小豆島八十八ヶ所遍路 15 (06/05/23) 小豆島町 旧内海町 福田 (3) 瀬戸内国際芸術祭

小豆島町 旧内海町 福田

  • 鎮守の森
  • 水道の碑、通水七十周年記念之碑
  • 瞑想の石 (MEDITATATION)
  • 福田小学校跡、神宮寺跡
  • 瀬戸内国際芸術祭 sd35 葺田パヴィリオン

今日は姉が午後に大阪に帰るので、遠出はやめ、なるべく姉と一緒に過ごす時間を取る。その合間に、滞在している福田村をぶらぶらと見て回る。今回の島巡りのレポートで福田村にあるスポットで記載していないものも含めておく。


鎮守の森

葺田八幡神社は樹齢数百年の神木に覆われた神域にあり、葺田の本森として古くから住民に親しまれて来た。昔はその一角、杜の下段の馬場には西を向いて藁葺きの芝居小屋があり、「舞台」と呼ばれて村民娯楽の場だった。秋季例大祭には氏子総出による大鼓台、獅子舞、練 (ネリ) 等の奉納行事が今も受け継がれている。戦後一時期、村の幼稚園、公民館、役場支所が置かれて福田の教育、行政の拠点ともなっていた。

水道の碑、通水七十周年記念之碑

明治大正時代、福田村には森庄川、伊豆川、吉田川の三つの川に流れ込んで、他の地域に比べ比較的農業用水の豊富な地域だったが、飲料水には困窮していた。 中浜、前浜の地区は砂浜が近く井戸を掘っても海水が潜入して潮の干満毎に水が増えたり減ったりしていた。水質検査では飲用不適とされていた。山手寄りの地域以外は井戸を持つ家もほとんどなかった。地域各家庭の飲料水は八幡神社の鳥居の西側にあった 通称新井戸と境内の元庄屋の掘った井戸の二つの共同井戸に依存していたが、これらも飲用不適だった。その様な水でも住民は順番を待って、担い桶に水を汲んで帰るのが日課だった。生活用水に事欠く状況では家庭で風呂を持つ家などまれで、夏は行水くらいですますより外なかった。尾崎に森庄川の水を竹の樋で引いた銭湯があった。前浜、中浜地区は土地が狭く家屋が軒を重ね合ったように建ち並んでおり、火災の不安があったが当時は手押しポンプ1台あっただけだった。
この様な状況下で、1923年 (大正12年) に浜部落の総会長となった濱田富太郎 (当時27才) の献身的努力末に、1927年 (昭和2年) に上水道が敷設された。香川県で上水道が敷設されていたのは高松市と丸亀市だけで、小さな福田村が3番目だった。小豆島では最も早く、内海町の各村は昭和7年から昭和34年にかけて、池田町各村は昭和28から昭和50年にかけて、吉田村は昭和29年、土庄町は昭和34年に上水道が通っているので、福田村がいかに早かったかがわかる。これは濱田富太郎の水に取り憑かれたかの如くの努力の賜物だった。
八幡神社馬場には二つの記念碑が建てられている。1966年 (昭和41年) の通水40年の水道の碑 (写真左上)、1996年 (平成8年) の通水七十周年記念之碑 (左下、右) 

瞑想の石 (MEDITATATION)

