練馬区 18 (16/07/23) 上石神井村 (2) 石神井台

上石神井村 石神井台

  • 道場寺
    • 馬頭観音 (78番)
    • 地蔵尊
  • 三宝寺
    • 庚申塔 (118番、119番)、六地蔵
    • 馬頭観音 (72-77番)
  • 氷川神社
  • 庚申塔 (116番) 
  • 稲荷神社、所沢道跡碑
  • 所沢道
  • 地蔵尊
  • ふじ大山道跡碑
  • けやき憩いの森、田柄用水跡
  • 地蔵尊
  • 稲荷神社
  • 地蔵尊
  • 庚申塔 (115番)
  • 小関稲荷
  • 松原閻魔堂
  • 馬頭観音 (103番)
  • 庚申塔 (117番)
  • 金力自在大善神 (10/14 訪問)
  • 稲荷神社の祠 (10/14 訪問)


今日は石神井の最後の地域の石神井台を訪れる。石神井公園には何度も来ており、散歩をするには気持ちの良い公園だ。朝、大泉学園の宿を8時には出たのだが、朝から肌を刺すような陽が照っている。暑い1日になりそうだ。


上石神井村 石神井台

石神井台は練馬区の南西部に位置し、北部を東大泉、東部を石神井町、南部を上石神井、西部を関町北に接している。

旧上石神井村のうち石神井川の北が石神井台になり、武蔵国豊島郡上石神井村は大門、沼部、西村、小関の四つの小名で構成されていた。大門は、御成門と呼ばれた三宝寺の山門に由来し、三代将軍家光は、鷹狩りのたびによく三宝寺で休憩したそうだ。別の説では中世石神井城の大手門に由来ともいう。域内では扇山遺跡 (石神井台4丁目) や、天祖神社東遺跡 (関町北3丁目) などから縄文時代の石棒が発見されているので、太古から人が住んでいた事がわかる。

1889年 (明治22年) に上石神井村は下石神井、谷原、田中、上土支田、関の5か村と合併し石神井村となり、上石神井村はその中の大字となっている。1932年 (昭和7年)、板橋区が成立した際に板橋区上石神井となり、石神井川の南を一丁目、北を二丁目と分けている。

石神井台の民家の分布については戦前まではほとんど変化は見られない。農家がほとんどで、各農家が耕作地の近くに住居を置いていた。戦後、住宅地が広がっていき、現在では公園、学校などの公共施設以外の地域は民家で埋め尽くされている。

1970年 (昭和45年) の住居表示で、上石神井二丁目のほぼ全域がが石神井台 (一丁目 ~ 八丁目) となっている。史跡は現在の一丁目に集中している。1978年 (昭和53年) の住居表示実施では、 (旧) 上石神井二丁目の残余の一部 (早実グラウンド周辺) が関町北五丁目に編入されている。更に、1980年 (昭和55年) にも住居表示が実施され、(旧) 上石神井二丁目の残余の一部が東大泉五丁目3番街区に編入されている。石神井台の発展は戦後からで、人口は高度成長期前半は高い増加率を示し、その後も増加率は低くなったものの継続して増加2000年以降は横ばい状態となっている。


練馬区史 歴史編に記載されている石神井台内の寺社仏閣や民間信仰の塔は以下の通り
  • 仏教寺院: 道場寺、三宝寺、松原閻魔堂
  • 神社: 氷川神社、水神社、厳島神社、穴弁天、稲荷神社 (四丁目)、小関稲荷、稲荷神社 (七丁目)、金力自在善神
  • 庚申塔: 5基  馬頭観音: 9+4基


