Okinawa 沖縄 #2 Day 201 (08/08/22) 旧宜野湾間切 (21) Futenma Hamlet 普天間集落

旧宜野湾間切 普天間集落 (ふてんま、フティマ)

  • 普天満宮 (普天間宮)
  • 普天満宮洞穴 (オミヤヌガマ)
  • 普天満山神宮寺
  • 村泉 (ムラガー)
  • 天満通り
  • 宮前通り
  • 普天間合祀拝所
  • 下ヌ泉 (シムガー)
  • 慰霊塔
  • 蘇鉄山の拝所 (スティチヤマヌウガミ)
  • 村屋 (ムラヤー)、公民館
  • 県立農事試験場 普天間試験地立種事場 (普天間高校)
  • 平和祈念像原型復活プロジェクト
  • 樋川泉 (ヒージャーガー)
  • フォートバックナー
  • 普天間橋 (フティマバシ、石平人道橋)
  • 上の泉 (イーヌカー)

今日は宜野湾市の集落巡りの最終日となった。普天間集落と安仁屋集落を見ていく。これで旧宜野湾間切、宜野湾村にあった22の集落を巡ったことになる。



旧宜野湾間切 普天間集落 (ふてんま、フティマ)

普天間は宜野湾市の北東部に位置する。国道330号からの宜野湾市への北の入口となり事務所、社交街、普天間高等学校、普天間小学校などが所在する。 本町通り、すずらん通り、万年通り、ニュー普天間通り、天満通り、天 満中通りなどの街路がある。 普天満宮、普天満山神宮寺は、正月の初面は県内各地から人が集まり、賑わいをみせている。
官公庁などもあり、1979年 (昭和54年) までは、市役所もここにあり、その他、中頭地方事務所、中頭教育会館、中頭職業紹介所、沖縄県立農事試験場、普天間試験地、中頭土木事務所などもあったが、その多くが移転している。
普天間の行政区には普天間一区、二 区、三区の3つがある。 旧普天間の住民が多く住むのは一区で、普天間高等学校や普天間小学校を囲むような地域となっている。 二区は普天間高等学校の南側の地域で、基地労働者など、戦後に普天間へ集まってきた人々が多い。 三区は、1953年 (昭和28年) に開放された基地の地を区画整理した地域で、国道 330号の西側地域にあたり、飲食店が多い地 となっている。普天満宮や官公庁があり、また交通の要所であったことから、沖縄各地や日本から移住してきて商業を営む者が多かった。 それらの人々は1944年 (昭和19年) 頃、ミヤマエ (宮前) として分離・独立しようとしたが、沖縄戦の混乱で分離できなかったという。
ミヤマエのほかに、 カミガーグワーヤードゥ イ(亀川小屋取) ・シチャーラヤードゥイ (下方の屋取) ・チナグゥーヤードゥイ (知名小屋取) などがあり、これらの屋取集落に対し、古くからの普天間の集落をムラウチ (村内)などと呼んだ。ムラウチは、 メンダカリ (前村果) とクシンダカリ(後村薬) に分かれていた。ムラウチのほとんどの家庭に屋敷井戸があっ た。 井戸のない家は、隣家の井戸を共同で利 用したり、ムラガー (村泉) を利用していた。 ミヤマエには貸家が多く、数軒の家庭で井戸 を共同利用していた。 シムガー (下の泉) やイーヌカー(上の泉) などは普段は利用しな いが、祈りの場であった。 ヒージャーガーの 水は風呂屋に利用されていた。 共有のムラグムイ (村溜池) が数ヶ所あった。ムラウチやシチャードゥイでの主な生業は農業で、サトウキビ栽培をしていた。 集落内には、 野嵩、新城と共同出資したセートーコージョー(製糖工場) があり、サトウキビはそこに運んでしでいた。そのため、米軍の上陸前にはサーターヤー (製糖小屋) での自家製糖はしていなかった。