福田八幡神社の馬場の片隅にオーストリア人彫刻家のカール・プラントル (Karl Prantl) 作の「瞑想の石 (MEDITATATION)」が置かれている。小豆島の旧内海町では早くから石彫シンポジウムが開催されてきた。1968年の第1回日本青年彫刻家シンポジウムにはじまり、町政施行40周年を記念して、1991年には'91小豆島国際石彫シンポジウムが開催された。彫刻シンポジウムとは、学術会議ではなく、古代ギリシアの饗宴 (Symposion) の様に彫刻家たちが一定期間作業場に集まり、 寝食を共にしながら、 同じ空間と経験を共有して作品制作を行う形態で交流とインタラクションを深める機会を提供するもの。制作の過程は一般の人々に公開され、当該コミュニティの公共空間に設置され、地域に還元される。このように、社会に対する彫刻芸術のあり方を大きく変えることになった彫刻シンポ ジウムを世界で初めて開催したのがプラントルだった。石彫界の巨匠のプラントルが、小豆島国際石彫シンポジウムに参加したのだ。既に70歳近い高齢だったが、連日この場所で製作に取り組み完成させた。作品完成の夜は、この作品の横で添い寝をして朝を迎えたと聞いている。作品を自分が産んだ子供のように愛していたのだ。プラントルの作品の周りにはシンポジウムに集まって来たかの様に幾つかの石彫が置かれていた。
ここは僻地集会所があった場所。1956年 (昭和31年) に、僻地教育振興の一環として僻地集会所が置かれた。この僻地集会所はまた幼稚園教育に利用され幼稚園と呼ばれていたが、1980年 (昭和55年) に小学校施設が拡張され境内地から撤去され、遊具だけが残っていた。
作品設置及び作業場の為、ここにあった遊具を撤去したところ、神社入り口に置かれていた取り替えられた注連柱が出てきた。プラントルがこの注連柱 (写真右下) を本国まで持って帰りアトリエの裏庭に飾っている。またアトリエには和室も設けられて、日本に対しての想いも見えてくる。
プラントルの作品にも多くの石柱作品があり、この神社の石柱に自分の作品との共鳴を感じたのかも知れない。