まちづくり情報誌「こもれび」- 石神井台


石神井台 訪問ログ



道場寺

石神井公園の真ん中南側に曹洞宗の豊島山無量院道場寺があり、釈迦牟尼仏側侍薬師如来聖観音を本尊として祀っている。道場寺由緒は資料により少し異なっているのだが、それによれば、729年の開創で行基作の菩薩作阿弥陀如来の尊像を安置したとある。1253年 (建長5年) には渡来した大覚禅師に拝請し、臨済宗参学の道場となっている。1372年 (文中元年)、石神井城主豊島景村の養子の豊島兵部大輔輝時 (北条高時の孫) が、大覚禅師を招き、領地内の土地を寺に寄附して創建したと伝わる。1477年 (文明9年) に太田道灌が豊島氏の石神井城を攻めた際に、焼失している。その後、北条氏康より1562年 (永禄5年) に寅朱印 (現存) を拝領し山門を興隆したが、北条氏が滅び、寺もことごとく消滅してしまった。1598年 (慶長3年) に開基徳翁和尚は、勝光院二世観堂禅師を招して再建して中興したという。1601 (慶長6年) にそれまで臨済宗だったのを曹洞宗に転宗している。道場寺は武蔵野三十三観音霊場2番札所となっている。1970年 (昭和45年) から1975年 (昭和50年) にかけて、室町様式で建てられて山門を入る。
山門を入った左側には鎌倉様式の三重塔が新築されている。
参道の階段を登った所の奥に本堂がある。天平の往時を偲んで、唐招提寺の金堂を模して1937年 (昭和12年) に改築されたもの。
境内には、安土桃山様式の鐘楼、1996年 (平成8年) に曹洞宗改宗中興400年記念で桂離宮を模して建てられ客殿がある。
道場寺には非公開なのだが、二つの文化財が保存されている。一つは縁泥片岩製板碑 (後列右端) で上部が欠損しているが、中央に阿弥陀如来を意味する梵字「キリーク」が刻まれ、その下に「文応元(1260)十一月日」と陰刻されている。現存する板碑の中では古い部類に属し、練馬区内で出土した板碑のなかで最古のもの。もう一つは北条氏康印判状で1562年 (永禄5年) 4月21日に、小田原城主の北条氏康が鎌倉建長寺の塔頭禅居庵にあて発給した印判状。石神井の道場寺分については、以前と同じく段銭 (たんせん)、懸銭 (かけせん) などいっさいの諸税を免除するとあり、後北条氏代々用いた虎がうずくまるデザインの虎の印判が押されている。練馬区内では現在のところ唯一現存する後北条氏の発給した文書。


馬頭観音 (78番)

道場寺の三重塔の奥に無縁塔があり、頂上に丸彫りの大地蔵菩薩坐像を置いた三界萬霊塔が立っている。その中に馬頭観音がある。立像 1693年 (元禄6年) に造立され、正面には頭部に馬があしらわれ、馬口印を結んだ観音像が浮き彫りされている。舟形光背の右脇に「奉造立馬頭観音像一尊為牛馬佛果□也」と刻まれている。


地蔵尊

道場寺の塀の外、昔の所沢道 (旧早稲田通り) に丸彫の地蔵菩薩が立っている。元々はふじ大山道沿いにあったのを移設したもの。1721年 (享保6年) に造立され、正面には「奉造立地蔵大菩薩」、右面には「下石神井村 講中三十一人 上石神井村 三人」、左面には「江戸 武州豊嶋郡 一蓮托生」と刻まれている。