普天間には古くから金武、具志川、与那城、勝連、泡瀬方面から那覇へ往来する荷馬車引きたちが、馬に餌を与えて休憩させる馬車宿小 (休憩所)があり、交通の要所だった。 大正初期には中頭高等小学校をはじめとして多くの官公庁が置かれ、中頭郡の行政や教育の中心となっていた。1922年 (大正11年) には沖縄県営鉄道開通に伴って、普天間を起点に大山駅までの連絡用乗合馬車 (6人乗り) が登場し利便性が向上している。 神宮前や並松沿いには商店が立ち並び 沖縄各地や日本から移住して来て商業を営む者も多く、中頭の中心地として賑わっていた。1937年 (昭和12年) 当時、普天間で第一次産業 (農業畜産等) に従事する戸数は字に占める割合の約57%と極めて低く、90% 前後が第一次産業に従事していた宜野湾村の中では突出して脱農業化していた。宜野村内では商業従事者が多く、マチ的要素の強い地域であった。
いくつかの屋取 (ヤードゥイ) 集落を含み、戸数も多かった。普天間は1671年までは、中城間切であったが、宜野湾間切が新設される際に、野嵩とともに宜野湾間切に編入された。 また、かつて集落は、現在の普天間小学校あたりと、現在の普天満宮西側にあったとされ、それらの集落がやがて現在のキャンプ瑞慶覧内の地に移動合併して普天間村になったという。
普天間の人口推移は、宜野湾村 (市) の他の集落とはかなり異質になっている。明治時代の人口は宜野湾の中心地としては少ない。廃藩置県後に、ここに行政施設が置かれたので人口はかなり増加して、宜野湾村では3番目に多い地域となっている。戦後1963年に行政区変更で、帰還する場所を奪われ、普天間三区に多く住んでいた新城や安仁屋住民は普天間三区に住民登録の義務が発生し、一挙に登録人口が増えている。しかし、その後は、人口が、年々減少し、その傾向は現在でも続いている。
人口増加推移のグラフを見るとわかるが、これほどピークから人口が減少している地区は宜野湾市にはない。他の地域は差はあるが、増加傾向にある中、普天間は人口減少が顕著になっている。何が原因だったのだろうか? 地元でも理由は分からないそうだが、特に一区の人口減少は大きく、問題とは認識している。
普天間の主な年中行事には、旧暦3月のミジナディー (水撫で)、旧暦6月のチナヒチ (綱引き) 旧暦7月の盆のエイサー、旧暦八月十五夜の獅子舞、四年マール (廻り) のムラアシビなどがあったという。拝所はムラヤー (村屋) にまとめられてお り、行事の際にはニーヤー (根屋) である東江、志礼、ムラヤーで拝みを行ったという。 志礼の屋敷の角には獅子舞の獅子を保管するシーシヤー (獅子屋)があった。ウブガー (産泉) である イーヌカー (上の泉) とシムガー (下の泉) は隔年で拝まれ、正月のワカミジ (若水) も イーヌカーやシムガーから汲んでいたという。スティチヤマ (蘇鉄山) にも拝所があったという。天満宮・普天満山神宮寺があり、 旧暦9 月には宜野湾村内をはじめ、西原村や首里・那覇などからも参詣に来ていた。旧普天間住民は普天間郷友会を結成し、一区内にかつての普天間の拝所を集めた合祀所、霊塔を整備し、旧暦八月十五夜の行事などを伝えている。


普天間集落訪問ログ



普天満宮 (普天間宮)

