まで起きていて語り合う行事を記念して建てられるものだが、ここ地元では水難事故防止の祈願の為だそうで、毎月1日と15日に拝まれているそうだ。
甲子塔の祠の横には1765年 (明和2年) に住民が飼っていた黒栗毛の馬の景の供養の為に隅丸角柱形の石塔を建て、「南無馬頭観世音菩薩」の文字を刻み建立されている。

邸内社?

道沿いに赤鳥居の奥に祠があり、その中には石塔が祀られている。資料では見当たらないのでここの家の邸内社かもしれない。

養牛寺 (ようぎゅうじ)、庚申塔 (24番)

甲子塔の北側に禅宗曹洞派の養牛寺 (ようぎゅうじ) がある。開山は秀源寺の僧だった鼎岩嶽周 (1708年 宝永五年没) が隠栖の所として開山とも、なり創建されたとも、それ以前に祐岩和尚 (1580年 天正8年) が開山として創建されたという古文書があり、16世紀後半に造られたと考えられる。本尊には恵心の作と伝わる如意輪観音坐像が安置されている。本殿の横には木祠が置かれ、天神を祀っている。その奥には1800年 (寛政12年) に造立された庚申塔 (24番) が、元々は国道122号線沿いからここに移設されている。この山角柱形庚申塔の上部には、瑞雲を伴う日輪、月輪が半彫りされ、その下に庚申塔の文字が刻まれ、台石には三猿が浮き彫りされている。道しるべも兼ねており、台石左側面に「東 さって」、台石右側面に「南 いわつき 北 せうぶ」と記されている。
養牛寺の隣接する墓地には幾つもの古い石仏や塔が集められている。向かって左から見て行くと
  • 阿弥陀如来 (写真中左端) - 仏門に入った男性(禅定門) の供養のために1702年 (元禄15年) に造立され、船形の石塔に、両手で香炉を持つ阿弥陀如来立像が浮き彫りされている。
  • 地蔵 (写真中左から2番目) - 1720年 (亨保5年) に仏門に入った男女の禅定門、禅定尼の供養のために造立され、舟形の石材塔に、右手に錫杖、左手に宝珠を持つ地蔵菩薩立像と蓮座が浮き彫りされている。
  • 百箇所巡礼塔 (写真中右から2番目) - 1710年 (宝永7年) に造立され、舟形の石塔に、左手に蓮華を持ち、右手は与願印の聖観音立像が浮き彫りされ、像脇に「巡礼西国坂東秩父百番之札所」と刻まれている。
  • 如意輪観音 (写真中右端) - 仏門に入った禅定の霊位として、1722年 (享保7年) に仏門に入った男女の禅定門、禅定尼たちの供養のために造立され、舟形の石塔に、輪王座の如意輪観音坐像が浮き彫りされている。
  • 如意輪観音 (写真下左端) - 如意輪観音の後ろにもう一つ如意輪観音があった。1732年 (享保17年) に仏門に入った造立され、舟形の石塔に、輪王座の如意輪観音坐像が浮き彫りされている。
  • 延命地蔵 (写真下左から2番目) - 1740年 (元文5年) 造立の延命地蔵菩薩で右手に錫杖、左手に宝珠を持っている。
  • 六十六部巡礼塔 (写真下右から2番目) - 1766年 (明和3年) 造立され、隅丸角柱形の石塔に阿弥陀三尊 (主尊:阿弥陀如来、脇侍:観音菩薩、勢至菩薩) を表す梵字及び「天下和順 日月清明」、「奉納大乗妙典六十六部日本廻国中供養」と文字が刻まれている。
  • 禅定門、禅定尼霊碑 (写真下右端) - 禅定門と禅定尼の霊碑になり、龍光禅定門 明和2年 (1765年)、梅心禅定尼 宝暦3年 (1753年) と正面に刻まれている。