福田小学校跡、神宮寺跡

八幡神社の西側には隣接して福田小学校があった。
福田村小学校の歴史は
  • 1872年 (明治5年) の学制の頒布をうけて、翌年、1873年 (明治6年) に八幡神社祠官佐伯齋宅 (私の五世の祖父にあたる) を仮校舎として児童18名開校した時に始まる。当時は小豆島の各村でも神社や寺、旧寺子屋で小学校が開校している。
  • 1879年 (明治12年) に学制が廃止され新しく教育令が公布された事により、1884年 (明治17年) に福田朝陽小学校と名称変更(生徒186名 吉田分校含む) 朝陽とは島の東日出づる福田を象徴し命名。
  • 1883年 (明治16年) 伊豆川の川口南岸海浜に接するあたり、現在のフェリー発着場の国道を隔て西側の三木貫朔所有地に校舎を建設。
  • 1886年 (明治19年) 教育令にかえて小学校令が公布された。福田朝陽小学校は小豆郡9番学区簡易科福田小学校・同吉田分校となる。この小学校令では小学校の上位の高等小学校の設置も奨励され、小豆島では翌年に渕崎高等小学校 (後、小豆島高等小学校と改名) が設立、ついで、内海高等小学校 (1890年)、池田高等小学校 (1894年) ができる。僻地の福田村にはようやく1905年 (明治38年) に高等小学校ができ、それまでは小学校から進学する生徒は渕崎まで通っていたそうだ。
  • 1890年 (明治23年) 小学校令が改正され、 翌1891年 (明治24年) 福田村立福田尋常小学校・同吉田分校と校名を新たにする。この時に校舎移転している。
  • 1897年 (明治27年) に下庄に移転 (現在の校舎がある場所) 学齢児童 223人のうち就学児童121人
  • 1900年 (明治33年) に小学校令改正、修業年限は4ヶ年の尋常小学校とその上位の修業年限は2ヶ年、3ヶ年又は4ヶ年の高等小学校となる。尋常小学校と高等小学校を一校に併置するものは尋常高等小学校で福田村はこれにあたり、1905年 (明治38年) に福田尋常高等小学校 (4年+2年) となっている。
  • 1907年 (明治40年) に福田尋常高等小学校は4年+4年となる。
  • 同じ年の1907年 (明治40年) 年に小学校令は更に改正され、義務教育修業年限を6ヶ年に延長され、高等小学校の修業年限は2ヶ年(または3ヶ年)と定められ、1908年(明治41年) に尋常科6年、高等科2年の福田尋常高等小学校が発足。当時は尋常科5学級 (福田4学級・吉田1学級) 高等科は1学級だった。校舎は手狭となり、北側、神宮寺跡地に校舎を増設している。
ここにあった神宮寺は葺田八幡神社の別当寺で明治の廃仏毀釈までは第85番札所だった。開基は不明であるが、1505年 (永正2年) 以前から存在していた事は確かだ。昔は東光寺と呼ばれ、本尊の薬師如来が行基菩薩の作と伝えられているので開基も行基菩薩と考えられている。「玉姫大明神社」に「同中 興開基は永正二年、 神宮寺住宥尊」とあり、 永正2年(1505) 以前から存在していたので、 中興開基の僧は宥尊法印と考えられ、室町時代後期以前から存在していた。
  • 1941年 (昭和16年) 福田国民学校と改称
  • 1947年 (昭和22年) 福田小学校と改称
  • 1959年 (昭和34年) 第二次拡張工事
  • 1966年 (昭和41年) 吉田分校を統合
  • 1966年 (昭和41年) 吉田分校を統合
  • 1966年 (昭和41年) 吉田分校を統合
  • 1968年 (昭和43年) 体育館を建設
  • 1976年 (昭和51年) 新校舎完成
  • 2009年 (平成21年) 閉校、安田小学校に統合
下のグラフは福田小学校の生徒数の推移を表している。ピークは戦後のベビーブームの昭和32年で364名だったが、それ以降減少が続き、平成15年には僅か43名で学年平均は7名になる。平成21年閉校時の生徒数は見当たらなかったが更に減少しているだろう。校庭に生徒の手型を集めたモニュメントがある。これが廃校時の生徒が別れを惜しんで残したものだ。32名の生徒と卒業生の手型とメッセージがある。
近年は赤ちゃんも年間で二名程で、少子化が著しい。
運動場には子供の日に合わせて多くの鯉のぼりが泳いでいる。体育館では福田の有志で作るあきゃきゃクラブが新品不用品の譲渡会を開いて多くの住民が集まっていた。「あっきゃ」とは福田の方言で驚いた時に発する言葉。祖母は「ほーきちゃー」と言っていた。「あっきゃ」と同じく驚いた時の言葉。
この運動場は八幡神社で祭祀に使う稲の御供田だったが運動場拡張工事で消滅して、小学校の外側に少しだけ緑地がその名残になる。このお供え田には伝承が残っている。
その昔、応神天皇が橘を船出して吉備へ向かわれていた。ちょうど福田の沖にさしかかっ た時、急に暴風雨が強くなり、船はとうてい進めなかった。やむなく浜辺に船をつけて海岸の森の中に避難した。ちょうど一軒の小屋が見つかりそこでしばらく休まれようとした。しかし、小屋ではこの暴風雨を支えきれなくなってしまった。お困りになっているところへ一人の農夫がやってきて、折から刈り取ったばかりの稲束を屋根に葺き雨風を防いだ。そのことがあってからその森を葺田の森といい、そのあたりを葺田というようになった。この「葺田」がいつのころからか訛って「福田」というようになったと言う。
このとき、稲束で屋根を葺き天皇の急を教った男は土地の与助という男であった。そのことがあってから村人は与助の手柄をたたえて村元氏と呼ぶようになった。
与助の耕作していた田は、それ以後、神様へのお供え田となった。今も福田の秋祭りには、御輿の中に村本氏の田でとれた稲で編んだ筵を敷くならわしになっているという。
福田小学校が2009年に閉校し、安田小学校に統合された後、2013年に跡地や校舎は瀬戸内国際芸術祭の会場となり、アジア諸地域をつなぐプロジェクト「福武ハウス」として、運営を開始。瀬戸芸会期中には作品の展示も行われている。アジアキッチンも設けられ、会期中にアジアンテイストの食事を提供している。
昨年の瀬戸内国際芸術祭では下の写真のような展示が行われた。その前の展示より洗練された感じはするのだが、盛り上がりはなかったそうだ。