三宝寺

道場寺の道を挟んで隣には、本尊を不動明王、紅頗梨色阿弥陀仏とする真言宗智山派寺院の亀頂山密乗院三宝寺が置かれている。後小松天皇の時代、1394年 (応永元年) に鎌倉大楽寺の大徳権大僧都幸尊法印が、この近くの小仲原に真言の道場として一宇の浄舎を創建している。1477年 (文明9年) に、太田道灌が石神井城を攻め落とした後に、その城跡のこの地に移転し、1591年 (天正19年) には徳川家康から10石を与えられ御朱印寺となっている。江戸時代には無本寺・独礼の寺格で遇され、塔頭6寺院 (教学院、禅定院、観蔵院、最勝寺、正覚院、薬王院)、末寺は50以上の大寺院だった。明治維新後、神仏分離や寺領上地によって縮小を余儀なくされ、1874年 (明治7年) には火災により堂宇を焼失し荒廃していた。1919年 (大正8年) に本堂再建の計画が作られたが、関東大震災や太平洋戦争の影響で工事は遅れ、本堂落慶は1953年 (昭和28年) になっている。この寺は石神井不動尊とも呼ばれ、関東三十六不動第11番、御府内八十八ヶ所霊場16番、豊島八十八ヶ所霊場16番、武蔵野三十三観音霊場3番の札所にもなっている。
参道に入る進むと山門がある。この山門は将軍家光 (大猷院) が1625年 (寛永2年) と1644年 (正保元年) の鷹狩の際に休息所になったことに因んで、御成門と呼ばれた。通常は門は閉められて、庶民の通行は禁じられていた。現在の門は1827年 (文政10年) に建築されたもの。火災の際にも難を逃れ、三宝寺で現存してい最古建築で、1953年 (昭和28年) に修復され、練馬区登録有形文化財に指定されている。
御成門をくぐり、参道が本堂へと続くが、その左側には1984年 (昭和59年) に建てられた大黒堂兼地蔵堂がある。
本堂は1919年 (大正8年) に再建の計画が作られ、1922年 (大正11年) に着工、1929年 (昭和4年) に上棟されたが、関東大震災や太平洋戦争の影響で工事は遅れ、1953年 (昭和28年) に竣工したもの。前には手水舎がある。
1973年 (昭和48年) に建立された彫刻が施された唐破風屋根の鐘楼の中の梵鐘は1675年 (延宝3年) に江戸増上寺の大鐘を鋳た時にその余銅をもって造ったと伝わっている。
通用門になっている長屋門は墨田区の本所にあった勝海舟邸の表門で、旭町兎月園に移されていたものを、1960年 (昭和35年) に移築している。
長屋門からは本堂への石畳道が伸びており、その右側には正覚院、奥には納経堂が建てられている。
本堂から奥へは回廊があり、1973年 (昭和48年) 建立の奥ノ院大師堂に繋がっている。
本堂から大師堂へは各札所の砂を埋めた四国八十八ケ所お砂場を通っていく事ができる。直接の道もあるのだが、遍路道に入るとショートカットできず、曲がりくねった道を札所を辿りながら進むことになる。
本堂から墓地訪問に階段を登った所には1781年 (天明元年) に造立された寶篋印塔が置かれている。建築当初は御成門近くにあったが、1923年 (大正12年) の関東大震災で倒壊し、1925年 (大正14年) に現在地に移建されている。近くには閻魔大王の石像が二つ置かれている。古いものだそうだ。一つは首から上が欠損していたのだが、今は別の頭がすげ替えられている。通りで違和感がある。
その先には開創600年記念事業として1996年 (平成8年) 建立の木造多宝塔の根本大塔。
その奥には開創600年記念事業で建てられた巨大な平和観音。横には新しく観音堂が建てられている。
三宝寺には非公開なのだが二つの寺宝が保管されている。真言宗における紅頗梨秘法 (罪障消滅を修する法会) の本尊として尊崇されている木像紅頗梨色阿弥陀仏 (写真左 年代不詳) や1472年 (文明4年) の緑泥片岩製の来迎三尊仏画像板碑 (右) には弥陀三尊来迎像が陰刻されている。

庚申塔 (118番、119番)、六地蔵

三宝寺内には2基の庚申塔がある。
  • 庚申塔 (118番) - 本堂前の六地蔵の隣に118番の板駒形庚申塔が並んでいる。駒型の庚申塔で、造立年は1696年 (元禄9年)、下石神井1丁目604番地に置かれていたが、昭和47年にこの地に移設されている。正面には日月、邪鬼を踏みつけた青面金剛像、二鶏、三猿が浮き彫りされている。
  • 舟型光背型の六地蔵は1733年 (享保18年) 造立で、下石神井1丁目の本橋家にあったが、耕地整理が進み住宅が密集してきたため、1960年 (昭和35年) に三宝寺に移されている。
  • 庚申塔 (119番) - 長屋門の前に置かれている板駒型庚申塔で、1700年 (元禄13年) に下石神井道場寺村と上石神井大門村の共同で造立され、正面には日月、青面金剛像、三猿が浮き彫りされている。

馬頭観音 (72-77番)

