Okinawa 沖縄 #2 Day 39 (11/09/20) 旧東風平 (2) Tomoyose Hamlet 友寄集落
友寄集落 (ともよせ)
- 押上森御嶽 (ウシヌヂノモイウタキ)
- 島之殿 (シマヌトゥン)
- 今帰仁之嶽 (ナカジンヌタキ)
- フカタイ火の神?
- 百々蔵之殿 / 当山井 / 座敷 (ザシチ) 火の神
- ビジュル
- 神屋
- アダンナガー (ウブガー)
- 神屋
- 野呂井 (ノロガー)
- 喜座間井戸 (キザマガー)
- 村屋跡 (ムラヤー)
- 公民館 (製糖所跡 サーターヤー)
- 馬場公園 (馬場跡 ウマィー)
- 南之御嶽 (フェーヌウタキ)
- 農村公園
- 前原井(二班ヌカー、ンーダガー)
- 神屋
友寄集落 (ともよせ)
昨日訪れた外間集落集落 (ほかま) から、その隣にある宣次集落 (ぎし) の北側を超えて友寄集落を巡る。この友寄集落に関してはインターネットでは全く情報がなく、図書館にある「東風平村史」が唯一の情報源だ。とは言ってもこの集落に関しては数ページしかなく、文化財についてはあまり情報はない。文化財の内、幾つかの御嶽 (ウタキ) と殿 (トゥン) が大雑把な地図に載っていた。はっきりとした所在地を特定できるほどのものではないので、実際には現地でその辺りを探してみつけるしかないだろう。
友寄集落は東風平では比較的大きな方の集落ではあるが、ここ100年間では人口は3倍にしか増えていない。他の集落と同じように人口が増え出したのは沖縄返還以降になる。いつ頃から、そして何故増えたのかは興味あるが、まだその資料類については探しきれていないので、今後の課題の一つ。ここ10年では人口は微減に向かっているようだ。
友寄集落の始まりについて解説はなく、ただ伝承の系譜がいくつか載っていた。北山王の子孫や察度王の子孫、南山王の汪応祖の子供や第一尚氏最後の王の尚徳の孫など、どれをとっても立派な祖先となっている。これはどこの集落でも同じようなものが伝承として残っているので、信憑性は低いのだろう。
この集落も標高60−70mの小高い丘陵 (ウガン森) の斜面に集落が広がっている。(集落の南側から撮った写真で、丘陵が集落の場所)
集落はそれほどキツくはないのだが、やはり坂道が多い。
文化財の場所が特定できていないので、今日は徒歩ではなく自転車で以前の集落があった場所にある路地をできるだけ多く巡り、文化財探しをした。「東風平村史」には次の拝所などが記載されている。この内どれぐらい見つけることができるだろうか。
- 御嶽 (ウタキ): 押上森御嶽 (ウシヌヂノモイウタキ)
- 殿 (トゥン): 百々蔵之殿 (ムムクラヌトゥン)、島之殿 (シマヌトゥン)、座敷之嶽
- 拝所: ウテンチヂダキ、オフタキ (ウシヌギヌオタキ)、三天嶽 ミテンダキ (フスチヂダキ)、クバヌウタキ、へーノタキ、ナカジンウタキ、ビジュル、南之御嶽
- 泉井: アダンナガー (ウブガー)、喜座間ガー、ンダガー、カサイガー、クシバルガー、メーバルガー
集落を北側から巡り終わり、見つけた文化財は下の走行ログにある。思っていた以上に見つけることができた。
押上森御嶽 (ウシヌヂノモイウタキ)
集落の北側から回り始めた。北側は東風平町住宅街となっている。
この地域にはクバ山があったのだが現在は整地されて住宅街になっており、山らしきものは残っていない。
押上森御嶽 (ウシヌヂノモイウタキ)
ここで押上森御嶽 (ウシヌヂノモイウタキ) の場所を年配の男性に聞き、教えてもらった。集落が出来た頃はこの北側は森に囲まれて、御嶽のある聖域であった。ここに幾つか拝所などがある。部落にとって最も大切な御嶽があった場所。今でも集落の人たちは御願 (ウガン) を続けているそうだ。この押上森御嶽は金満御嶽とも呼ばれている。
同じ場所にミティン嶽もあるそうだが、押上森御嶽の前に拝所がある。これがそうなのだろうか? 拝所としての井戸の形式保存なのだが...
