埼玉県 (11/04/23) 蓮田市 (7) 黒浜地域 江ヶ崎

黒浜地域 江ヶ崎

天神台 (てんじんだい)

  • 馬頭観音 (3番)
  • 稲荷神社/天神

寺前 (てらまえ)

  • 庚申塔 (12番)
  • 保福寺
  • 庚申塔 (13番、14番、15番、16番)
  • 地蔵菩薩
  • 白蓮寺
  • 庚申塔 (未登録)

江ヶ崎馬場 (えがさきばんば)

  • 江ヶ崎城跡
  • いぼとり地蔵尊
  • 螺 (たにし) 不動尊
  • 稲荷明神 

后側 (ごがわ)

  • 馬頭観音 (4番)
  • 道標
  • 馬頭観音 (5番)、地蔵菩薩 (9番)
  • 不動明王

前側 (まえがわ)

  • 江ヶ崎久伊豆神社
  • 秋葉神社
  • 経典読塔
  • 馬頭観音 (6番)
  • 弁財天
  • 浅間神社/馬頭観音 (未登録)
  • 道標

黒浜地域江ヶ崎

江戸時代、明治時代前半まではこの地域は江ヶ崎村で独立した村だったが、1889年 (明治22年) に町村制施行より黒浜村、城村、南新宿村、笹山村、江ヶ崎村が合併し南埼玉郡黒浜村が誕生。江ヶ崎村は(新)黒浜村の大字江ヶ崎となった。1954年 (昭和29年) に蓮田町に黒浜村、平野が編入され、1972年 (昭和47年) に現在の蓮田市になってからは旧江ヶ崎村は大字江ヶ崎となっている。

大字江ヶ崎の人口推移は下のとおり。1986年に人口はピークに達し、それ以降は減少となり現在もその傾向は続いている。


資料に記載されている江ヶ崎の寺社仏閣や民間信仰の塔は以下の通り
  • 仏教寺院: 保福寺 (寺前)、白蓮寺 (寺前)、螺不動尊 (江ヶ崎馬場)、
  • 神社: 稲荷神社 (天神台)、久伊豆神社 (前側)、稲荷明神 (江ヶ崎馬場)、浅間神社 (前側)
  • 庚申塔: 5+1基  馬頭観音: 4+2基


江ヶ崎 訪問ログ


旧南新宿村の地域から東北自動車道を東に越えて、旧江ヶ崎村に入る。江ヶ崎を北から南にかけて史跡を巡って行く。



天神台 (てんじんだい)

江ヶ崎の北西の地域は天神台という地域になる。自治会も置かれているので昔からこの地に集落があったと思う。

馬頭観音 (3番)

江ヶ崎の北西の端、白岡市実ヶ谷との境界線の道路沿いに馬頭観音 (3番)がある。 1814年 (文化11年) 造立の駒角柱形馬頭観音で、正面には馬口印を結ぶ六臂の馬頭観音立像と蓮華座が浮き彫りされている。地元では「白楽様」と呼ばれ、正月に注連飾りをつけ拝まれている。

稲荷神社

馬頭観音 (3番) の南に稲荷神社がある。境内は広いのだが、ここには記念碑など拝殿と本殿が一緒になった社殿が置かれている。この神社についての情報はなく、その由緒などはわからない。この地域は天神台地区になり、戦前まではこの南側に集落があった。天神台地区にある神社はここだけなので、この稲荷神社は天神台の鎮守だったと思う。
境内、稲荷神社社殿の横に祠があり、その中には末社として1846年 (弘化3年) に造られた寄棟破風形の石塔に菅原道真坐像が浮き彫りされた天神を祀っている。2月第1日曜日の初午祭りに「天保九年」と書かれた幟を立て、拝んでいる。この地域が天神台と呼ばれていることから推測すると、この天神は稲荷神社の末社の様な形だが、地域住民には深く信仰されていたと思われる。


寺前 (てらまえ)

天神台の東の地域は寺前という。文字通り、この地域には保福寺があり、戦前まではこの寺付近が集落だった。(保福寺の近くに白蓮寺もあるが、この寺は近年に創建されたもの)

庚申塔 (12番)

