Okinawa 沖縄 #2 Day 40 (12/09/20) 旧東風平 (3) Gishi Hamlet 宣次集落

宣次集落 (ぎし)

  • 子ヌ方の師子 (ニーヌファシーシ)
  • 卯ヌ方の獅子 (ウーヌファシーシ)
  • 酉ヌ方師子 (トゥイヌファシーシ)
  • 午ヌ方の師子 (ウマヌファシーシ)
  • ハンザヌカー
  • ビジュル (霊石)
  • 長田門原公園
  • 宣次集合拝所島尻方面遥拝所 (宣次森から移設)
  • 天続城 (宣次森から移設)
  • 大嶽 (ウフタキ 宣次森から移設)
  • ヨリアゲマウリの御伊部 (駕木森から移設)
  • 御殿之殿 (アガリトゥン 宣次森から移設)
  • 地頭三門 ( 宣次森から移設)
  • 東リマヌ御嶽 (ノル殿地の東リ森より移設)
  • 龕築之殿 (宣次森から移設)
  • 金満之御嶽 (カニマンヌウタキ 駕木森から移設)
  • 佐敷大里遥拝所 (宣次森から移設)
  • 内伊部 カネモウリの御伊部 (宣次森から移設)
  • 宣次公民館 (村屋跡 ムラヤー)、農村公園 (アシビナー跡)
  • ソージガー
  • 大井 (ウフガー) [10月13日 訪問]
  • 樋川井 (ヒーザガー)
  • 外間前の嶽
  • 集落内にあった神屋
  • 宣次球場 (拝所)
  • 製糖工場跡


宣次集落 (ぎし、ギッシ、ジッシ)

宣次集落は一昨日に訪れた外間集落のすぐ南にあり、同じ丘陵地から外間集落とは反対側の南斜面に広がっている。かつては「ぎ寿っ村」や「宣寿次村」と書かれていた。

かつての集落も隣接しており、一昨日に訪れた際に見つけた文化財は全て外間集落関連かと思っていたが、帰宅後調べると幾つかは宣次集落のものとわかった。これほどこの二つの集落は隣接していた。

この様に二つの集落が隣接していることは稀だが、今までも幾つかその様な集落があった。その様な集落の成り立ちを調べると分家として新しい集落を始めたとかで、何らかの関係がある。この宣次集落はどうだろう。「祖先宝鑑」には外間集落の始まりと全く同じ人物がその村始めとされている。この沢岻世主の七男 東風平按司が外間、宣次、東風平、伊覇集落を始めたとされていた。やはり関係があるのだろう。

宣次の人口は旧東風平町の中では真ん中ぐらいに位置している。他の集落と同様に沖縄の本土復帰の1972年以降に人口が増えてはいるが、50年間で2倍にしかなっていない。増加率としては少ない方だ。ここ10年は人口の減少が見られ、10年で10%も減少している。世帯数がほぼ横這いなので、世帯あたりの人数が減っている。核家族化と少子化が進んでいるのだろう。

この集落の文化財の情報はインターネットではほとんどなく、唯一出ていたのが石獅子に関してのみであった。東風平村史に載っていた御嶽、殿、井戸は以下の通り

  • 御嶽: 宣寿次森之御嶽 (ギシムイヌウタキ、現在は御願森御嶽と呼ばれている)、駕木森之御嶽 (カシキムイヌウタキ、現在は金満之御嶽と呼ばれている)
  • 殿: 頂城之殿 (テンチヂグシクヌトゥン)、御殿之殿 (アガリトゥン)、下之殿 (シチャトゥン)、龕築之殿ビジュル
  • 井戸: マーカーガー (在 外間)、ソージンガーウフガー

上記の拝所のうち、大雑把な地図に載っていたのは宣寿次森之御嶽、駕木森之御嶽、頂城之殿、御殿之殿、ビジュルの5つ。さあ、どれだけ見つかるだろうか?

