東京 (15/01/22) 江戸城 (27) 内曲輪16門 / 内濠 (10) 坂道巡り (3) 港区 (3)

  • 北坂 (根津坂、姫下坂 ひめおりざか)
  • 笄坂 (こうがいざか、 北坂、中坂、おたつ坂)
  • 牛坂 (牛鳴坂)
  • 大横丁坂
  • 堀田坂
  • 御太刀坂 (おたちざか)
  • 堀田坂 (御太刀坂、禿坂)
  • 大銀杏
  • 南部坂
  • 木下坂、備中足守藩木下家上屋敷
  • 広尾稲荷神社
  • 広尾の庚申塔
  • 青木坂
  • 新富士見坂
  • 天現寺
  • 新坂
  • 阿衡坂 (あこうざか)
  • 奴坂
  • 薬園坂
  • 釣堀坂
  • 絶江坂 (ぜっこうざか)

東京滞在2日目も港区の坂道巡りを続ける。ホテルを出発するが、サドルへに路面の感覚に違和感。嫌な予感。タイヤがパンクしている。チューブ取り替えで出発が遅くなった。金属破片がタイヤを突き刺さっていた。


今日は青山地区/麻布地区から巡る。



港区の5つの行政地区の一つの赤坂地区に属している南青山から


北坂 (根津坂、姫下坂 ひめおりざか)

根岸美術館 (写真左中) の東脇に下る坂 (写真上) を北坂という。北坂は元々は立山墓地の脇を通る狭い坂だったのだが、いつの時代にか移動している。その元の道にも行ってみた。(写真 右中、左下) ここが昔から坂なのかは、確信は無い。坂を下った所には庚申塚が残っている。(写真 右下) 北坂は前述の笄坂の北にある坂の意味である。後述の牛坂で笄橋の伝説で黄金長者の姫が長者丸の屋敷から笄橋で待つ銀王丸と逢うために下りた坂なので姫下坂とも呼ばれていた。



次に麻布地区の西麻布に移動。


笄坂 (こうがいざか、 北坂、中坂、おたつ坂)

青山台地に上る高速3号線下の六本木通りの急坂で、富士フィルムオフィス、高樹料金所付近から登り坂になっている。
この道路の南側を笄町といったので笄坂と名づけられたと資料にはなっていたが、笄町は明治時代にできた町なので、笄坂が江戸時代からあったので、間違っている。笄橋があったから笄町となったのだ。この笄の由来については源経基が登場する。
  • 平将門が関東で乱を起こした時 (天慶の乱)、六孫王源経基はその状況を天皇に直訴するため京都へ向かう途中、笄橋にさしかかる。笄川 (龍川) は水量も多く大きな流れだったのでこの橋を通るしかなかった。しかし、橋では前司広雄と言う将門一味の者が「竜が関」と言う関所を設けて厳しく通行人の詮議をしていた。 そこで経基は一計を案じ、自分も将門の一味の者で軍勢を集めるため相模の国へ赴く途中であると偽る。すると関所の者に何か証拠となるものを置いていけといわれ、刀にさしていた笄を与えて無事に通ることができた。 これにより以後この橋を経基橋と呼んだが、後に源頼義が先祖の名であるため、これをはばかり、経基橋を笄橋と改称させたといわれている。

牛坂 (牛鳴坂)

笄坂の南側には牛坂がある。
牛坂を下り切った所には笄川が流れていた。現在の外苑西通りから牛坂に入ったところで現在は全面暗渠になっている。かつて、この笄川には笄橋が架かり、この橋を渡り、道は大横丁坂へと続く。この一連の道は昔の交通路で,牛車が往来したことから、この名が付いたと推測されている。笄橋には白金長者の伝説がある。
  • 白金長者の息子銀王丸が目黒不動に参詣した時、不動の彫刻のある笄 (髪をかきあげるための道具) を拾った。その帰り道で黄金長者の姫と偶然出会い、恋に落ちる。2人は度々逢瀬をかさねるようになり、ある日笄橋のたもとで逢っていると、橋の下から姫に恋焦がれて死んだ男の霊が、鬼となって現れ襲い掛かった。すると笄が抜け落ち不動となって鬼を追い払い、2人を救った。その後、ふたたび笄に戻って橋の下に沈んだ。のちに長男であった銀王丸は家督を弟に譲り、黄金長者の婿となった。

大横丁坂

牛坂から道は大横丁坂に続く。桜田の通りまで緩やかな長い上り坂が続く。江戸時代の地図では坂の上部半分ぐらいは富士見坂となっている。この坂の場所は長い横丁と呼んでいた。それで「大横丁坂」となったと思われている。六本木通りが開通していない時代は、この道が渋谷方面への重要な街道でもあった。

御太刀坂 (おたちざか)

牛坂の南に並行して走る路地があり、その道は坂になっており、御太刀坂と呼ばれているのだが、坂名の由来については不明だそうだ。

堀田坂 (御太刀坂、禿坂)