普天満宮は熊野三所大権現を祀る琉球八社の一つだが、元々は琉球古神道神を洞窟内に祀っていた。第一尚氏時代の尚金福王から尚泰久王の頃に熊野権現を合祀したとされる。琉球神道記には普天間権現と記されており、戦後に普天満宮と改められた。鳥居を潜り階段を登ると、左側に社務所があり、その前に手水舎が置かれている。
駐車場付近に普天満権現樋川井があった。樋川というので、樋から水が流れ出していたのだろう。香炉が置かれているので、拝みの対象になっている様だ。
拝殿の両脇には狛犬ではなく、シーサーが置かれている。沖縄ならではだが、狛犬もシーサーも起源は同じなので、本来はシーサーだったのだろう。
本土の神社の造りと同じで拝殿の奥に本殿がある。この本殿には、普天間女神、琉球古神道神の日の神、竜宮神(ニライカナイ神)、普天満女神(グジー神)と天神・地神・海神といった琉球の神様にプラスして、日本神道、熊野権現として、伊弉冉尊 (いざなみのみこと)、速王男命 (はやたまのおのかみ)、事解男命 (ことさかのおのかみ)、天照大御神、 家都御子神 (けつみこのかみ) が祭神として祀られている。

古くから民間信仰の対象で、琉球王国時代には、国王が毎年旧暦9月9日に普天満宮を参詣する行事があった。首里から普天間街道を通って、参拝に来ていた。

普天間街道は普天間飛行場に接収されて消滅している。今まで巡った集落で部分的に石畳が残っていた所があった。(当山の石畳道野嵩の石畳道
1945年 (昭和20年) の沖縄戦では、米軍からの攻撃を避けて、本島南部へ普天満宮の御神体を避難させていた。終戦後もしばらくの間は、米軍によって普天満宮の敷地が占領されていたため、うるま市の具志川村に仮設の宮が造られていた。1949年 (昭和24年) に敷地が解放されて、この地に戻ってきている。現在の社殿は、2004年 (平成16年) に再建されたもの。戦前の普天間宮 (普天満宮) の写真が残っている。
洞窟見学の待合室に、普天満宮の縁起についての展示がある。安谷屋の百姓夫婦に黄金を授けて救済したという伝承が紹介されていた。


首里桃原の糸を紡ぐ美女の神隠しの言い伝えについても紹介されていた。この伝承については、女神が普天間宮まで逃げてくる間に休憩した洞窟を今まで三か所 (経塚の普天間小嘉数のティラガマ愛知のティラガマ) 訪問して、それぞれで同じ伝承が残っている。それぞれが、少しづつ異なっていた。実はもう一つ女神が逃げる途中に休憩した洞窟が首里儀保の西森御嶽洞窟なのだが、まだ訪問していないが、いずれ行く予定。沖縄各地にこの逸話はあり、妹の夫が油売りとなっていたり、普天間に逃げたのは親に侍との結婚が許され無かった。娘が権現になったのでは無くない権現が娘の体を借りていたというバージョンもある。

この他にも、この普天間宮 (普天満宮) に絡む逸話が幾つかある。
  • 隣村の野嵩に伝わっているのは 「大晦日に読谷の人が芋や野菜を売るために馬を引いて首里に行き、その帰り権現様と出会い、馬に乗せてくれと言われ、馬で送って行った。お宮の洞窟の前で、ここでおろしてくれと言って、権現洞の中に入って行った。権現様が、家に帰るまで明るく照らされていくのがいいか、それとも何か欲しいのがあったら言ってくれと聞く。読谷の人は、もう今晩は暗くてなんにも見えない、歩くこともできないから、明るくしてくれるのが一番いいと答えた。そうすると、この人が読谷に帰り着くまで明るくなっていた。その後、読谷の人は九月になったら、いつも空馬に鞍をおいて普天間まで拝みに来たという。更に、読谷の人は絶対に馬を殺して食べたりしなかった。
  • 喜友名にも言い伝えがある。「薩摩の侍が、沖縄から国元へ船で帰ろうとしたとき、風向が向い風で出港出来ない。いくら待っても風向きは変わらず、権現さんの評判を聞き、普天間権現に拝みに来たそうだ。洞窟の中に入るとき、腰の刀を手洗い水の所に置いて、中に入って風まわりを追い風に変えて下さいと祈願をした。洞窟から出てきたら時には風向が変わっていた。刀をさすのを忘れて、そのまま馬を走らせて那覇に行き、船で薩摩に帰ってしまったそうだ。その後、忘れていった刀は人が見たら蛇になって逃げたりしていたらしいが、その薩摩の侍が後日、お礼参りにきたときまで刀はちゃんとあったそうだ。それからは、普天間権現は船旅の時に縁起がいい神様となり、拝むようになった。
待合室で洞窟見学申し込みに名前と住所を記入すれば、20分毎に巫女さんが入り口まで案内いてくれる。混雑をさけるために、そうしているのだが、見学者は三人だけだった。正確には残りの二人は参拝者で、変わった動作で長い時間拝んでいた。若い女性なのだが、沖縄ではこの様な参拝者によく出会う。話をすると、霊を感じるそうだ。自分にはどうもその様な能力は備わっていないので、見学だけで、参拝はしない。この洞窟へは電子ロックされた通路に入り向かうのだが、その通路に、この洞窟で入口付近で発見された数万年前のシカの化石や縄文時代の遺物などが展示されていた。縄文時代にはこの洞窟に人が住んでいたのだろう。