中閏戸

中閏戸は上閏戸村と貝塚村の南にあり、元荒川の右岸、綾瀬川左岸に位置する。西は同川を境に足立郡小貝戸と柄山村 (現伊奈町)、南は下閏戸村に面している。かつては閏戸郷に属した。江戸時代には岩槻藩領で、1689年 (元禄11年) に閏戸村は上閏戸村、中閏戸村、下閏戸村、貝塚村、根金村、根金新田村の6つの村に分かれた。明治7年に上閏戸村、中閏戸村、下閏戸村の三か村が合併して再度、閏戸村が成立している。明治22年に閏戸村、貝塚村、蓮田村が合併して南埼玉郡綾瀬村が誕生し、旧閏戸村は大字閏戸となった。その後、綾瀬村は昭和9年に綾瀬町に名称変更し、昭和29年に平野村と黒浜村戸合併し蓮田町となり、昭和47年に蓮田市となっている。この期間に大字閏戸として行政区は変わっていない。


庚申塔 (22番)、六十六部日本廻国中供養塔

養牛寺の東側の道を北に進み中閏戸に入る。道沿いの吹上庚申塔前のバス停の横に二つ石塔が雨よけのひさしの中に置かれている。向かって右のものは庚申塔 (22番) で1789年 (寛政元年) に中閏戸邑惣村講中によって人捜しの願を掛けるために造られ、山角柱の上部に瑞雲を伴う日輪、月輪が浮き彫りされ、その下に庚申塔の文字が刻まれている。その隣には
廻国巡礼記念碑として1777年 (安永6年) 造立の隅丸角柱状の六十六部巡礼塔が置かれている。阿弥陀三尊を表す梵字、「天下和順 日月清明」、「奉納大乗妙典六十六部日本廻国中供養」と文字が刻まれている。

馬頭観音 (6番) (不明) 

資料にある馬頭観音 (6番) を地図に従って探すのだが見つからなかった。ちょうど国道122号線沿いなので、道路工事などで移設されてしまったのかも知れない。この罰観音は1915年 (大正4年)に造立され、駒角柱形の石塔に「馬頭観世音」の文字が刻まれているそうだ。


牛頭観音 (9番)

庚申塔 (22番) のすぐ西側、東北新幹線を潜った所に、1950年 (昭和25年) 造立の駒角柱形の牛頭観音があり、「牛頭観世音」の文字が刻まれている。死んだ牛の供養に建立されたもの。

馬頭観音 (3番) 

1918年 (大正7年) に死んだ馬の供養のため
隅丸角柱形の馬頭観音を造っている。「馬頭観世音」の文字が刻まれ、正月に注連縄を張り、お供えをして拝んでいるそうだ。

牛頭観音 (8番)

ここにも牛頭観音が置かれている。閏戸には幾つもの牛頭観音が見られる。先程訪れた養牛寺も牛に関連した寺だったのだろうか?
この牛頭観音は比較的新しく、駒角柱形の石塔に牛頭観世音の文字、1942年 (昭和17年)、7月16日、1949年 (昭和24年) と二つのの年月日が刻まれている。一頭ではなく、ニ頭の牛の供養をしているのだろう。正月にお供えをして拝んでいるそうだ。