御太刀坂の南側にはもう一本坂道がある。堀田坂と呼ばれている。渋谷区と港区の境界線にあたる。江戸時代には、この坂に沿って、佐倉藩堀田家下豊沢村下屋敷 (2020年12月15日 訪問) が置かれていた事からこの名が付けられている。坂の別名として、先程通った御太刀坂と同じ名でも呼ばれていたようだ。

大銀杏

堀田坂を登ると坂上は樹齢500年をこえる大銀杏があるのだが、残念ながら、枯れてしまっている。かつて日本赤十字社の敷地内にあったのだが、その敷地の一部に広尾ガーデンヒルズを建設する際に移植され、長い間足場を組んで支えていた。それがとうとう枯れてしまったのだ。広尾ガーデンヒルズは敷地が柵で囲まれ、入り口にはゲートがあり、中に入れない。たまたま、会社に乗った女性がゲートを開けて出てきたので、その所から写真を撮った。10年も前のことだが、この大銀杏が枯れてしまった事で、問題がクローズアップされた。この大銀杏は天然記念物に指定されており、天然記念物の移植は国も認めないのだが、渋谷区が日赤の移植申請を許可した事が問題となったが、区長は天然記念物の指定を解除すべきだったとの宇宙人的答弁だったそうだ。無邪気に空気が読めない区長だったのだろう。更に、追及は移植先が一般人がアクセス出来ない広尾ガーデンヒルズ敷地だった事も問題視された。これは区長が決めたのでは無いのだろうが、職員も無邪気に言われた仕事だけをする人だったのだろう。コロナ対応やモリカケの政府と官僚と同じだ。働いていた民間大手会社も同じだ。いつも思うのだが、これが日本国の根本的問題だろう。学力はみんな高いのだが、思考能力は学歴を重ねる毎に低下していっている。画一的な暗記中心教育から発想を大切にして多角的に考えられる教育制度が望まれる。近年その方向を模索し始めているので、数十年後に期待したいものだ。
余談だが、この広尾ガーデンヒルズに住んでいるのはどんな人達なのかに興味があり、ここで中古売出している価格を調べると、1階90平米3LDKで1億6千万円、賃貸は85平米2LDKで一ヶ月53万円、100平米2LDKで62万円だった。成る程、それで、住んでいる人はセキュリティゲートが必要なくらいお金持ちなのだと納得。


次は麻布の南麻布の広尾に移動。



南部坂

有栖川宮記念公園の南側。坂の反対側にはドイツ大使館前がある。
有栖川宮熾仁宮記念公園は赤坂から移ってきた盛岡城主南部家の屋敷跡で、屋敷の9割がたが公園になっている。公園にある池などは屋敷内の庭園にあったものがそのまま残っている。この南部家屋敷の坂という事で、南部坂と呼ばれていた。ドイツ大使館の塀には壁画 (写真右下) が描かれている。ドイツに所縁にあるテーマで定期的に入れ替えており、これを目当てに来る人も多いそうだ。今回はアインシュタインがテーマでその生い立ちや功績を紹介していた。

木下坂、備中足守藩木下家上屋敷

南部坂を登り有栖川宮記念公園の外側をぐるりと回ると下り坂になる。この下り坂が木下坂で、公園に沿って六本木6丁目から広尾橋に抜ける道となっている。この北側に備中足守藩の木下家の上屋敷がありその門前に面していたため、こうよばれるようになった。足守藩木下家は豊臣秀吉室の北政所の兄で播磨国姫路城主2万5千石の木下家定が、1601年 (慶長6年) に備中足守に転封され立藩。1608年 (慶長13年) に家定の死去、江戸幕府は遺領を子の勝俊と利房に分与するよう指示したが、勝俊がこれを無視し、独占したことから1609年 (慶長14年) に改易された。翌年には姻戚にあたる浅野長政の次男の長晟が入部したが、1613年 (慶長18年) に兄の幸長が死去すると浅野宗家と本藩の紀州藩を相続したため、足守は一時的に公儀御料となった。1615年 (元和元年) には木下利房が大坂の陣の功により足守に入部。これ以後江戸時代を通じて木下家が12代、256年間在封した。足守藩からは幕末に適塾を開いた緒方洪庵が出ている。1871年 (明治4年) 廃藩置県となり、足守県・深津県・小田県を経て岡山県に編入。

広尾稲荷神社

慶長年間徳川二代将軍秀忠の勧請と伝えられる。この頃、麻布広尾は萩の名所でこの神社は「ハギナメ稲荷」と呼ばれ、可憐な萩が地をナメル様に咲き乱れていたそうだ。商売繁昌、五穀豊穣、火伏の神として信仰を聚めている。拝殿天井には廣尾稲荷拝殿天井墨龍図 高橋由一筆が公開されている。1845年 (弘化2 年) に青山火事によって社殿が焼失し、二年後に社殿を再建した際に、この近くの堀田摂津守下屋敷に住んでいた、後に日本で最初の洋画家と言われる高橋由一が20才の時に拝殿天井に墨龍画を描いていたもの。拝殿は関東大震災、太平洋戦争の戦禍を逃れた貴重な文化財だ。