普天満宮洞穴 (オミヤヌガマ)

普天満宮の境内の奥には長さ約280m、高さ4 ~ 6m、幅1 ~ 3mの洞穴がある。見学出来るのは第一広場と呼ぶこの一部分のみだった。胎内くぐりなどの行事で残りの部分を見ることができるそうだ。図を見ると全部で三つの広場があり通路でつながっている。沖縄戦ではこの三つの広場に数百名が非難していた。

かつては、この洞窟が本来の神殿だったのだが、本土の神社の構成に基づき神殿は拝殿の背後に造られたので、ここは奥宮となっている。洞内には石柱などの鍾乳石と、御神体や土着の神々が合祀されている。洞内はあちらこちらにしめ縄と紙垂があり、それぞれが拝所になっている。写真右下の石が御神体だそうだ。

洞窟内は広く、様々な不気味な形の鍾乳石が見られる。洞窟は更に奥に続いているようだが、危機と看板が置かれて奥には進めない。1944年 (昭和19年) 10月10日の10・10空襲では、大被害を受けた首里や那覇の住民による北部への大移動があり、宜野湾街道や伊佐から普天間への道は蟻の行列の様であったといわれ、洞窟や境内も逃げてきた人たちで、ごった返していた。宜野湾村婦人会が炊き出しの握り飯を作り避難民に配っていた。沖縄県知事も中頭地方事務所に移ってきた。しばらく普天満宮へも避難していましたが、その後、普天間第2壕へ移動している。洞口は、 現在2ヵ所あるが、戦時中は神宮寺の裏側から別の入口を開けて第2広場への出入りが行なわれていた。 洞窟には広場が3ヵ所あり、いずれも戦時中避難壕として使用されていた。洞内での被災は無かったのだが、米軍上陸の10日程前には数百名が非難していた。この壕も危ないとなり、北部の山原に逃げようとしたが、普天間川に架かる普天間橋は日本軍に破壊され、渡れず、この洞窟に戻ってきている。1945年 (昭和20年) 4月1日には、米軍が上陸し、南部に逃げることになり、第1広場に入っていたほとんどの人が、洞窟を出て野嵩を通って南部へ避難している。4月2日には逃げず残っていた洞窟避難者全員が捕虜となり、助かっている。南部に逃げた人の多くは2ヶ月の逃避行の途中で多くが犠牲になっている。