薬師堂

牛頭観音から西の閏戸久伊豆神社のある見沼代用水方面に向かう道の途中に薬師堂がある。薬師堂に入ると、両側は墓地になっており、六地蔵 (写真右中) が置かれている。六地蔵の前には1841年 (天保12年) に奉納された社寺型手水鉢 (写真右下) が置かれ、六地蔵の脇には二体の地蔵尊がある。その一つは造立時期は不明だが、この世の生きとし生けるものすべての霊を供養するための三界万霊塔 (写真左上) で右手に錫杖、左手に宝珠を持つ地蔵菩薩になっている。台石には「有禄無禄三界万霊」の字が刻まれている。地元では横に建てられた六地蔵の親と考えられており、親地蔵と呼ばれている。また、子どもの成長を願って建立されたとも伝わっており、いつしか子育地蔵として祀られている。
  • 光明真言供養塔 (写真下右端) - 1860年 (万延元年) に中閏戸村講中により、罪業消滅を祈願して光明真言読誦記念碑として造立された光明真言供養塔で、山角柱形の石塔に胎蔵界大日如来を表す梵字(アーンク)を中央に置く光明真言曼荼羅が線刻され、「天下泰平 五穀豊饒 郷中安穏 諸人快楽 奉唱念光明真言供養塔」の文字が刻まれている。
  • 光明真言供養塔 (写真下右から2番目) - その隣にも、1835年 (天保6年) に観音経講中により、罪業消滅を祈願し建てられた光明真言供養塔で山角柱形の石塔に胎蔵界大日如来を表す梵字 (アーンク) を中央に光明真言曼荼羅が線刻され、「天下泰平 日月清明 光明真言供養塔」の文字が刻まれている。
  • 敷石供養塔 (写真下左から2番目) - 1865年 (慶応元年) に建てられた敷石供養塔で、山型角柱状の石塔に、胎蔵界大日如来を表す梵字 (アーンク)、敷石供養塔の文字が刻まれている。
  • 観世音供養塔 (写真下左端) - 1805年 (文化2年) に中閏戸邑中により造立された観世音供養塔で、隅丸角柱形の石塔に輪王座を組む如意輪観音菩薩坐像が浮き彫りされ、「観世音供養」の文字が刻まれている。
墓地の先に薬師堂本堂が置かれている。
敷地内の無縁塔には多く江戸時代の仏石塔が置かれている。多くは仏門に入った男女の禅定門と禅定尼の供養塔だった。
境内の隅にも禅定門と禅定尼の供養塔があった。

閏戸久伊豆神社

薬師堂から見沼代用水に進み、用水沿いに農作の神、水の神の大国主神 (大己貴命) を祀る久伊豆神社があった。蓮田市各地にある久伊豆神社も閏戸村にもあり、村の鎮守として信仰されていた。
閏戸久伊豆神社は、創建年代などは不詳だが、かつては二社あり、旧122号道を挟んで「東の宮」、「西の宮」が向き合い祀られていた。古く旧騎西町 (現在は加須市) の久伊豆社 (現在の玉敷神社) を勧請したと伝わっている。明治9年に村社に列格、明治41年に「東の宮」を合祀し、明治43年にかけて地内の9社を合祀している。昭和20年には合祀されていた上閏戸の愛宕神社と下閏戸の伊夜彦神社は旧社地に戻されている。現在の久伊豆神社はかつての西の宮になる。1月1日の元旦祭、5月5日の春期祭が行われている。春期では「お獅子様」が登場し無病息災が祈願されている。
境内には、1784年 (天明4年) 奉納の社寺型手水鉢の奥に境内末社の二つの祠が置かれている。三嶽社と疱瘡神社になる。
境内には幾つかの記念碑 (写真中) も置かれている。1800年 (寛政12年) に中閏戸村講中により寄進された「奉納 力石 三十二〆目 (約120kg)」の文字が刻まれている。その他、「奉納 力石 二十六〆目 (約97.5kg)」、「奉納 力石 二十八〆目 (約105kg)」と刻まれたもの、重量など不明な物、4つの力石 (左上) が置かれていた。その他古い石造物としては、1784年 (天明4年) の社寺型手水鉢 (中) があった。この神社には狛犬がないのだが、かつては狛犬があったのだろう、境内の隅に石の獅子頭 (右上) が四体残されていた、西の宮と東の宮其々2体づつなのだろう。地面に横たわっている石塔があるのだが、これは「大山道」と文字が刻まれた道標 (右中) で、かつては閏戸の国道122号線とバイパスとの合流点に置かれていた。


上閏戸村

蓮田台地の中央部にあり、元荒川の右岸、綾瀬川の左岸に位置する。西は同川を隔てて足立郡大針おおばり村 (現伊奈町)、南は中閏戸村。江戸時代には岩槻藩領で、1689年 (元禄11年) に閏戸村は上閏戸村、中閏戸村、下閏戸村、貝塚村、根金村、根金新田村の6つの村に分かれた。明治7年に上閏戸村、中閏戸村、下閏戸村の三か村が合併して再度、閏戸村が成立している。明治22年に閏戸村、貝塚村、蓮田村が合併して南埼玉郡綾瀬村が誕生し、旧閏戸村は大字閏戸となった。その後、綾瀬村は昭和9年に綾瀬町に名称変更し、昭和29年に平野村と黒浜村戸合併し蓮田町となり、昭和47年に蓮田市となっている。この期間に大字閏戸として行政区は変わっていない。


