Okinawa 沖縄 #2 Day 38 (10/09/20) 旧東風平 (1) Hokama Hamlet 外間集落

八重瀬町 東風平村 外間集落 (ほかま)

  • 宇平橋
  • 外間公民館
  • 外間農村公園 (マーカー、後之川、中之殿川、外間腹、下茂腹、上里腹、中之殿)
  • 安座名のトモヤー
  • 中之井 (ナカヌカー) [10月13日 訪問]
  • 前之井 (メーヌカー)
  • 北谷井 (チャタンカー)
  • 今帰仁井 (ナキジンカー)
  • 神屋 (上元ヌカー、伊礼ヌカー)

豊見城市の文化財巡りを8月1日に終えて、次は八重瀬町を巡ろうと、事前に八重瀬町の文化財やそれぞれの集落の歴史などを調べるために図書館に行こうとしたのだが、図書館は閉鎖になっている。新型コロナ感染が沖縄で急速に拡大しているために、沖縄では緊急事態宣言が行われ、ほとんどの公共施設が二週間閉鎖となった。八重瀬町のホームページでは文化財の紹介はほとんどなく、他の行政地区に比べても非常に貧弱なものであった。もっと詳しく知るには、町が発行している村史などを参考にしなければならないので、図書館の閉鎖は痛い。残念なのは八重瀬町は文化財に対しての想いは強くないことだ。ホームページの内容では地元の人たちでも故郷にはどの様な文化財があるかも認識できない程度だ。この閉鎖の二週間の期間は昨年訪れた東海道の旅紀行で未完成のものを完成させることにした。この二週間我慢をしたのだが、新型コロナの拡大はさらに拡大して、陽性者数は人口比率では日本では最悪の県となり、更に二週間の自粛が延長された。全国的な自粛解除で観光客が沖縄に戻ってきたことと、米軍基地での感染拡大が沖縄県の感染問題の原因と言われている。一時的に観光客も戻り始め、国際通りにも人が増え始めたが、この約1ヶ月の自粛要請で、国際通りはまた閑古鳥の状況に戻ってしまっている。沖縄は観光が主要な産業なのでこの影響は非常に大きい。ただ、地元の人々は本土の東京や大阪などで報道されているような、ピリピリした感じではなく、パニックにはならず穏やかに生活をしている。新型コロナの影響は個人的にも出てきている。それは大学の公開講座の実施が後期も見送られることになった。来年の4月まで大学の講座聴講は我慢しなければならない。それまでにできるだけ、色庵なところを訪問し、事前知識をつけて来年度からの大学講座に備えることにする。


八重瀬町

やっと昨日の9月9日から図書館で書籍の閲覧が再開された。雨が降っていたが、とにかく図書館で八重瀬町の町史を見てみることにした。図書館には八重瀬町としての町史はなく、東風平村史と具志頭村史が別々になっていた。

八重瀬町は東風平 (こちんだ) 町と具志頭 (ぐしちゃん) 村が2006年に合併してできた町だ。2002年から、東風平町、具志頭村、南風原町、大里村の4町村の合併構想を協議していたのだが、まずは南風原町が協議から離脱、大里村は玉城村・佐敷町・知念村の合併協議に参加し2006年南城市を誕生させた。そして、残った東風平町、具志頭村で合併して八重瀬町となった経緯がある。八重瀬町の名前は公募で選ばれ、富盛 (ともり) にある八重瀬岳から来ている。資料ではこの八重瀬という地名は察度王統時代には汪英紫と呼ばれたと記載がある。汪英紫 (おうえいじ) は、諸説あるが、南山王になる前はこの八重瀬岳にあった八重瀬城の城主であった。汪英紫も当て字であったので、八重瀬が汪英紫となったのか、汪英紫が八重瀬となったのかは分からなかった。

八重瀬町となったのだが、依然として旧東風平町と旧具志頭村は一体化しているようには見えず、町民はそれぞれが以前のままで生活しているように思える。集落で会った人は、「以前の東風平町のときの方が良かった、八重瀬町というのにはまだ馴染めていない」とも言っていた。人口は旧東風平町が旧具志頭村に比べ3倍になっている。那覇都市圏への距離がこの二つの地区の格差を生んでいるのかもしれない。


旧東風平町

東風平村史に旧東風平町の人口統計があった。明治6年 (1873) から昭和47年 (1972年) まで100年間のの各村の人口推移が記載されていた。明治16年では5,106人、沖縄が日本に返還された昭和47年で9,764人で約1.9倍に人口が増えている。