三宝寺の奥の院大師堂の脇には大量の墓石や石等並んでいる。中には変わったものも置かれている。この中に6基の馬頭観音があるのだが、全部見つかるだろうか?
  • 馬頭観音 (76番 上) - 1908年 (明治41年) 造立の櫛型角柱型文字形馬頭観世音。
  • 馬頭観音 (未登録 下) - 1906年 (明治39年) 造立の角柱型文字形馬頭観音。資料には登録されていない。
  • 馬頭観音 (77番) - 少し奥に進むと自然石で造られた馬頭観世音現がある。造立年は1879年 (明治12年)。
  • 馬頭観音 (未登録 下) - 更に奥にの角柱型文字形馬頭観音があった。情報はなく造立年も不詳。
  • 馬頭観音 (未登録 上) - 奥側の列に背の高い目立つ馬頭観音があった。造立年は1780年 (安永9年)。正面に南無馬頭観世音菩薩と彫られている。
  • 馬頭観音 (未登録 下) - 馬頭観音の中で観音造立は彫られたのが一つだけある。1754年 (宝暦4年) 造立の六臂馬頭観音現在浮き彫りされている。
残念ながら、資料のだが六つの馬頭観音の内下の三つの馬頭観音は見つからなかった。この三つは色々な資料でも探したのだが、載っていなかった。写真でもあれば探しやすいのだが。ただ、資料に載っていない馬頭観音が四つも見つかった。資料は古く、更新されていないようだ。
  • 馬頭観音 (73番) 1858年 (安政5年) 方形 ひらかな文字
  • 馬頭観音 (74番) 1901年 (明治34年) 自然石 文字
  • 馬頭観音 (75番) 1906年 (明治33年) 方形 文字

石神井氷川神社

石神井公園の南西部には須佐之男命を主祀神、稲田姫命、大己貴命を相殿とする石神井氷川神社が鎮座している。この氷川神社は石神井郷 (谷原、田中、上石神井、下石神井、関の5ヶ村) の総鎮守社だった。現在でも「石神井のお氷川さま」呼ばれている。社伝によれば、室町時代の応永年間 (1394年-1428年) に、この地を拠点に勢力を広げていた豊嶋氏が石神井城の中に城の守護神として、武蔵国一ノ宮である大宮の氷川神社から分霊を奉斎し祀ったのが創まりと伝わっている。1477年 (文明9年) に太田道灌により石神井城が攻略され豊島氏が滅んだ時に現在地に移転した。その後も石神井の鎮守の神として村民に仰がれて続けているいる。現在に至っている。
参道が長く石神井川近くから始まっており、住宅地の中を突っ切っている。参道両脇には燈籠が並んでいる。
鳥居から境内に入ると左側に手水舎、井戸跡があり、拝殿への道には、1920年 (大正9年) に奉納された狛犬が鎮座している。
境内の左手には神田があり、神饌用の古代米を栽培している。境内には社殿に向かい右手には1934年 (昭和12年) に建立された神楽殿、平成31年に完成した各種行事の為の儀式殿がある。
社殿は、本殿・拝殿ともに流造りで、本殿は文政年間の建立と推測され、拝殿は1901年 (明治34年) に落成している。老朽化が著しく、平成元年より境内整備事業により、社務所、幣殿と共に改修されている。平成4年に新社殿が建てられて本殿遷座祭が約150年ぶりに行われた。拝殿前の狛犬は1837年 (天保8年) に寄進されたもの。
社殿の左手には2基の石灯籠が整備され置かれている。左右一対の石灯籠で、いずれも1699年 (元禄12年) に豊嶋氏の子孫、豊嶋泰盈 (やすみつ)、泰音 (やすたか) により奉納されたもの。
この氷川神社には境内末社が祠は二つだが、祭神は多く祀られている。
右側の祠 (写真上) は、三峯神社、阿夫利神社、御嶽神社、浅間神社、榛名神社の合殿となり、左側の祠は八幡神社、御嶽神社、三島神社、須賀神社、稲荷神社、北野神社の合殿となっている。

庚申塔 (116番) 