堤外公園

久伊豆神社の北側の見沼代用水沿いに堤外公園がある。まだ桜が咲いており、ここで昼食を取る。

馬頭観音 (16番)、六十六部供養塔

見沼代用水沿いを上流方面に進んだ五庵橋を西に渡った所にこんもりした場所があり、そこに馬頭観音 (16番) があった。1696年 (元禄9年) に建てられたものだが、見沼代用水の改修時に今の位置に移設されている。舟形の石塔に三面六臂の馬頭観音立像が浮き彫りされて、脇には「念仏供養 無上菩提」と刻まれている。馬頭観音の隣には六十六部巡礼塔も置かれている。1764年 (宝暦14年) に造立された隅丸角柱形の石材に「天下和順 日月清明」「六十六部供養」の文字が刻まれている。龍神にまつわる伝説があるそうだ。

巡礼社、大山街道

馬頭観音 (16番) から畑に向かって道が伸びている。この道はかつての大山街道の一つで、民間の側、道沿いに巡礼社と刻まれた自然石形の石塔が置かれていた。写真を撮っていると近所の人が近づいてきて、この塔の由来を話してくれた。この大山道が中閏戸と上閏戸の境で、江戸時代にこの大山街道を通っていた巡礼の若い娘と母親がこの場所で夜盗に間違われて殺され、村人は先程の馬頭観音 (16番) がある塚に墓を建てて手厚く葬った。明治時代になって、この殺人現場にあった大木をここの住民が村人の反対を押し切り、切り倒したところ、それ以降、この家には不幸が続いたという。そこでこの場所に1896年 (明治29年) に供養塔を建てて慰霊を行ったそうだ。今でも彼岸と盆には線香と花を供え拝まれている。

庚申塔猿田彦大神 (23番)

道を戻り、五庵橋を東に渡った所に庚申塔 (23番) が置かれていた。この庚申塔は1831年 (天保2年) に女人講により造立されたもので、通常の青面金剛像ではなく神道系の「猿田彦大神」の文字が刻まれた珍しいものになる。山角柱の上には瑞雲を伴う日輪、月輪、台石には三猿が浮き彫りされている。また、本体左側面には「此方 橋渡り左 志おんじ二里 かすかべ三り余 原市一り半 上を一り半余 大■三り余」、右側面には「橋渡り右 此方 お希川二里 まつ山六り かふのす三里余 久喜二里 さって三り余 すぎ戸三里」とかなり詳しく刻まれている。背面には「雲ハつき これぞ末代 村中の 阿くまをそとへ 猿田彦 道行く人も 鼻高こふして」と歌が詠まれ、凝った造りになっている。

庚申塔 (25番) 

庚申塔猿田彦大神から道を国道122号線蓮田岩槻バイパスに向かう。上閏戸と中閏戸の境界は入り組んでおり、その境界線に庚申塔 (25番) があった。造立時期は文字が摩耗して元?年としか残っていないのだが、多分、元文年間 (1736~1741年) なのだろう。櫛角柱の庚申塔は珍しく前掛けが掛けられている。地蔵尊では一般的なのだが、庚申塔では初めて見た。石塔には瑞雲を伴う日輪月輪が線刻され、餓鬼を踏みつけた六臂の青面金剛立像、二鶏三猿が浮き彫りされている。この庚申塔では、捜し物の願を掛け、見つかったら白い布に文字を入れて奉納するそうで、庚申塔の性格より地蔵尊の扱いの様に変わっている。それだけ、住民に大切にされているのだろう。

牛頭観音 (7番)