島之殿 (シマヌトゥン)
押上森御嶽 (ウシヌヂノモイウタキ) のすぐそばに御願所 (ウガンジョ) がある。 御願所の名前を書いた札がある。ほとんど消えかかっているのだが「友寄根所国元」と読める。つまり、友寄集落を始めたリーダーの門中の根所。資料では島之殿 (シマヌトゥン) が根所となっていたので、ここが友寄集落の大切な殿 (トゥン) であろう。
百々蔵之殿 (ムムクラヌトゥン)、座敷之嶽、クバ之御嶽
押上森御嶽 (ウシヌヂノモイウタキ) の近くには百々蔵之殿 (ムムクラヌトゥン)と座敷之嶽 (ザシチヌタキ) とクバ之御嶽があるはず。探すと拝所を3つ見つけた。このどれがそれに該当するのかはわからなかった。誰かに聞いてみたいのだが、ほとんど人が歩いていない。若い人に聞いてもほとんどのケース知らない。(後で調べるとそのいずれでもなかったが、なまえがわかったところもある)
今帰仁之嶽 (ナカジンヌタキ)
まず出会したのがこれで、空き地の上に登る為のブロックがある。拝所だろう。果たしてそうだった。ここは先ほどのクバ山跡に近いので、クバ之御嶽ではないかと思われる。後で調べると今帰仁之嶽 (ナカジンヌタキ) であった。
フカタイ火の神?
更に別の場所に空き地の上に登る道がある。ここも拝所ではないかと言ってみるとやはり祠があった。消去法でいくと、ここが座敷之嶽ではないかと思ったのだが、座敷之嶽は別の場所にある。ここへの途中の近く神屋があり、フカタイ火の神と地図では書かれていた。ここがそのフカタイ火の神ではないだろうか?
百々蔵之殿 / 当山井 / 座敷 (ザシチ) 火の神
この祠のあるところから、道路を隔てたところに祠と神屋がある。綺麗に整備されている。入り口もゲートになっている。この拝所の方が先ほどの拝所より大切にされているようなので、百々蔵之殿 (ムムクラヌトゥン) ではないかと思う。(この後で確認をするとそうだった) 殿に行こうとしたのだが、ゲートが施錠されており、祠に行くことはできなかった。地図ではこの場所には当山井と座敷 (ザシチ) 火の神もここにあるはずだが.... (再訪して公民館でカギを貸してくれれば、中に入ってみたい)
ンダガー
百々蔵之殿 / 当山井であろう場所の近くに井戸跡があると地図に載っていた。その場所に行くが見当たらない。そこに住んでいるおばあに井戸跡がこの近辺にあるかと聞くも、聞いたことがないという。これはいつも経験する返事。この様なマイナーな井戸跡は地元の人でも、なかなか知っている人は少ない。
ビジュル
集落があった丘陵の斜面を降りて行く途中に拝所を見つけた。ビジュルだ。主に沖縄本島でみられる霊石信仰で、豊作、豊漁、子授けなど様々な祈願がなされる。16羅漢の一つの賓頭盧 (びんずる) がなまった言い方で、多くは人の形をした自然石がティラと呼ばれる洞穴などで祀られている。戦前は、この場所にはビジュル森があり、その中にビジュルがあった。現在は住宅街になっており、その一角に祠があり、その中に平べったい霊石 (ビジュル) が置かれている。今帰仁と東り方の遥拝所でもある。製糖が終わる頃に行われる畦払い (アブシバレー) の時、旧暦5月5日に拝まれている。旧東風平町には、この友寄以外に宣次集落と世名城集落の二か所にビジュルがある。
ビジュルの近くにあった神屋。どこの門中の神屋かはわからない。
アダンナガー (ウブガー)
更に下に降りていく途中に、拝所としての井戸がある。コンクリートの建物で囲われている。産井 (ウブガー) とも言われていることから、集落では正月の初水や出産時に使われた重要な井戸。まだ何かに使われている様子。アダンナガーとはどのような意味なのだろうか?アダンはかつては実を食していた沖縄特有の植物だが、この植物と関係があるのだろうか?