この1.9倍という数字が大きいのか、小さいのかの判断はつかないので同じ時期の日本と沖縄の人口について調べてみた。

  • 明治16年 日本全国: 37百万人、沖縄: 36万人  
  • 昭和50年 日本全国: 1億人 (2.7倍)、沖縄: 100万人 (2.8倍)

からみると、増加率は日本全国や沖縄県の平均に比べても低いことがわかる。昭和に入ってからはあまり人口の増加は見られない。旧東風平町の1972年から2006年までの人口データが見つからなかったのだが、沖縄返還以降この期間に人口が増えている。





八重瀬町 東風平村 外間集落 (ほかま)

沖縄集落訪問を今日から再開するのだが、まずは一番近い場所にある外間集落に行くことにした。東風平村は琉球王朝時代は東風平間切に属し、1611年の慶長検地の際には5村から成り立っており、後に新城・東風平・友利・当銘・与那城・志多伯・赤嶺・岸本の8村となる。 まだこの時は外間は友利、宜寿次も含め真和志間切に属しており、後に東風平村に編入となる。その他、小城も豊見城間切から、山川を南風原間切から編入される。高良・伊覇を新設し新城を復帰させ岸本・赤嶺を廃止。1903年、当銘と小城は志多伯へ、高良は世名城へ、外間は宜寿次へそれぞれ合併。大字は友寄・世名城・富盛・東風平・志多伯・宜寿次、小字は小城・当銘・外間・高良・伊覇の11字となる。 つまり、外間は友寄に属していたわけだが、1947年に従来の6字 (大字) 制から12字になる。1948年には屋宜原が東風平から分立して13字となった。この体制が2006年具志頭村と合併し八重瀬町となるまで続いた。


図書館には東風平村史以外にこの外間集落のみを扱った「字誌 外間」もあり、ここに詳しく、外間集落の歴史が書かれてあった。「東風平村史」は各字に関しては簡単にしか書かれておらず、「字誌 外間」は非常に参考になった。字富盛と字当銘の村史も発行されているそうだが、図書館には「富盛字誌」と「字誌 外間」しか保管されていなかった。ともに2004年に発行されたので、八重瀬町になる前のものだ。字宜次、字東風平、字世名城、字小城も村史に取り組んでいるそうだが、まだ発行されていない。

「字誌 外間」によれば、この外間集落は琉球王朝初期には今帰仁と呼ばれていた。集落の起源は今帰仁城主であった今帰仁按司が初代北山王となった怕尼芝により滅ぼされた際に、その一族が逃れこの外間に住み始め、屋号をアザナ (安座名) としたとされている。この安座名の門中は現在でも外間に残っており、その祖先には第一尚氏最後の王の尚徳王の守役についておった者もおり、金丸のクーデターのときに尚徳王が久高島からこのアザナにかつての守役を頼って身を寄せ数ヶ月後に亡くなったと伝わっている。この尚徳王の最後については諸説あり、これが本当かどうかは分からない。「字誌 外間」には尚徳王が久高島に行っていた理由についても新しい説が載っていた。通説 (?) では久高島のノロである愛人に会っていたとされているが、「字誌 外間」では先に行われた喜界島遠征時の戦死者の慰霊に行っていたとされている。この尚徳王は歴史上は暴君とされているが、これはクーデターで政権を奪った第二尚氏の都合良い編纂のものなので、信憑性は薄い。いろいろな研究書を見る限りでは、尚徳王はまともな王であったような気がする。この安座名家はこの地に移ってきた後に、察度王の側室や尚真王の側室を出したとされている。アザナの屋号はこの家が首里城にあったアザナ (物見台) を管理していた事からつけられられたともされている。

祖先宝鑑には外間の国元の様々な伝承が載っている。このような系譜は後に作られているので、信憑性はかなり薄いと思われるが、どの系譜も権威づけのためか天孫氏や英祖などに繋がるようになっている。この外間の始まりは北山の今帰仁の子供というのが下の図の真ん中のもの。

外間集落の人口は廃藩置県の際には200人46世帯という小さな集落であった。その後、沖縄返還の1973年までの100年間はほとんど増減がない集落であった。返還後人口は5倍にも膨れ上がったが2007年からは人口の減少が続いている。これは那覇に近い地域と対照的な傾向で、沖縄全体では人口は増加傾向だが、離れた集落は日本本土と同じように過疎化、少子化の問題がある。