国道を東に渡った路地沿いにも牛頭観音が置かれていた。1942年 (昭和17年) に死んだ牛のために建立されたもので、山角柱に「牛頭観世音」の文字が刻まれている。

子育地蔵、雷電宮

牛頭観音の北側には祠の中に子育地蔵が祀られている。1740年 (元文5年) に村内の子どもの成長を願って建てたと伝わっており、舟形の石塔に地蔵菩薩立像が浮き彫りされている。子育地蔵の前には小さな祠があり、中には1841年 (天保12年) に雷除け、氷風除け、豊作を祈願して避雷の神の雷電宮が祀られている。落雷により亡くなった旅の親子の供養のため建てたと伝わっており、毎月8日に水、酒、お茶を供えているそうだ。

道祖神

国道122号線を西側に渡り、史跡巡りを続ける。先程訪れた庚申塔 (25番) の北側には道祖神を収めた祠が畑の道沿いに置かれている。埼玉県は比較的道祖神が多く残っているのだが、蓮田市ではあまり見かけない。この道祖神の駒角柱形石塔は途中で折れて欠損してはいるが、1886年 (明治19年) と造立年を刻んだ部分は残っている。地元では「道六神」と呼ばれ、足の悪い人が参拝し、治るとわらじを奉納するそうだ。道祖神は元々は村の境界に置かれ、外からの悪霊から村を守る役割なのだが、時代と共にその性格はここの道祖神の様に変化している。

愛宕神社

道祖神の北側、国道122号線のすぐ西には愛宕神社があり、境内の馬場には上閏戸自治会 (昭和60年建設) が置かれている。上閏戸の中心地だったのだろう。この閏戸愛宕神社は、この後訪れる秀源寺の僧が愛宕明神を宝永年間 (1704-1710年) に祀り創建したと伝えられ、秀源寺持ちだった。1897年 (明治30年) に愛宕神社は秀源寺と共に焼失したが、その後再建されている。1910年 (明治43年) に政府の方針で閏戸久伊豆神社を含め閏戸村にあった10社を合祀したが、1945年 (昭和20年) に元のこの地に戻し再建している。馬場から階段がある木深い林に覆われた盛り土の上に社殿が鎮座し、その中の本殿には、白幣一体を奉安されている。
境内には、本殿の左手に1878年 (明治11年) に切妻角柱石材に稲荷社の文字を刻み祀られた稲荷明神 (写真左上中)、右手には同じ年に造立され、水守護、家内安全、商売繁盛を祈願し、寄棟角柱に「辨天社」の文字が刻んだ弁天 (右上中) の石祠がある。また、1790年 (寛政2年) に奉納された手水鉢の横には力石 (右下) も置かれている。
馬場では舞台を併設し、10月14日の秋祭りには秀源寺の僧がこの愛宕神社を創建した際に五能三羽の舞を復活したと伝わる「閏戸の式三番」が奉納される。国選択無形民俗文化財・県指定無形民俗文化財に指定されている。式三番は、猿楽に古くから伝わる儀式的な曲で、能楽の翁から起こったともいう。初期には初めは父尉、翁 、三番猿楽(のちの三番叟) で演じられ、室町時代以降は千歳、翁、番叟の三人による、豊年を祝い、繁栄を祈るというめでたい舞で、白い面の翁と千歳と、黒い翁面をつけた三番叟とが、次々に舞いを披露する。はじめに、翁が出て儀礼的、呪術的な舞を行い、その後に三番叟が、くだけた調子で面白く演じ、わかりやすく説明という運びになる。