保福寺への参道の途中に民家の垣根の中に庚申塔 (12番) がある。この庚申塔は1689年 (元禄2年) に江ヶ崎村庚申講中により造立されたもので、舟形の石塔に六臂の青面金剛立像と三猿が浮き彫りされている。

保安寺

杉の大木の並木道になっている参道を進み保福寺の山門にに到着。

庚申塔 (13番、14番、15番、16番)

山門の前には、かつては江ケ崎村にあったと思われる5つの石塔が移設され並べられている。
  • 庚申塔 (13番 写真中左) - 左端のものは1680年 (延宝8年) とかなり古い庚申塔で、舟形の石塔に六臂の青面金剛立像と三猿が浮き彫りされている。半彫りされていいます。
  • 庚申塔 (14番 写真中中) -1815年 (文化12年) 造立の自然石の石塔で「庚申塔」の文字が刻まれ、台石には三猿が浮き彫りされている。道しるべを併設し、三猿の台座の両脇に「いわつき 志おんじ」、「志やう (ぶ) すぎ (と)」、「はらいち」と記されている。
  • 千手観音 (写真下) - 1803年 (享和3年) に観音経講中によって造立された山形の石塔の上部に千手観音菩薩坐像が浮き彫りされている。側面は道しるべとなっている。
  • 庚申塔 (15番 写真右上) - 1844年 (天保15年) に造られた山角柱形文字型の庚申塔で、石塔上部には瑞雲を伴う日輪・月輪が浮き彫りされている。
  • 庚申塔 (16番 写真下) - 1777年 (安永6年) 造立の笠付角柱形の石塔に六臂の青面金剛が浮き彫りされ、側面には「右せうぶ道 左いわつき道」、「右志おんじ道 左はらいち道」と記され道しるべも兼ねていた。
保福寺は禅宗曹洞派の寺院で、上州館林善長寺の末洞谷山と称え、開山は章山周文として、1533年 (天文2年) に、本尊として正観音を安置して創建されている。境内の鐘楼と鐘は元々は宝暦年間に造られ残っていたのだが、第二次世界大戦中に軍に提供され、その後、新たに鋳造されている。本堂は度々の火災で焼菅し、現在の本堂は新しく建てられたもの。
墓地入り口に5つの石塔が置かれている。
  • 聖観世音菩薩 (写真左下) - 向かって左から2番目の石仏はかなり摩耗が進んでいる。造立時期は不明。両手で蓮華を持つ像形から聖観世音菩薩立像と考えられるが、頭部は地蔵の頭と替わってしまっているそうだ。
  • 百万遍供養塔 (写真下右から2番目) - 経典読誦記念の目的で1757年 (宝暦7年) に造立された隅丸角柱形石塔に「南無阿弥陀仏」の六字名号と蓮座が刻まれている。
  • 六十六部巡礼塔 (写真右下) - 右端の笠付角柱形石塔は1781年 (天明元年) に造立された六十六部巡礼塔で、「奉供養六拾六部十人満願為二世安楽」と刻まれている。
墓地の入り口には必ずある六地蔵も置かれれおり、その隣には資料で紹介されていた地蔵菩薩が置かれていた。造立時期は不明だが、紹介されているので、それなりに古いものだろう。墓地内にも古い石仏や石塔が置かれている。

白蓮寺

保福寺の東側近くに日蓮宗妙親山白蓮寺がある。この寺は近年に創建されたもので、さいたま市にある東永山妙行寺の別院として2001年 (平成13年) に建立され、2008年 (平成20年) には「白蓮寺」として法人格を取得している。新しいお寺だけあり、境内はデザインタイルが敷き詰められて、モニュメントなどが置かれている。

庚申塔 (未登録)

白蓮寺の境内の一画に祠があったが、何を祀っているのかはわからなかった。その隣には庚申塔が置かれていた。1843年 (天保14年) の造立されたもので、角柱の正面に庚申塔と刻まれている。


江ヶ崎馬場 (えがさきばんば)