普天満山神宮寺

普天間宮と同じ場所に普天満山神宮寺がある。琉球神道記には普天間権現神宮寺と記され、正観世音菩薩と共に熊野権現を併せ祀った真言宗寺院だ。第一尚氏時代、首里王府が中部方面の視察の際に使われていた普天間御休み処が徐々に整備され、第六代尚泰久王の勅願により、1459年に住民の祈願所として普天満宮と一緒に神仏習合の寺院として開山になったと言われている。別の伝承もあり、それによれば、中城 (ここから3Km程にある) の護佐丸が勝連城主阿麻和利に攻められ落城した際に、城の資材を当地に運び、護佐丸の菩提を弔う為に建てられたという。明治期の廃仏毀釈政策により、普天間宮と神宮寺が分離している。沖縄戦の際に、堂宇は焼失している。四脚門として参詣者を迎えていた4本のフクギのうち3本だけが焼け残った。

境内には梵鐘があり、隣には大師堂、裏には納骨堂があり、沖縄では、珍しく立派な仏教寺院だ。

ここでは毎年旧暦八月の十五夜には獅子舞が奉納されている。約400年前に、第二尚氏五代尚元王 (1528年 - 1572年) から村興しの神として贈られたと云われている。それ以降、旧盆の旧暦7月13日 (ウンケイ) と15日 (ウークイ)、旧暦8月15日 (十五夜) に豊年豊作や子孫繁栄、災厄払いを祈願して行われている。戦前は部落の草分けの家で演じられていた、戦後は主に普天間合祀拝所と普天間宮で行われている。

村泉 (ムラガー)

村泉 (ムラガー) は旧集落の中央にあった村屋 (ムラヤー) の前にあったそうだ。普天間神宮寺の側の基地内にあたる。深さ22m程のチンガー (掘抜井戸) で、釣瓶で水を汲んでいた。 米軍基地建設の際に破壊され消滅してしまった。

天満通り

普天間地域には 名前のついた通りが17程ほどある。普天満宮の前の大通りを渡った所には二本の細い路地が伸びている。一つは天満通りという。門前町として商店街だったのだが、今は大通り近くには商店があるが奥には店はなく、当時の様子は見られない。

宮前通り

天満通りに並行して宮前通りがある奥で天満通りと繋がる。この通りも今では活気は無くなっている。商店は大通りに移ってしまったのだろう。


普天間合祀拝所

戦前の普天間集落の中央の村屋 (ムラヤー) 敷地南側に3つの祠があったという。 昭和初期には既に集落の拝所は合祀されていたという。この時代に合祀拝所にしている集落は珍しい。だいたいの集落では、昔から拝所の場所を聖域と考え、よっぽどの理由がない限り移設には否定的だ。村の祭祀は経済的にも大変で、一ヶ所にまとめる事で、随分と楽になるはずだ。更に土地の有効活用にも聖域とされる拝所は妨げになっていた。慣習よりも生活を重視した進歩的なリーダーが合祀を実行したのでは無いだろうか? 戦後、1959年 (昭和34年) に、合祀所を受け継ぎ、普天間一区に移設されている。その際に戦災や米軍の土地接収により旧集落内にあった他の拝所のほとんどが消失したため、更に合祀している。祠の中には、向かって右から神アシャギナー (庭) 、島御殿、火の神、みるく神が祀られ、その隣の部屋には獅子神が祀られ、獅子頭もここに保管されている。
祠の隣には四つの香炉が置かれた共同拝所がある。普天間樋川、村泉、下の泉 (シムガーヌ ミジナシガー)、上の泉 (ダキヌーウィヌミジナジガー) を移設し拝んでいる。郷友会によって年中祭祀が執り行われている。

下ヌ泉 (シムガー)

普天間樋川、村泉、上の泉 (ダキヌーウィヌミジナジガー) は米軍基地外赤基地の外からかつて場所が見えるので、訪れたが、旧集落北西、基地内にある下ヌ泉 (シムガー) は近くすらいけないのでここで、説明しておく。この下ヌ泉 (シムガー) は、下方ヌ屋取 (シチャーヌヤードゥイ) にあり、普天間川 (フティマガーラ) に向けておりていくと、途中から石畳道となりそこにあったそうだ。村泉 (ムラガー) で、普段は利用していなかったが、上ヌ泉と隔年で水撫で (ミジナディー) の行事で拝んでいた。 下方ヌ屋取の人達は湧き出た水では洗濯などをし、正月の若水 (ワカミジ) を汲んでいた。現在でもキャンプ瑞慶覧内に残っている。