東風平町教育委員会編集の「殿・御嶽・井戸調査報告書」では上記の他に以下の拝所を挙げている。

  • 御嶽: ハンザ御嶽、マーチュー公園、島尻方面への遙拝、ウサチ世金満御嶽、中之嶽
  • 殿: 東リマ之殿
  • 泉井: ハンナーガ-、上元之井 (根井)、ハンザ之井ヒージャガー、伊礼之井


今日の走行ログと訪問地


宣次の石獅子

宣次の石獅子は4体あり、昔から四隅番 (ユンシバン) と呼ばれていた。文字通り、集落の4隅で災厄避けの役割を果たしていた。十二支でそれぞれの方向を表している。十二支が出てきたので、沖縄方言での十二支を調べると

  • 子 (ニー)、丑 (ウシ)、寅 (トゥラ)、卯 (ウー)、辰 (タチ)、巳 (ミー)、午 (ウマ)、未 (フィチジ)、申 (サル)、酉 (トゥイ)、戌 (イン)、亥 (イー)

となる。日本語とほぼ同じで、沖縄なまりで読み方が少し変わっているぐらい。


子ヌ方の師子 (ニーヌファシーシ)

外間集落との境にある石獅子。西原町の運玉森 (ウンタマムイ) の方向に向いているそうだ。一昨日に見つけたのだが、てっきり外間の石獅子と思っていた。随分と風化が進み、これが石獅子と言われなければ判らないかもしれない。かろうじて顔の感じがわかる。


卯ヌ方の獅子 (ウーヌファシーシ)

子ヌ方の師子 (シーシ) がある住居の横に丘陵の林に入っていく道があり、100mも行かないところにもう一体の石獅子があった。この石獅子も運玉森 (ウンタマムイ) の方向に向いている。この石獅子は先ほどの子ヌ方の師子よりも風化が進んでいる。


酉ヌ方師子 (トゥイヌファシーシ)

丘陵を降り始めてすぐのところにある丘の上に焼き物が見えた。これが師子 (シーシ) だろう。丘を登ってみると、やはりそうだ。もともとの石獅子は沖縄戦で破壊されてしまい残っていない。今は素焼きの可愛らしい顔をしたシーシに代替わりをしている。八重瀬岳を向いている。八重瀬だけはかつてはフィーザン (火山) だったそうで、よく火災が起こったので、その火除け (火返し ヒケーシ) の役割を担っていた。


午ヌ方の師子 (ウマヌファシーシ)

この師子 (シーシ) も沖縄戦で消滅し、新しく作られている。子供のぬいぐるみぐらいの小さなシーシ。さとうきび畑の中に八重瀬岳を向いて立っている。ここがかつての宣次集落の南端だったのだろう。


ハンザヌカー

午ヌ方の師子 (ウマヌファシーシ) の すぐ近くにいぢの拝所がある。火の神を祀っている。


ビジュル (霊石)

旧東風平村の友寄、宣次集落、世名城集落の3か所にあるビジュルうちの一つ。ここも地図もなくよく見つけられたものだ。石の祠の香炉の奥に立っている石がビジュル。


長田門原公園

幾つかの御嶽と殿が集まっている宣次森 (ギシムイ)と駕木森 (カシキムイ) に来たのだが、現在は森はどこにもなく、白川ハイツという住宅街と長田門原公園となっている。宣次森 (ギシムイ) があった長田門原公園を注意深く一周したのだが、拝所らしきものは見つからなかった。


宣次集合拝所

拝所が見つからないので白川ハイツの住宅街も見て回ることにすると、住宅街の一角に広い広場にコンクリートの祠が幾つが建っているのを見つけた。集合拝所だ。御嶽や殿をここに集めているのだ。この場所は丘陵の上にあたり、かつては聖域としての森であったのだが、人口増加に対応するためにこの地を住宅造成工事で森が消滅。宣次森 (ギシムイ) と駕木森 (カシキムイ) に点在していた拝所も移設せざるを得なくなったのだろう。ここには「東風平村史」に掲載されていた御嶽と殿は下之殿 (シチャトゥン) 以外は全て集められている。よくここを見つけたものだ。ここに来なかったら、宣次集落の拝所はほとんど見つからなかったのだ。


島尻方面遥拝所 (宣次森から移設)


天続城 (宣次森から移設)

天続城と書かれている。「東風平町史」では頂城之殿 (テンチヂグシクヌトゥン) と紹介されている。上之殿とも呼ばれている。


大嶽 (ウフタキ 宣次森から移設)、ヨリアゲマウリの御伊部 (駕木森から移設)、御殿之殿 (アガリトゥン 宣次森から移設)、地頭三門 ( 宣次森から移設)

石の祠が二つ並んでいる。それぞれの祠には二つづつ拝所が祀られ、形式保存の井戸跡も隣接している。


東リマヌ御嶽 (ノル殿地の東リ森より移設)