秀源寺

曹洞宗寺院の鷲林山等泰院秀源寺の創建年代等は不詳ながら、中世に大本山總持寺五院の内、普蔵院開山で峨山 (1275~1365年) の五哲と称された太源宗眞禅師 (1370寂・總持寺三世)の大道場として開かれ、大源派の蒼梧寺と称していた。その後、火災によって全山を焼失し廃寺同様となっていたが、江戸時代始めには、この附近の小室、鴻巣を領していた伊奈備前守忠次の家人の富田吉右衛門(慶長19年1614年寂) が、主人忠次(慶長15年1610年寂) 追福のために再興し、忠次を中興開基とし、本寺であった秩父郡下吉田の清泉寺第二世長山賢道に請うて中興開山とした。この時に主人忠次の法諡鶴林院秀譽源長居士より秀源寺と改号している。1897年 (明治30年) に秀源寺は愛宕神社と共に焼失したが、後に再建されている。
境内には本堂 (写真上)、鐘楼 (左中)、観音堂 (下)、白山社 (右中) が置かれている。
本堂の裏手にには落ち着いた雰囲気の竹林がある。そこへの通路沿いには馬頭観音 (資料には記載なし) と1751年 (寛延4年) 造立の石仏が置かれていた。

桟俵地蔵

秀源寺の裏門から墓地に入る。そこには三界万霊塔の桟俵地蔵が残っている。1713年 (正徳3年) に造立されたもので、右手に錫杖、左手に宝珠を持つ優しい顔の地蔵菩薩立像になる。立像背面に「三界万霊」の文字があることから、この世の生きとし生けるものすべての霊を供養するために建てられたものと考えられている。地元では「桟俵地蔵」と呼ばれ、夜中に桟俵を頭に乗せて誰にも見られずに願を掛けると願が叶うといわれて言われ、特に疳の虫に効くとのこと。

久伊豆橋

秀源寺からすぐ西を流れる見沼代用水にかかる久伊豆橋に向かう。このすぐ近くに上閏戸の久伊豆神社があった事から久伊豆橋と呼ばれている。

馬頭観音 (2番)、庚申塔 (20番)、弁天、力石

久伊豆橋を渡った所に祠と石塔が三つと力石が置かれている。何もこの場所から北東10mにあった久伊豆神社が焼失した際に移設されている。資料ではここでいう久伊豆神社についての記述は見当たらなかったのだが、かつては久伊豆神社は各村にあり、現在の蓮田市の地域には14程あったとされている。その後、上閏戸村、中閏戸村、下閏戸村が合併し閏戸村になった後、政府指導で一村一社となり、上閏戸の久伊豆神社は閏戸久伊豆神社に合祀されたと思われる。ここにある祠はその名残とも思われる。(次回訪問した際に確認したい)
  • 馬頭観音 (2番) - 大正時代 1917年 (大正6年) 造立の駒角柱に馬頭観世音の文字が刻まれている。
  • 庚申塔 (20番) - 1731年 (亨保16年) 造立の笠付角柱の上部に瑞雲を伴う日輪、月輪、その下に餓鬼を踏みつけた青面金剛立像、二鶏三猿が浮き彫りされている。
  • 弁天 - 1836年 (天保7年) に水守護、家内安全、商売繁盛を祈願して駒角柱形石塔が造立され、弁財尊天と文字が刻まれている。
  • 力石 - 三つの石塔の横には1774年 (安政3年) に久伊豆神社に上閏戸村中により奉納されたもので「奉納 力石二拾五貫目 (約94Kg)」と刻まれている。

馬頭観音 (1番) 

見沼代用水を少し上流に進んだ所にも馬頭観音がある。1942年 (昭和17年) に造立された馬頭観音で駒角柱に「出征馬頭観世音」と刻まれている。「出征」と書かれたものは初めて見る。これは戦時中に日本軍に供出した馬 (鹿毛の玉水号7歳、栗毛の松井号5歳) の供養で建てられたもの。正月と祝い事のあったときに、注連縄を張り、餅をお供え拝んでいるそうだ。


旧閏戸村の史跡巡りは終了、次に隣の貝塚地域に移動する。貝塚地域の訪問記は別途。



参考文献

  • 故郷歴史探訪 (1992 中里忠博)
  • 蓮田市地名誌 (1992 中里忠博)
  • 蓮田の歴史 (2015 中里忠博)
  • 蓮田の歴史をしろう (中里忠博)
  • 蓮田市史・石造物調査報告書一覧
  • 蓮田市史 通史編 I (2002 蓮田市教育委員会)

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