合祀拝所の裏は小山になっており、平成6年にはふてんま公園として整備されている。多分普天間では一番の高台だろう。ここが昔はなにだったのかは書かれていなかったが、幾つが墓が残っていたので、墓群だったのではと思われる。頂上には展望台があり、そこで休憩。ここからは、普天間地区が見渡せる。


慰霊塔

合祀拝所の側に沖縄戦犠牲者221柱を弔った慰霊碑が建てられている。この慰霊碑は1970年 (昭和45年) に普天間行事保存会 (現普天間郷友会) によって建立され「・・・再びあの悲惨な戦争は起こさ ないことを誓いここに慰霊の塔を建立する」 と刻まれている。普天間では毎年6月23日後の日曜日に慰霊祭が行なわれている。
旧普天間集落には旧日本軍の球部隊、石部隊が国民学校やヒールー山の兵舎や民家などに駐屯していた。日本軍の石部隊の通信部隊が、ガッコー (普天間国民学校) を接収し、オテラ (お寺) の裏やフィールーザンに兵舎や陣地を築いていた。住民たちはオミヤヌガマ (お宮の洞穴) に抜け道をつくったり、タカソージに避難壕を整備したりした。集落住民は、北部の今帰仁村に約50人程度で宮崎県への学童疎開者も少なく、ほとんどは普天満宮洞窟や中頭地方事務所の壕、ヒールー山の壕、その他自家防空壕に避難していた。 4月1日に米軍が上陸すると、普天間の人々はオミヤヌガマなどに避難していた。 普天間橋 (フテンマバシ) は米軍侵攻を遅らせるために日本軍によって爆破されたが、米軍は難なく集落内に到着している。ここでは激しい戦闘はなく、戦災を免れた建物も多くあり、米軍が使用していた。 集落内の壕に避難した人々は、米軍上陸2日目の4月2日に米軍の捕虜になり、収容所に移されたが、南部に逃げた人も多くおり、その地で多くの犠牲者が出ている。1944年 (昭和19年) の普天間の人口は1,223人で、死者行方不明者は149人とされる。 (沖縄県平和の礎調査では、防衛隊、県外での死者を含めると298人とされる)

故郷に戻ることのできなかった普天間の住民 は、現在の普天間一区や新城区に多く居住している。 その後、普天間には基地労働者や米兵、労務者相手のサービス業に従事する寄留人が増えていった。また、1953年 (昭和28年) には、軍用道路5号線 (現在の国道330号) の西側が開放され、地主会主体の普天間都市計画委員会による区画整理を行い、米軍相手のバーなどの飲食店が立ち、飲食店街が形成された。1951年 (昭和26年) 5月1日に普天間小学校南側の地区が普天間二区として独立した。また。1964年 (昭和39年) 7月1日には、区画整理された地区に普天間三区が発足し、宜野湾市の行政の中心地となっている。 しかし、普天間の住民たちは現在でも、故郷の地を踏むことができていない。




蘇鉄山の拝所 (スティチヤマヌウガミ)

合祀拝所のすぐ西の蘇鉄山 (スティチヤマ) には拝所があったそうだ。戦後、この蘇鉄山 (スティチヤマ) の広場に祠が置かれていたそうだ。 高さは30cmくらいの小さな石灰岩で作られた祠だった。 昔は集落で拝んでいたようだが、なぜか合祀所には祀られていないという。