アダンナガーの前にある神屋。
野呂井 (ノロガー)
更に少し下ると井戸跡らしきものがあった。祠まで造られているので大切な井戸であったのだろう。ンダガー、カサイガー、クシバルガー、メーバルガーのどれかなのだろうか?この井戸がある地域のかつての呼び名を調べたら東原でクシバルガーは後原井と書くだろうし、後原はもっと北のほうにあるから、ここはクシバルガーではないだろう。メーバルガーは前原井であろう。友寄には前原という地区はなかった。ンダガー、カサイガーはどのような漢字で書くのか想像もつかない。後で分かったのだが、ここは野呂井 (ノロガー) であった。
喜座間井戸 (キザマガー)
更に降りるともう一つ井戸がある。アダンナガーと同じように大切に保存されて、拝所も併設されている。
村屋跡 (ムラヤー)
喜座間井戸の前が、かつて村屋があった場所 (地元の人に教えてもらった) で、現在は柿の木学童クラブになっている。親が就労で子供の面倒が見れない時間 (放課後や夏休み) に小学校に通う子供を預かる児童施設で、八重瀬町は8つの学童クラブを運営している。
ここで集落巡りから外れるのだが、この児童クラブに興味がわいた。これに関連した沖縄の課題について少し調べてみたので、触れておこう。先日ニュースで沖縄市の待機児童の問題が取り上げられていた。沖縄は全国の他都道府県に比べて待機児童が多い。人口が増え続けているが、社会サービスがそれに追いついていない。
待機児童数の統計が労働厚生省から公開されている。それによれば沖縄は全国都道府県で待機児童の数は東京都に次いで多く、待機児童率は全国トップとなっている。更に市区町村レベルでの統計では50人以上の待機児童がいるのは全国で93市区町村あり、そのうち13市区町村が在沖縄県となっている。今訪れている八重瀬町も含まれている。他府県で上位を占めているのは県庁所在地などの大都市が多いのだが、沖縄の場合は小さな市町村までが入っている。これも他都道府県に比較して突出している。沖縄では大きな社会問題となっている。
一般的には沖縄は那覇以外はおじいおばあとの三世代家族などのイメージがあり、両親が就労していてもおじいおばあが面倒を見てくれるのではないかとも思うのだが、1972年に沖縄の本土復帰を契機として、急激な人口増加が進み、世帯あたりの人数も今では全国平均を上回ってはいるものの数年遅れのような感じで他の都道府県と同じようになってきている。沖縄も核家族化が進んでいる。この中で大きな要因はひとり親家族が多いということだ。
上の表も下の表も沖縄県が公表しているのだが、出現率の数字が異なっている。ただ、ひとり親世帯の出現率は全国平均の2倍にもなっている。これにプラスして労働環境や教育環境により、子供の貧困化が大きな社会問題だ。
このひとり親の原因の80%が離婚によるもの。沖縄県の2017年の離婚件数は3,494件で、離婚率 (人口千人あたりの離婚件数) は 2.44で、離婚率は1965年頃から全国平均を上回るようになり、2017年は 全国平均より0.74上回った。全国順位も2002年を除き、1985年以降連続して1位となっている。
参考に沖縄労働局が出している「沖縄県の働く女性の現状と課題」を載せておく。沖縄における状況がハイレベルで見える資料だ。最後のページには課題として女性が働き続けるために、家族・会社・職場について必要なこととして「保育所や児童クラブなど子供を預けられる環境の整備」がトップとして断トツで72%の働く意志のある女性が望んでいるとなっている。(文字が小さく見えにくいが、スライドをクリックすると拡大画像になる。)
訪問記に戻る。
公民館 (製糖所跡 サーターヤー)
かつての集落の南にある。公民館に人がいたので、ここはかつては何だったのかを聞くと、製糖所跡 (サーターヤー) だったと教えてくれた。
今でもここより南側は饒波川を挟んでさとうきび畑が広がっている。この辺りは何百年も変わっていないのだろう。
馬場公園 (馬場跡 ウマィー)
公民館のすぐ前が馬場公園。かつての馬場 (ウマィー) があった場所だ。200m程の直線コースが公園として残っている。ここで馬の調教や競争が行われていたのだ。
この馬場公園には大きな獅子のモニュメントがあり、子供の滑り台になっている。友寄の獅子舞は有名らしい。琉球王朝時代に作られた獅子が戦前まで祭りに使われていたそうだ。その由来は当時天然痘が流行し、死者が多く出たため村の魔除けの守護神として製作されたものと言われている。初代の獅子は今次大戦で焼失していまい、現在の獅子は1968年に作られたもの。
南之御嶽 (フェーヌウタキ)
公民から馬場を歩き、その終点に拝所がある。地図から見るとここが南之御嶽 沖縄では東は「あがり」、西は「いり」、南は「ふぇー」、北は「にし」という。
農村公園
南之御嶽 (フェーヌウタキ) から更に南に下ったところは一面さとうきび畑だ。その中に農村公園がある。ただの広場で、拝所などはなかった。多分、想像するにここも製糖所跡 (サーターヤー) だったのではないかと思う。
前原井 (メーバルガー)
さとうきび畑の中を自転車で一周した後、再度、もと来た集落の方子に戻る。ちょうど馬場公園の東南のところに井戸跡が残っている。名前はどこにも書かれていないのだが、石柱に1949年と彫られている。戦後、捕虜収容所からこの地に帰ってきた集落の人が、井戸を綺麗にして拝所として整備したのだろう。ちょっとした広場になっている。このすぐ南がさとうきび畑なので、仕事を終えた農民たちが用具をここで洗って家に帰っていった様子が浮かぶ。後で調べて名前がわかった。前原井 (メーバルガー) で二班ヌカーとかンーダガーメーバルガーとも呼ばれている。
神屋
集落では今まで紹介した拝所以外にもう二つ神屋を見つけた。それぞれの門中の祖先を祀っているのだろう。
これで友寄集落巡りを終える。資料が少なかった割には、半分ぐらいの文化財を見つけ、触れることができた。それぞれの詳細については知り得ないのだが、集落を巡ると、その文化財と集落との位置関係などがよくわかり、当時の集落の人々の生活が浮かんでくるようだ。
参考文献
- 東風平村史 (1976 知念 善栄∥編 東風平村役所)
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