石神井公園から都道25号線を北西に進む。この都道は旧早稲田通り (所沢道) で、その道の庚申塚交差点に4つの石塔をおさめた覆屋が置かれている。庚申塔が1基、残りは供養塔と燈籠。
  • 右端の燈籠は笠付角柱は、1740年 (元文5年) のもので奉納石燈籠壹基とあり、「武刕豊嶋郡上石神井村 北ハひさをりみち 南ハ多かいどミち」と道しるべを兼ねている。
  • 隣りの背の高い角柱は1734年 (享保19年) 造立の六十六部廻国供養塔。
  • 左から二番目が1692年 (元禄5年) に造立された板状駒型の庚申塔 (116番) で正面には日月、青面金剛像、二鶏、三猿が浮き彫りされている。
  • 左端の舟型の石仏は光明真言供養塔で正徳元年(1711)10月の造立。読誦塔のようである。武刕豊嶋郡上石神井村講中とあり、多数の願主名があるがほとんど本橋姓であった。

稲荷神社、所沢道跡碑

庚申塚交差点から、所沢道を1ブロック西に進んだ所にしいのき児童遊園があり、その中にブロック塀で囲まれた所に稲荷神社の祠置かれている。詳細は不明。又、公園の反対側には所沢道跡碑も置かれていた。

所沢道

所沢道は、八成橋で杉並区から練馬区へ入つ。 禅定院の門前で向きを西に変え、道場寺、三宝寺を通って、富士街道途中交差し、南大泉を経て保谷市に入り、所沢へと通じており、現在の早稲田通りにはあたる。昔は所沢へノ道と呼ばれ、大泉、石神井から、江戸方面への産業の道で、江戸からの参詣、行楽の道でもあった。所沢道と表記される様になったのは書かれたのは大正時代から。関東大震災後、都市計画により名称が「昭和通り」となっている。

地蔵尊

所沢道を進み富士街道と交差する地点に地蔵尊が祠の中に祀られていた。昔の街道沿いに建てられたのだ。

ふじ大山道跡碑

所沢道から富士街道に入るとふじ大山道跡の碑が建っていた。大山への参詣道だった。

けやき憩いの森、田柄用水跡

ふじ大山道跡碑の場所は森が保存されている。けやき憩いの森の公園になっている。ここには1871年 (明治4年) に開削された田柄用水跡の一部を見ることができる。玉川上水から田無用水を経て西東京市で分水され田柄用水として各村へ、 農業用水を引くために開削され、土支田・田柄・北町へ流れていた。昭和30年代には通水が止まり、ほとんどの用水堀は埋められてしまった。この憩いの森内の47mの水路は当時の姿が素掘りのまま残っている。北町から光が丘までは田柄用水緑地になっていたので、そこを走ったのだが、光が丘より西では田柄用水に係るスポットは初めてだ。

地蔵尊

けやき憩いの森の公園の南端外側に地蔵尊が置かれていた。

稲荷神社

ここから南にある新青梅街道に向かい進んだ途中に四辻があり稲荷社が置かれていた。情報は無いのだが、屋敷神として祀られていたのだろう。

地蔵尊

更に地蔵尊を発見。これも情報は無い。

庚申塔 (115番)

新青梅通りに出る。通り沿いに三宝寺が管理する墓地があり、小山の上に庚申塔が建っている。墓地は施錠されていて入ることが出来ないので、柵の外から撮影するのだがスマートフォンなので、望遠機能はなく、庚申塔がよく分からない。インターネットで庚申塔がよく見える写真を拝借 (右下)。1692年 (元禄5年) 造立笠付角柱型の庚申塔で、日月、邪鬼を踏みつけた青面金剛像、三猿、ニ鶏が浮き彫りされている。