村屋 (ムラヤー)、公民館

ふてんま公園の山を南に降った所には、戦後、村屋が置かれていた。茅葺き屋根 (写真左) の簡単なものだったが、1956年 (昭和31年) にコンクリート製の第一区公民館 (写真右) に建て替えられた。
現在の公民館は平成元年に建て替えられたもの。普天間高校のグラウンド脇の奥まった路地にある。1970年代まではグラウンドのフェンスはなく、公民館の前は広い広場になっていたが、フェンスが設置されて袋小路になってしまった。この時には住民と県の間でフェンス設置について激論があったそうだ。
普天間にはもう一つ公民館がある。1951年 (昭和26年) の行政区変更で、一区と二区に分割されて、南の野嵩区側に二区が設置されている。戦前は、この辺りには民家は殆ど無かったのだが、戦後、旧安仁屋集落など、土地接収で帰還が出来なかった住民や、米軍基地の仕事を求めて移住してきた人達が住み拡大していった。
更に1964年 (昭和39年) には、普天間飛行場とキャンプ瑞慶覧の間にある地域を区画整理して普天間三区が発足している。戦前の普天間集落は、キャンプ瑞慶覧の南側の県道81号線 (ぎのわんヒルズ通り) から北側、つまり基地内にあった。この宜野湾ヒルズ通りは普天満宮への道だったこともあり、この道沿いには戦前にも多くの商店がたち、賑わっていた場所だ。
戦後、この道路の南側には米軍兵相手の社交街になり、更に住宅地も広がっていった。その名残りが、普天満宮近くのすずらん通り (写真上) と万年通り (写真下) に残っており、バーやスナックが集まっている。

県立農事試験場 普天間試験地立種事場 (普天間高校)

一区公民館に隣接して普天間高校がある。昔は、農業の試験研究機関の中心として 1923年 (大正12年) に県立農事試験場普天間試験地立種事場 (写真右上) が設置されていた。 サツマイモの品種改良で栽培しやすい「沖縄100号」や3カ月で収穫できる「比謝川1号」といったイモが作り出され、戦中戦後の食糧難の時代に人びとの命を救いっている。 現在でも普天間高校内に試験場時代に植えられた植物の一部が残っているそうだ。試験場の裏には、シケンジョーヌカー (消滅 写真右下) があったそうだ。

平和祈念像原型復活プロジェクト

普天間高校の敷地の外に「平和祈念像原型復活プロジェクトでクラウドファンディング募集の案内があった。真志喜の森之川 (ムイヌカー) の公園内にあった天女のレリーフや糸満の平和祈念公園の平和祈念像の作者で普天間二住んでいた山田真山のアトリエがこの付近にあった。サイトを見ると早くも目標を達成して募集は終了していた。完成後50年近く経ち、修復が必要で、一般公開に向けて総額5億円の資金が必要との事で宜野湾市がふるさと納税のクラウドファンディングで資金の一部の募集をしているもの。今回で三回目だそうだ。

宜野湾市のホームページで案内があるのだが、完成予定の時期については書かれていない。募集要項は詳しく掲載しているのだが、過去二回のクラウドファンディングの結果報告や、進捗状況などは無い。完成時期は基本的な情報なので、記載していないのは、未定で資金繰り次第ということなのか?少し不安を感じる。クラウドファンディングは流行なのだが、安易に乗っかっている様にも思える。5億円もの資金が必要なのだが年に一回クラウドファンディングで各回200万円を募集する意味もよく分からない。計画だおれになる恐れがあるように感じる。

樋川泉 (ヒージャーガー)

普天満宮から国道330号線を東に進み、北中城村との境近く、キャンプ瑞慶覧のフェンスあたりに樋川泉 (ヒージャーガー) があったそうだ。今は消滅して、合祀拝所に祀られている。この井泉は普天間集落の村泉 (ムラガー) で、正月の若水 (ワカミジ) や、子どもが生まれたときのナージキー (名付け) の水の産水 (ウブミジ) を汲んでいた。樋から出た水はクムイ (池) に溜まり、その水で水浴びなどをしていた。 ヒージャーガーの正面から左手にも口があり、その水をユーブルヤー (風呂屋) が利用していた。