跡地内には小豆島の観光資源の一つである大阪城残石を展示している。殆どは新たに作られたものだが、二つ程400年ぶり里帰りした大阪城築城の残石が展示されている。運動場には石が多く積み上げられている。残石展示用として移設されたものだが、いつ開始して完成するのかは未定だそうだ。


瀬戸内国際芸術祭 sd35 葺田パヴィリオン

体育館と隣接する神社境内に瀬戸内国際芸術祭の作品の一つの葺田パヴィリオンが置かれている。カーブした2枚の鋼板によってつくられている。鋼板のあいだに生まれた空間に客席を作り子供の遊び場になる予定だったが、重量計算のミスだろう、上の鉄板がその重みで下がってきてしまい。この中での食事はできなくなった。葺田パヴィリオンの横にテラスを設けて、そこで食事を取れるようにしている。
葺田パヴィリオンと小学校の間を流れる砥石川沿いに古い建物があった。瀬戸内国際芸術祭で民家を昔の福田郵便局に再現したもの。残念だが近々取り壊わされる様だ。
ここからは個人的意見をまとめてみる。
昨年の2022年には3回目の瀬戸内国際芸術祭が開催されたが、初回ほどの盛り上がりは無かったそうだ。この瀬戸内国際芸術祭の今後に不安が残る。村の人達に話をした。このイベントの大きな課題はこれに関わる人たちの想いのギャップがある。
  • 主催者側の福武書店はメセナ事業と考えている。地域に芸術文化に触れてもらう機会の提供で、その資金は会社の事業成果や事業プライオリティにより変わってくる。代替わりにより、当初の熱意も会社内で変化しているだろう。
  • 会場となる地域の行政は、このイベントを地域おこしと考え、観光資源の創出で、観光客の増加、経済効果を主眼にしている。外部企業との癒着などの噂もある。行政はこのイベントは必ずしも成功とは思っていない。開催期間は観光客も増加して経済効果も大きくなったが、開催後は元に戻っているからだ。
  • 会場となる地域住民は、初回は会場設置要員、職員、アジアからの芸術家、福田村も含めてのボランティアが集まり開催に向けて協力して準備を行い、活気が出て交流も行われた。訪れる観光客に対しても四国特有の「おせったい」文化でもてなしを提供して、その地域は活性化した。ただ、これは開催期間のみに限定されている。その後は熱意も薄れて、展示された芸術作品もその芸術性が低く、関心も薄れ、ガラクタ扱いされる作品もある。ニ回目、三回には主催者側の資金不足なのか、新たな作品設置も少なく、村民はボランティア活動を強制されていると言う感覚に変化している。村民は今度は何をやってくれるのか、結局何もやってくれなかったとの失望感が漂っている。今後、このイベントから離脱する村が出てくるだろう。
このギャップは「地域活性化」とは誰のために何を目的としているのかを、主催者、行政、住民間で共通認識がない事から出ている。本来は、そこに住んでいる人達が感動を受け、生活に喜びを感じる事であるはずで、福武はその機会を与えてくれる存在だ。それをどの様に発展させ、本来の活性化を行うのは住民であるべきで、住民が Stakeholders にならなければならないが、今は傍観者になっている。行政は観光で地域活性化と言う神話に固執するべきでは無い。今回の行政の瀬戸内国際芸術祭は手詰まりの中、藁をもすがる想いの様に思える。過疎化は避けられない。その中で住民がどの様にすれば幸せを感じるかの方策に転換すべきだろう。
小豆島でのこのような試みに対して、関係者を引っ張っていく熱意を持ったビジョナリーリーダーの欠如が最大の課題と感じた。



参考文献

  • 福田村誌 葺田の里 (2005 福田地区自治連合会)

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