寺前の南側は江ヶ崎馬場と呼ばれる地域になる。

江ヶ崎城跡

白蓮寺から道を南に進み、県道154号に交わる所に、江ヶ崎城跡の案内板が置かれている。
江ヶ崎城は鎌倉時代に築城されたと考えられ、鎌倉時代後半の館跡として市内に唯一残るもので、1958年 (昭和39年) には埼玉県指定史跡となっている。当時の武蔵野国には武蔵七党 (横山党、猪俣党、野与党、村山党、西党、児玉党、丹党) の大きな武士団がおり、その一つの野与党が埼玉郡 (県東部) の村々を治めていた。野与党の本拠地は明確にはなっていないが、白岡と推測され、この江ヶ崎城は小久喜を拠点にした鬼窪 (南鬼窪) 氏の支城と考えられ、小久喜、白岡、城、黒浜、実ケ谷、江ケ崎を治めていた。
伝承では、新羅三郎義光 (1045 ~ 1127年) 本人かその子孫や家臣、または鬼窪小四郎行観が城主であったとも言われている。この中で、野与党の鬼窪氏が築城した説が有力視されている。鬼窪氏は野与基永の嫡子である行基の子の六郎定綱が鬼窪氏を名乗り初代で、源頼朝に仕えていた。1352年 (正平7年、観応3年) の観応の擾乱で足利尊氏が弟直義追討のため関東へ下向した際、高麗、渋江氏などと共に鬼窪弾正左衛門尉入道、鬼窪又太郎左近将監が宗尊将軍 (後嵯峨天皇の皇子) に随兵している。江ヶ崎城主鬼窪尾張守繁政もその末裔と伝えられている。城は長く維持され続け、戦国期まで使用されていたと考えられる。現在ではその主郭はみずほ団地建設で住宅街となり、破壊され遺構はほぼ残っていない。
みずほ団地が造成される前、1957年 (昭和32年) と1958年 (33年) に学習院大学史学部が中心となって発掘調査が行われている。内郭 (本丸) は東西60m、南北67mの方形で、南側に入口があり、周囲を高さ1.5mの二重、一部三重の土塁と幅4.5m深さ1.8mの薬研堀で囲まれ、外郭は東西165m南北130mのほぼ方形で一部堀が認められている。鎌倉時代、室町時代の陶磁器、土器、釘、武具などが出土している。

いぼとり地蔵尊

江ヶ崎城跡の案内板の横に螺 (たにし) 不動尊への参道がある。参道脇には地蔵菩薩が祠の中に安置されている。この地蔵はいぼとり地蔵尊と呼ばれており、この地を支配してきた村おさが村の人々のまよいや不安を取り除くために造立したと伝えられている。
戦前までは江ヶ崎馬場の集落はこのあたりにあった。

螺 (たにし) 不動尊

参道を奥に進むと入口手前には、子孫繁栄の祈願の男性器を模した石棒が置かれている。入口を入ると于堂が建てられている。この于堂の裏手が江ヶ崎城跡のみずほ団地が広がっている。この螺不動尊は越後の菅谷不動 (新潟県新発田市) からこの地に建立したといわれている。一説では幸手の螺不動尊をこの地の人々のために建立したともいわれている。建立後、ある夜に不動尊の隣家が火事になり、不動尊のお堂に燃え移ろうとしたが危うく火災をまぬがれた。村人が不審に思い、翌朝見にいきますと堂の壁にたくさんのたにしが張り付いて水をふき死んでいた。それからはこの不動尊のことを火防 (ひぶせ) の不動とも呼ばれる様になった言うようになった。幸手の
不動尊にも次の様な言い伝えが残っている。
安政のころ小林善平なる者が眼病になり苦しんでいました。ある夜、成田不動尊が夢枕にたち越後の菅谷不動尊の信心を勧めるので、さっそく越後におもむきお参りしたところ、たちまち眼病が治ったので感激した善平は名主らの協力をえて菅谷不動と成田不動の二つの堂を建立したという。それ以来眼病平癒の不動尊おして近在ばかりでなく遠方からも信者がくるようになった。不動尊の絵馬が奉納されました。火炎のなかにたにしが二つ並んでいる図柄で、この螺のような丈夫な眼をお授けくださいとの願いを象徴したものでした。その後「たにし不動」の名で信仰されました。 たにし不動を信心する人は当時の農村の蛋白源であったたにしを一切口にしなかったそうだ。

稲荷明神 (41番)