フォートバックナー

樋川泉 (ヒージャーガー) があった場所はキャンプ瑞慶覧 (キャンプフォスター) 米軍基地に隣接したフォートバックナー  (Buckner Communications Site) が置かれている。沖縄の基地と世界中の米軍基地との通信を管理している。沖縄戦で糸満市真栄里で戦死したバックナー中将を称して、この名が付けられている。

普天間橋 (フティマバシ、石平人道橋)

普天間集落の北東側、北中城村との境界に普天間川 (フティマガーラ) が流れている。

この川には普天間橋 (フティマバシ) のアーチ型石橋がかけられていた。石平橋とも呼ばれていた。首里の石大工によって架けられたと歌った琉歌が残っている。橋のすぐ下流には馬に水浴びをさせる場所があり、橋のすぐ上流は、子どもたちが泳ぐ場所だった。 現在の石平人道橋あたりに架かっていた。この橋は、1902年 (明治35年) に中部地方の農産物を首里、那覇へ運ぶ普天間街道が整備されてから、間切時代の宿道 (東海道) に変わる主要な道路の一部となり、普天間参詣などでも賑わっていた。 1922年 (大正11年) に那覇~嘉手納間に沖縄県営鉄道が開通すると人の往来も減少していった。

戦時色が強まるにつれ、各地から戦勝祈願のための普天間参詣が活発になり、再び人びとの往来で賑わい、整備された石橋や街道は、米軍の進攻を容易にするものと考えられ、米軍の進攻を防ぐため日本軍により普天間橋は爆破された。1945年 (昭和20年) 4月1日に北谷に上陸した米軍は、西海岸沿いを走る県道と普天間街道 (中頭街道) を南北に分断し進攻。本土復帰 (1972年) 後も普天間、 安谷屋住民の生活道路として、また、悲惨な戦争の証として現場保存が望まれたが、老朽化が著しく危険との理由で、1981年 (昭和56年) に河川改修工事の際に宜野湾市教育委員会の記録保存調査後撤去され、 鉄骨の橋に架けかえられた。現在では石平人道橋と呼ばれている。


上の泉 (イーヌカー)

今日前半で訪れた野嵩集落の拝井の樋川泉 (ヒージャーガー) は普天間でも拝まれており、上の泉 (イーヌカー) と呼ばれている。 旧暦三月には上ヌ泉 (イーヌカー) と普天間の北側にある下ヌ泉 (シムガー) を隔年で水撫で (ミジナディー) の祭祀で拝んでいた。道路工事の際に水脈が切られ、現在の場所から水が湧き出したため、龍頭が取り付けられた。元々の上ヌ泉 (イーヌカー) はこの崖の上にあった。戦前にはガッコー (普天間国民学校) の水道の水源地になっていた。戦後もこの上ヌ泉から水道を 引いていた。



これで普天間集落巡りは終了し、帰路に着く。もう一つの最後の安仁屋集落は集落全体がキャンプ瑞慶覧内に接収されてしまい、村だけでなく行政区としても消滅している。キャンプ瑞慶覧のフェンス外からかつての集落を眺めるだけになる。その様子は別レポートに記載する。


参考文献

  • 宜野湾市史 第5巻 資料編4 民俗 (1985 宜野湾市史編集委員会)
  • 宜野湾市史 第8巻 資料編7 戦後資料編 (2008 宜野湾市史編集委員会)
  • 宜野湾市史 別冊 写真集「ぎのわん」 (1991 宜野湾市教育委員会)
  • ぎのわん市の戦跡 (1998 宜野湾市教育委員会文化課)
  • 宜野湾 戦後のはじまり (2009 沖縄県宜野湾市教育委員会文化課)
  • 沖縄風土記全集 第5巻 宜野湾市・浦添村編 (1968 沖縄風土記社)
  • ぎのわんの地名 (2012 宜野湾市教育委員会文化課)
  • 普天間 三十周年記念誌 (1994 普天間一区自治会)

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