外間は沖縄戦直後は二番目に小さな集落だったのが現在は下から五番目になっている。那覇に一番近いので人口の増加率は他の集落よりは比較的大きい

東風平村史に掲載されている志した外間の拝所

  • 殿: 外間之殿 (ホカマヌトゥン)アザナ之殿 (アザナヌトゥン)、仲村渠之殿 (ナカンダカリヌトゥン)、下茂之殿
  • 泉井: マー井前之井 (メーヌカー)字の中央井 (中之井)後之井 (クシヌカー)今帰仁井 (ナキジンカー)



宇平橋 (ウフィ) 

字外間は八重瀬町の一番北に位置して南風原町と豊見城市に隣接している。現在住んでいるところから数キロと非常に近い。まずはその境界線にある宇平 (ウフィ) 橋に向かう。この宇平橋がある交差点が字の境になる。そのせいか、豊見城市と南風原町はここを文化財としては紹介しているが、八重瀬町では名前は載せているが特に文化財として紹介はしていない。宇平橋には旧ケイビン鉄道駅跡、琉球王朝時代の橋の完成碑があるが、境界線の関係で二つの文化財が八重瀬町側には無いのが理由だろう。

宇平橋から少し進むと前方に上り坂が見えてきた。この上り坂の右一帯が外間集落があった場所だ。外間集落は他の集落と同じく、丘陵の高台からその斜面に広がっている。旧東風平町にあったかつての集落のすべては、同じく丘陵地に位置している。

集落内は緩やかな坂道が何本も通っている。

ここで沖縄様式ではあるが、珍しく二階建ての家を見つけた。

いつも通りに公民館に行き、そこに自転車を停めて徒歩にて巡る。

「字誌 外間」に旧9月9日に巡る7つの拝所の地図が掲載されていた。番号のみ書かれてあり、名前は書かれていない。御嶽なのか、殿なのか、井戸なのかも分からない。ともかく現地に行ってみることにした。順不同で訪れた。旧9月9日は「8月のカー拝み」という祭祀であるので、この7つの拝所はおそらく井戸ではないだろうか?


外間公民館 (2)

現在の公民館は丘陵の上にある。もともとはサーターヤーであったそうだ。ここに拝所があるとなっているのだが、それらしきものは見当たらない。


外間農村公園 (1) 外間之殿 (ホカマヌトゥン)

次に公民館の近くで拝所があるとされている公園に向かった。それほど大きな公園ではない。

そこに集合拝所が造られていた。井戸の拝所はマーカー、後之川、中之殿川、名は記載なき井戸の4つ。ここではカーを井ではなく川と書いている。その隣に三つの門中の御願所がある。外間腹、下茂腹、上里腹とある。腹は沖縄では門中の分家を意味する。同じ門中はその門中墓である亀甲墓に入る。亀甲墓は女性の子宮の形と言われており、その腹に戻るもしくは同じ腹から出てきたとして、分家を腹と呼ぶ。この3つの腹はそれぞれがこの外間集落の有力門中であった。特に外間門中は、現在の集落の名の「外間」の由来になっている。先にも書いたが、以前は今帰仁集落と呼ばれていたのだが、第二尚氏王朝後期にこの集落で火災が起こり、外間の屋敷のみ焼失を免れた。これ以降、縁起を担いで外間集落と名を変えたと伝わっている。右端には中之殿が祀られている。ここにはもともと何があったのかは不明だが、この中で最も重要な中之殿の跡だったかもしれない。東風平教育委員会編集の殿・御嶽・井戸調査報告書の地図では、ここが外間之殿 (ホカマヌトゥン) とされている。東風平村史にある中之殿は記載されとらず、中之殿と外間之殿は同一ではないかとも思う。

ここに祀られている井戸のマーカー、前之井(井戸と書かれている香炉)、後之井、は旧9月9日の8月カー拝みの日に御願されている。


安座名のトモヤー (7)

先に外間の始まりについて記載したが、外間集落はこの安座名門中から始まったと言われている。この安座名門中屋敷の入り口にトモヤーと呼ばれている拝所がある。トモヤーという言葉を初めて聞いたのだが、トモヤーという言葉は調べてもヒットしない。これが神屋なのか、殿なのか、それ以外のものなのかは分からなかった。これが安座名之殿である事は確認できた。初ウビー、5月/6月ウマチーに御願されている。

「字誌 外間」にはこの安座名屋敷内に井戸跡と按司墓があることが紹介されていたが、個人宅なので中に入ってみることは避けた。按司墓に祀られているのがこの国元なのだろう。