小関稲荷

新青梅街道を西に進むと上石神井内の旧小関村の地域に入る。小関稲荷遊園地という小さな公園があり、中に小関稲荷神社が置かれている。

松原閻魔堂

小関稲荷の隣に松原閻魔堂がある。境内に入ると両側に墓地があり、奥には閻魔堂が置かれて、堂内には十王が並び、祀られている。

馬頭観音 (103番)、観音菩薩像

墓地の入口両脇に石仏が並んでいた。右脇南向きには七基の舟形光背型の観音菩薩像がある。七観音は小関村66名の念仏講中が1687年 (貞享4年) から1689年 (元禄2年) にかけて次々と建て加えていったそうだ。
  • 右から十一面観音菩薩立像 1688年 (貞享5年) 造立で、光背上部に梵字「キャ」と刻まれ、正面には十一面観音菩薩立像が浮き彫りされている。
  • 2番目 馬頭観音菩薩立像 (103番) 1687年 (貞享4年) 造立で、光背上部に梵字「カン」その下に、馬頭観音が浮き彫りされている。光背右脇「念佛道行六十六人」その下に小関村と見える。
  • 3番目 観音菩薩立像 1688年 (貞享5年) 造立だが尊名は不詳。光背右脇「念佛道行六十六人」その下に小関村と刻まれている。
  • 4番目 観音菩薩立像 1689年 (元禄2年) 光背右脇には「念佛道行六十六人」その下に小関村とある。
  • 5番目 聖観音菩薩立像 1687年 (貞享4年) 造立で正面に観音菩薩立像が浮き彫りされている。側面には「念佛道行六十六人」その下に小関村とある。
  • 6番目 准胝観音菩薩立像 1687年 (貞享4年) 胸のあたりで合掌。腹のあたりに壺を持ち、光背と合わせて八臂准胝観音菩薩が浮き彫りされ、側面には「念佛道行六十六人」その下に小関村とある。
  • 左端 如意輪観音菩薩坐像 1688年 (元禄元年) 造立で如意輪観音菩薩が浮き彫りされている。光背右脇には「念佛道行六十六人」その下に小関村とある。

馬頭観音 (登録番号無し)

七観音の向かいには六地蔵が置かれて、その端には、1937年(昭和12年)  に造られた舟形庚申塔があり「馬頭観音」の刻まれている。


庚申塔 (117番)

新青梅通りの交差点庚申橋北の近くに庚申塚がある。
この庚申塔は小関村の人々に大切にされていたようで、「庚申通り」や「庚申橋」の名称が残っている。庚申塚入口の石階段を上がると正面に庚申堂があるのだが、ここはちょっと今までの庚申塔とは異なっている。手前両脇に一対の猿が立っている。祠の中にも二対の猿がおり、手前の猿は合掌、後ろの猿は御幣を持って座っている。これほど猿が全面に出ている庚申塔は初めてだ。
庚申塔は1691年 (元禄4年) 造立の笠付角柱型で正面には日月雲、ショケラの髪を掴んでぶら下げている六臂青面金剛立像、その下には三猿が浮き彫りされている。かなり保存状態が良く、線刻まではっきりと残っている。

見落としていた史跡が二つあり、10月14日に再度、石神井台を訪れて見学をした。



金力自在大善神 (10/14 訪問)

南大泉へ行く途中に神社がある。赤鳥居に狐像が置かれているので稲荷神社だろう。鳥居の脇には金力自在大善神と刻まれた石柱が立っている。この神社の詳細や金力自在大善神という神についても調べるが分からなかった。

稲荷神社の祠 (10/14 訪問)

金力自在大善神から少し西に進んだ住宅地の中に小さな祠があった。この祠についても全く不明なのだが、地図では稲荷神社となっていた。ここに住んでいた人の屋敷神ではないかと思う。


石神井台の史跡巡りでは中世の石神井城跡がある石神井公園も巡ったのだが、その訪問記は別建てにした。今夜は前職の部下二人と夕食も予定が入っているので、新宿に向けて自転車映画走らせる。夕食の途中に気分が悪くなり、太腿が攣り始めた。熱中症の症状d。昨年も沖縄の炎天下を自転車でめぐっている時に何度も同じ症状月でた。一緒にいた土肥さんがこの熱中症には詳しく世話をしてくれて随分と落ち着き、宿の大泉学園に向かって自転車でゆっくりと帰る。自転車はエネルギーを調整できるので、満員電車で移動するよりは楽だ。後半は気分も元に戻り宿に無事到着。シャワーで汗を流し、即就寝となった。


参考文献

  • 練馬を往く (1983 練馬区教育委員会)
  • 練馬区史跡散歩 (1993 江幡潤)
  • 練馬区の文化財 指定文化財編 (2016 練馬区地域文化部)
  • 練馬区史 歴史編 (1982 練馬区)
  • 練馬区史 現勢編 (1981 練馬区)
  • 練馬の寺院 三訂版 [郷土史シリーズ 3-4] (2004 練馬区教育委員会)
  • 練馬の神社 三訂版 [郷土史シリーズ 5] (2006 練馬区教育委員会生涯学習部)

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