練馬区 17 (15/07/23) 上石神井村 (1) 上石神井
上石神井村 上石神井
- 比丘尼塚、半六稲荷
- 太田道灌愛宕山砦跡
- 智福寺
- 庚申塔 (登録番号なし)
- 立野の庚申塔 (127番)、出羽三山・百八十八ヶ所観音供養塔
- 田中水車跡
- 丘野橋庚申塔 (126 番)
- 観音山憩の森
- 御嶽神社 (大口真神 観音山講中)
上石神井村
上石神井村には城山、観音山、大門、沼辺、西村、小関 (こぜき)、立野 (たちの)、池淵、出店 (でだな) の小名に分かれていた。
- 城山 - 石神井川南の台地縁辺、上石神井3丁目の早稲田大学高等学院がある場所。城山は大田道灌が布陣し石神井城を攻めて戦勝した出城跡地だった。
- 観音山 - 城山の東の小字で、観音堂が6ヵ所あった事でこう呼ばれていた。
- 大門 - 三宝寺の門前一帯
- 沼辺 - 石神井台2、3丁目付近で石神井川沿いの低湿帯だった
- 西村 - 沼辺の西で石神井台4~6丁目にあたる
- 小関 - 西村の西で石神井台7、8丁目にあたる
- 立野 - 上石神井村の南側、千川上水の北側をいう。「断ち野」から生じた地名で農民の立ち入りを禁じた原野だった。
- 池淵 - は三宝寺池の周辺で隣の下石神井村にまたがっていた
- 出店 - 上石神井1丁目の青梅街道に面したところである。青梅街道が江戸時代中頃になって、武州御嶽詣の人で賑わうようになると、その人たちを相手に茶店などができた。他の地域の店がこの通りに出店を開いた事からそう呼ばれていた。
上石神井
江戸時代、現在の上石神井および石神井台は武蔵国豊島郡上石神井村と呼ばれていた。現在の上石神井の範囲は城山、観音山、立野、池淵、出店 (でだな) 辺りになる。
1889年 (明治22年)、町村制施行で豊島郡石神井村大字上石神井となり、1932年 (昭和7年) に板橋区成立で上石神井一丁目、ニ丁目となり、一丁目が昔のままのこの上石神井、石神井川の北のニ丁目が石神井台になる。1970年 (昭和45年) の住居表示実施により、(旧) 上石神井二丁目のほぼ全域が石神井台一 - 八丁目となり、1978年 (昭和53年) の住居表示実施では、 (旧) 上石神井二丁目の残余の一部 (早実グラウンド周辺) が関町北五丁目に編入されている。更に、1980年 (昭和55年) にも 住居表示が実施され、(旧) 上石神井二丁目の残余の一部が東大泉五丁目3番街区に編入されている。
1927年 (昭和2年) に西武鉄道が開通して、戦前には駅の南から開けていったのがわかる。現在は学校などの公共施設を除き、ほぼ全地域に民家で埋められている。
1984年 (昭和59年) の住居表示実施では、(旧) 上石神井一丁目の一部 (千川通り以南など) が上石神井南町に、関町側の一部が関町南一・二丁目に編入された。1985年 (昭和60年) の住居表示実施では、(旧) 上石神井一丁目の全域、(旧) 上石神井二丁目の残余 (石神井川南岸のきわめて狭小な区域)、(旧) 下石神井一丁目の一部 (井草道り以西など)、関町一丁目、関町二丁目の一部をもって (現) 上石神井一丁目 - 四丁目が成立している。上石神井の南には区内で2番目に小さい上石神井南町がある。古くは下石神井村原久保だった。1932年 (昭和7年) に板橋区へ編入された時もここはまだ 下石神井一丁目の一部だった。
上石神井は昭和の初めに鉄道が開通してから発展しはじめ、人口も増加している。人口増加は高度成長期終わりまで続き、それ以降はほぼ横ばい状態が続いている。近年は微増傾向となっている。
練馬区史 歴史編に記載されている上石神井内の寺社仏閣や民間信仰の塔は以下の通り
- 仏教寺院: 智福寺
- 神社: 半六稲荷
- 庚申塔: 4基 馬頭観音: 2基
まちづくり情報誌「こもれび」- 上石神井
石上神井 訪問ログ
比丘尼塚、半六稲荷
太田道灌愛宕山砦跡
智福寺
庚申塔 (登録番号なし)
立野の庚申塔 (127番)、出羽三山・百八十八ヶ所観音供養塔
田中水車跡
丘野橋庚申塔 (126 番)
観音山憩いの森
御嶽神社 (大口真神 観音山講中)
参考文献
- 練馬を往く (1983 練馬区教育委員会)
- 練馬区史跡散歩 (1993 江幡潤)
- 練馬区の文化財 指定文化財編 (2016 練馬区地域文化部)
- 練馬区史 歴史編 (1982 練馬区)
- 練馬区史 現勢編 (1981 練馬区)
- 練馬の寺院 三訂版 [郷土史シリーズ 3-4] (2004 練馬区教育委員会)
- 練馬の神社 三訂版 [郷土史シリーズ 5] (2006 練馬区教育委員会生涯学習部)
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