「字誌 外間」には安座名のトモヤー以外に外間のトヌヤー (写真左上)、下茂のトモヤー (写真右上)、仲本のトモヤー (写真左下) が紹介されていたが、実際にその屋号がある場所に行ってみたが写真の建物はなかった。写真右下は中之井 (ナカヌカー) だが見つからなかった。先程の農村公園の移設された拝所に外間の拝所、下茂の拝所、中之井があったので、移設されて祀られているのだろうか? 中之井は、後日、再度訪れて見つけることができた。(別途下に記載)

下茂之殿は下茂腹門中の殿で初ウビー、二十日正月、神シーミー、ンチャタカビ (シーミー前日)、5月/6月ウマチーに御願されている。


中之井 (ナカヌカー) 

後日、調べて、中之井 (ナカヌカー) の場所が分かり、10月13日に訪れた。井戸は無くなって、今は形式保存された拝所となっている。旧9月9日の8月カー拝みの日に御願されている。


五番と六番の拝所 (5、6)

この二つの拝所も見つからなかった。畑があるのだがそのどこかにあるのだろうか?


前之井 (メーヌカー) (4)

広場の前に井戸跡がある。香炉まであるので拝所としての井戸跡だ。旧9月9日の8月カー拝みの日に御願されている。


三番の拝所 (3)

ここもその場所には拝所らしきものはないのだが、小石を積み上げた所がある。ひょっとしてここだろうか?ただ香炉らしき者もないので、拝所ではないだろう。


これで旧9月9日 (8月カー拝み) に巡る7つの拝所の場所は巡ったが、半分も見つからなかった。これ以外に集落で見つけた拝所を紹介しよう。



北谷井 (チャタンカー)

宇平橋から元々の集落があった丘陵に登る前にある自動車修理工場の駐車場の端っこにある。香炉もなく拝所とはされていないのだろう。この地域は「外間の前」と呼ばれていた。外間集落から離れた原っぱだったのだが、ここに明治の廃藩置県で貧困化した旧士族が明治40年代に移住してきて屋取 (ヤードイ) 集落を造った。比較的新しい集落なので、拝所などは見当たらない。


今帰仁井 (ナキジンカー)

個人宅の駐車場の横にある。たまたまここに住んでいる人が自動車で帰ってきた。話をしてみたところ、井戸は駐車場の入り口にあったそうだが、駐車場を作るときに、井戸の香炉のみを脇に移したそうだ。名前は今帰仁井とは知らなかった。最もこれが今帰仁井と呼ばれていたかは明確ではないが、この前の坂道は今帰仁平 (ナキジンビラ) と呼ばれていたそうだ。他の井戸拝所と同様に旧9月9日の8月カー拝みの日に御願されている。


神屋 (上元ヌカー、伊礼ヌカー)

集落内に3つの神屋を見つけた。馴染めの二つは外間集落と宣次集落の境にあり、外も集落の神屋か宣次集落の神屋かはわからない。

これは火の神を祀った祠と井戸の形式保存された拝所がある。敷地内には神屋が建っている。後で分かったのだが、ここはどうも宣次集落の拝所の様だ。

変わった形をした石を祀っている。石の祠が二つ。神屋も建っている。

もう一つ神屋があったが敷地内なので、外から写真のみ。後で分かったのだが、ここもどうも宣次集落の拝所の様だ。

今日はこれで終了。再開しての初日なので、軽めに済ますことにする。1ヶ月前に比べて随分と暑さがおさまってきている。7月は自転車で走っていると全身汗でびしょびしょになっていたが、9月に入るとそこまでではなく、随分と快適に走れる気候になっている。多分、沖縄の夏は東京よりも過ごしやすいと思われる。家でもエアコンを使うのは7月と8月で、それ以外の季節は海風なのだろうか、窓を開けていれば風が入りエアコンなしでも過ごせる。誰かが言っていたのだが、近い将来沖縄は避暑地になるかもと....?


結局、見つからなかったのは仲村渠之殿 (ナカンダカリヌトゥン)だが、この拝所は5月/6月ウマチーに御願されているそうだ。


参考文献

  • 字誌 外間 (2004 字誌外間編集委員会∥編集 東風平町字外間)
  • 東風平村史 (1976 知念 善栄∥編 東風平村役所)
  • 殿・御嶽・井戸調査報告書 (2002 東風平町教育委員会)


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