広尾の庚申塔

広尾稲荷神社の本殿裏手の道路に面した石垣に庚申塚があるのを見つけた。三基の方形角柱の笠塔婆型の庚申塔で、広尾稲荷神社の別当寺であった千蔵寺により、講の人々の浄財を得て建てられたと伝わる。中央の庚申塔はには1690年 (元禄3年)、左の塔は1696年 (元禄9年) に造られたもの。右の塔は摩滅のため年代不詳だが、その状態から推測すると他の2基よりも古い可能性がある。



明治通り広尾方面、南に進む


青木坂

有栖川宮記念公園の南側、明治通りの北側,天現寺傍からフランス大使館 (写真左下) の手前までのかなり急な坂 (高低差6m平均斜度3.1度) が青木坂。江戸時代中期以後 北側に旗本青木氏の屋敷があったために青木坂呼ばれた。又は富士見坂とも呼ばれていた。

新富士見坂

青木坂から1ブロック北に青木坂に並行して坂道がある。新富士見坂という。江戸時代からあった富士見坂とは別に明治末大正ごろに開かれた坂で冨士がよく見えるための名であったという。 この江戸時代の富士見坂とは、先程の青木坂の事。

天現寺

青木坂の坂下には天現寺がある。寺の前は天現寺交差点で、東京で働いている時代には、世田谷から恵比寿のオフィスには自転車で毎日通った道。天現寺の名は知っていたが、訪れるのは初めてだ。変わった様相の狛犬が置かれている。犬よりは虎、ライオン、沖縄のシーサーに近い。狛犬は古来海外より持ち込まれた文化だが、当時は獅子だったろうが、日本では狛犬と変化している。
ここでも梅が咲き始めていた。

新坂 (南麻布)

天現寺前の明治通りを少し東に行くと、有栖川宮記念公園の東、先程通った南部坂の上に通じる登りの坂道がある。新坂と呼ばれ、パキスタン大使館とフィンランド大使館の間を通っている。東京には数多くの新坂が存在する。街ができた後にできた新しい坂の意味で大体は江戸時代後期、明治/大正時代に作られている。ここの新坂は開かれたのは古く1699年 (元禄12年) だそうだ。もっとも造られた当時は新しい坂だったのだが、これはこの地域の街造りが比較的早かったとも言える。
坂の途中にあったフィンランド大使館。建物の壁面には緑色のトナカイをシンボルが見える。

阿衡坂 (あこうざか)

フィンランド大使館横から本村小学校前 (写真では坂道脇の建物) までは下り坂になっている。阿衡坂という。本村小学校一帯は、江戸時代初期には保科肥後守の下屋敷であった。保科正之は2代将軍秀忠の実子で高遠藩主保科家の養子となった。秀忠は彼の性が温厚明敏であることを認め、徳川将軍の侍従として、中国でいう“阿衡”(天子の補佐役=摂政または宰相の異称)の職にあった。これが坂名のついた由来。この人物がよほど謙虚誠実で、庶民や官僚に敬愛されていたことが分かる。

奴坂 (谷小坂)

阿衡坂の道を下ると今度は登り坂に変わる。ここからの道が奴坂となる。坂の名の由来には幾つか説あるそうだ。一つが竹ヶ谷の小坂で「谷小坂」、「薬王坂」がなまりやっこう坂と呼ばれるようになった。又、奴がこの付近に多く住んでいたからともいう説もある。

薬園坂 (御薬園坂、御薬苑坂、相模殿坂)

奴坂を登ると三叉路に突き当たる。右に進むと明治通りへ下る道がある。この道の西には江戸時代、1638年 (寛永15年) に初めて設けられた御薬園を設けた。これが麻布御薬園 (麻布南薬園) で、この坂が薬園坂と呼ばれることになった。麻布御薬園は後に徳川綱吉の白金御殿拡張の為に廃止され、1684年 (貞享元年) に、小石川御薬園に移っている。薬園坂は、これがなまって役人坂・役員坂とも呼ばれる。坂道沿いにはイランイスラム共和国大使館があり、塀には国の名所を紹介した大きな絵がいくつも掲げられている。
江戸名所図会にある薬園坂

釣堀坂

薬園坂の途中から、先程通った新坂に向かって細い路地がある。急な坂を下ると、今度は急な登り坂になる。この地は谷あいだった所で、以前は釣堀があったそうだ。それが坂名になった。現在では釣堀は埋められて団地になっている。

絶江坂 (ぜっこうざか)

薬園坂の東側に並行して走る坂。1654年 (承応2年)に、坂の東側へ赤坂から曹渓寺が移転して来た。その初代和尚絶江が名僧で付近の地名となり坂名に変ったという。

ここで四時半になった。東京では5時には暗くなってしまう。ここで今日は打ち止めにした方が良いという事で、これから東新宿のホテルに向かう。

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