江ヶ崎馬場地区の東側は南北に広大な農地になっている。畑の中にポツンと祠が建っている。祠の中には1758年 (宝暦8年) に造立された唐破風形の稲荷明神石塔が置かれている。正月や初午に注連飾り、油揚げ、豆腐、赤飯を供えて拝まれている。この場所で畑を見ながら休憩をしていると、畑の向こうに煙が上がっていた。煙はどんどんを大きく激しくなっている。火事の様だ。


后側 (ごがわ)

江ヶ崎馬場の西側は后側 (ごがわ) と呼ばれる地域になる。この地名の所以は見当たらなかったのだが、后側南は前側 (まえがわ) で江ヶ崎の中心部だった地域がある。后は後ろの意味があるので、江ヶ崎中心地の後ろ側という意味なのだろう。

馬頭観音 (4番)

后側地域の北、天神台に近い所に馬頭観音がある。天神台から保安寺に向かう途中に訪れた。この馬頭観音は1869年 (明治2年) に造られている。自然石形の石材に馬頭観世音を表す梵字「カン」と「馬頭観世音」の文字が刻まれている。正月に、注連飾りと餅を供えて拝まれている。
この地域も躑躅が多く植えられて、綺麗に手入れされている所が多い。

道標 (51番)

后側の南へ進み県道154号線を越えた三叉路に道しるべの駒角柱形の塔があった。元々は文政年間に造立されたのだが、年号を刻む字体と道標の字体とが異なっており、文政年間に蓮田は町ではないため転用されたものと考えられている。正面に「南 岩槻町」、左側面に「東 慈恩寺拾ニ」、右側面に「西 蓮田町」と記されている。

馬頭観音 (5番)、地蔵菩薩 (9番)

道標にある「東 慈恩寺」の道を少し南に進むと馬頭観音 (5番)、地蔵菩薩 (9番) が民家の前庭に置かれている。
  • 馬頭観音 (5番 写真右) - 向かって右側が1811年 (文化8年) に造立され、駒角柱に馬口印を結ぶ馬頭観世音立像が浮き彫りされている。盆に線香を供え拝まれている。
  • 地蔵菩薩 (9番 写真左) - 1799年 (寛政11年) に造られた舟形石塔で両手で宝珠を持つ地蔵菩薩が浮き彫りされている。隣の馬頭観音と一緒に盆に線香が供えられ拝まれている。
この辺りに戦前までは后側の集落があった。

不動明王 (11番)

昔の慈恩寺への道を東に進むと后側の東の端に着く。久伊豆神社のすぐ東にあり、久伊豆神社の後に訪問した。ここに矢島家の墓地がある。この辺りでは矢島家は旧家になり、このすぐ西にある久伊豆神社の神官を代々務めている由緒ある家になる。墓に混じって多くの石仏も置かれていた。その中に、1697年 (元禄10年) に造立された笠付角柱に火焔を纏う不動明王 (写真下) が浮き彫りされている。耳だれ治癒の願をかけ、拝まれていたそうだ。


前側 (まえがわ)


江ヶ崎久伊豆神社

道の先に森が見えてきた。江ヶ崎久伊豆神社の社叢で平成2年に「ふるさとの森」に指定されている。社叢の樹林は、もとは杉が主体だったが、御神木の二本の杉の大木が枯損のために伐採され、現在では、欅、銀杏、椋、樫姫榊 (ヒサカキ) などの雑木や孟宗竹が繁茂している。
道から久伊豆神社に参道にはいる。一ノ鳥居を潜ると社標の板碑が置かれ、大木が並ぶ参道が奥に伸びている。
参道を進むと朱塗りのニノ鳥居がある。潜ると1863年 (文久3年) 奉納の手水鉢、1936年 (昭和11年) 奉納の阿形吽形の狛犬 が置かれている。
参道はまだ奥に伸びており、1863年 (文久3年) 奉納で台石に狛犬が浮き彫りされた石燈籠の向こうに社殿が置かれている。室町時代の1443年 (嘉吉3年) に勧請された蓮田市最古ともいわれる神社で大己貴命 (大国主神) を祭神として祀っている。江ヶ崎久伊豆神社は室町時代の1443年 (嘉吉3年) に勧請され、その後、1563年 (永禄6年)、別当寺として太雲山南学院が開基し、神仏混交の形で神社の祭祀を司ってきた。江戸時代、1757年 (宝暦7年)、神祇管領 (卜部兼雄) より久伊豆大明神幣帛を拝受している。1868年 (明治元年) の神仏分離令で国家管理の神社となり、1946年 (昭和21年) に宗教法人となっている。社殿は幣殿と本殿で構成されている。
境内には天神社の祠が置かれ、菅原道真を祀っている。
5つの石塔も置かれている。向かって左端から見ると
  • 天神 (写真右上) - 造立時期は不明だが切妻唐破風形石塔に菅原道真坐像が浮き彫りされている。
  • 不明
  • 庚申塔 (未登録 写真下左から2番目) 
  • 弁天宮
  • 坂東、四国、秩父百箇所供養塔
となっている。
境内の木の根元に三つの力石石が残されている。それぞれは、宝永年間の三十二〆目 (約120kg)、1833年 (天保4年) の三十二〆目 (約120kg)、江ヶ崎村氏子と刻まれた三つ。