龕築之殿 (宣次森から移設)、金満之御嶽 (カニマンヌウタキ 駕木森から移設)、佐敷大里遥拝所 (宣次森から移設)

金満之御嶽 (カニマンヌウタキ) は元々は駕木森之御嶽 (カシキムイヌウタキ) と呼ばれていた。


内伊部 カネモウリの御伊部 (宣次森から移設)


宣次公民館 (村屋跡 ムラヤー)、農村公園 (アシビナー跡)

丘陵の斜面に広がる集落を下ったところに公民館がある。ここはもと村屋 (ムラヤー) があった場所と地元のおばさんが教えてくれた。隣には農村公園と言って広場がある。ここは集落の行事が行われた遊び場 (アシビナー) があったところ。


ソージガー

公民館の裏手にフェンスで囲まれた拝所がある。井戸跡だ。ここであったおばさんにこの拝所としての井戸跡のことを尋ねたが、その様なものがあったとも気づかなかったという。(後でわかったのは、この井戸はソージガーと呼ばれている) 地元でもほとんどの人は、話題にならない限り、地元の文化財についてはあまり関心を持っていない。これは地元の人が悪いのではなく、文化財の整備をしていない八重瀬町の行政の問題も大きいと思っている。自論では地元の文化財を大切にしない行政は、その地域の歴史に関心が薄く、その住民に対しても優しくないことがおうおうにしてある。文化財をその地域の誇りとしてのアイデンテティーと考えていない。今まで那覇市、南風原町、与那原町、西原町、浦添市、宜野湾市、糸満市、南城市、西原町の文化財を巡って来たが、この八重瀬町程文化財整備に関心のない行政はなかった。少し残念な気がする。


宣次集落で見つけた他の文化財がある。


樋川井 (ヒーザガー)

多分 樋川井 (ヒージャガー) がこの地域ではヒーザガーと発音されていたのだろう。樋川井 (ヒージャガー) は樋を通して水を流す形式の井戸に使われているのでここもそうだったのだろう。現在は井戸はなくなっているのだが、形式保存されており、水場であったろう場所も残っている。


大井 (ウフガー) [10月13日 訪問]

樋川井 (ヒージャガー) のすぐ近くに大井 (ウフガー) があるはずなので探すが、それらしきものはこれしか見つからなかった。これだろうか?


外間前の嶽

外間の拝所がこの宣次集落の中にある。初めに見たときにはなぜ他の集落の拝所があるのかと疑問を持ったのだが、この二つの集落の起源は同じなのであり得ることだ。ここは元々は集落があったところではなく集落から丘陵の上に登った聖域であった場所。


集落内にあった神屋


宣次球場 (拝所)

集落を訪れる際には必ず公園にいく様にしている。公園は戦前には御嶽や殿、アシビナーやウマィーなどの公的施設、サーターヤー出会った場所を再利用していることがある。集落の南のさとうきび畑が始まるところに野球場があるので来てみた。ここがかつて何があったのかは判らないが、バックネット裏に拝所らしき建物がある。コンクリートで固められて入り口や窓はない。ただ、建物の一辺に香炉が置かれてある。やはり拝所だ。中に何があるのだろう?何故、入り口がないのだろう?不思議な拝所だ。


製糖工場跡

更に南に向かい字宣次のさとうきび畑の端に煙突が見えている。いってみるとレンが作りの高い煙突で、これは製糖工場の煙突であった。ちょうど沖縄戦が始まる前に、読谷村で製糖工場の建設が完成間近にその敷地を日本軍の飛行場として接収することになった。その製糖工場の設備を宣次集落住民が買い取り、製糖工場を建設し、無事に稼働。しかし、その直後に沖縄戦が始まり、稼働後わずか半年で戦争で破壊されてしまった。煙突は戦禍を潜り、無事に残っており、戦争遺構として保存されている。煙突には弾痕跡 (写真左下) が痛ましく残っていた。


これは文化財ではないのだが、道路の真ん中にニービ石が置かれている。時々見かけるのだが、何のために道路のど真ん中に置いているのだろう。

今日は昼過ぎに出発したので、これで精一杯で、これで終了として帰路に着く。


参考文献 

  • 東風平村史 (1976 知念 善栄∥編 東風平村役所)
  • 殿・御嶽・井戸調査報告書 (2002 東風平町教育委員会)


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