秋葉神社

久伊豆神社参道の脇、北側には秋葉神社と八坂神社を合祀した社殿があり、各々が火防開運の神の火之迦具土大神 (ひのかぐつちのおおかみ)、疫病消除の神の素戔嗚尊 (すさのをのみこと) を祀っている。


経典読誦塔

久伊豆神社から南側への道沿いには1811年 (文化8年) に造立された経典読誦記念の山角柱形の塔が置かれ、「釈迦如来奉読誦法華経三千五百部記塔」の文字が刻まれている。

馬頭観音 (6番)

経典読誦塔のすぐ南の道沿い民家の前には1910年(明治43年) に造られた駒角柱形の馬頭観音があり、塔には「馬頭観世音」と文字が刻まれている。

弁財天

久伊豆神社から、矢島家の墓地を過ぎて、東側、道沿いには、江戸時代 1818年 (文化15年) に水守護、豊穣を祈願して造られた切妻唐破風形の石塔が置かれ、弁財天が浮き彫りされている。正月に供物を供え拝まれているそうだ。

浅間神社、馬頭観音 (未登録)

弁財天から道を更に進むと、道沿いに小さな丘がある。そこには鳥居と石造りの祠が置かれている。浅間神社で、この神社は富士山本宮浅間神社を勧請したもので、富士講の富士塚などが造られていることが多いので、この丘も富士塚かも知れない。塚の下には二つの石塔が置かれている。文字型の石塔には「馬頭観音」と明治十■と刻まれている。その隣の塔には仏像が浮き彫りされている。その形は今まで見てきた馬頭観音像と似ているので、馬頭観音だろう。

塚の上には2基の石碑がある。向かって左の石碑には浅間大神と刻まれ、1921年 (大正10年) に造率されたもの。その隣のものは1842年 (天保13年) に建てらえたもので、正面には「小御嶽石尊大権現 小天狗 大天狗」と刻まれ、裏には造率年月日と〇講中とある。甲虫の名前ではなく印が刻まれている。多分この辺りの富士講のものだろう。


道標

前側地区内の東と南は一面田畑になっている。そろそろ日が暮れる時間が迫ってきているので、田畑の中の道を通り、帰路に着く。畑の中の道に道しるべの櫛角柱形の石塔があった。江戸時代 1751年 (寛延4年) に建てられたもので、正面に「沿是東 岩槻通道 慈恩寺道」、左側面に「右 きさいみち」、右側面に「左 かうのすみち」と刻まれている。ここを通っている道は江戸時代から街道だったことが判る。


これで予定していた江ヶ崎の史跡巡りは終了。田んぼの道を通り、今日の訪問記の編集作業をする蓮田市内のショッピングセンターに向かう。

帰路の途中に畑の中で餌を探している雉に遭遇。


参考文献

  • 故郷歴史探訪 (1992 中里忠博)
  • 蓮田市地名誌 (1992 中里忠博)
  • 蓮田の歴史 (2015 中里忠博)
  • 蓮田の歴史をしろう (中里忠博)
  • 蓮田市史・石造物調査報告書一覧
  • 蓮田市史 通史編 I (2002 蓮田市教育委員会)

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