Kii Peninsula 紀伊半島 16/17 (23-24/12/19) 古市古墳群
[藤井寺市 古市古墳群]
津堂城山古墳 (允恭天皇藤井寺陵墓参考地)
雄略天皇 丹比高鷲原陵 (島泉丸山古墳)
- 島泉平塚古墳
- 隼人塚古墳 (雄略天皇陵陪塚い号)
岡ミサンザイ古墳 (仲哀天皇惠我長野西陵)
- 鉢塚古墳 (仲哀天皇陵陪塚)
蕃所山古墳
大鳥塚古墳
- 赤面山古墳
古室山古墳
松川塚古墳
三ツ塚古墳
- 助太山古墳
- 中山塚古墳
- 八島塚古墳)
仲津山古墳 (仲津姫命陵)
- 鍋塚古墳 (仲津山古墳 陪塚)
市ノ山古墳(允恭天皇 惠我長野北陵)
- 衣縫塚古墳 (允恭天皇陵陪塚ろ号)
- 宮の南塚古墳 (允恭天皇陵陪塚は号)
- 允恭天皇陵陪塚い号
野中宮山古墳
はざみ山古墳
[羽曳野市 古市古墳群]
誉田御廟山古墳 (応神天皇 恵我藻伏岡陵)
- 誉田丸山古墳 (応神天皇恵我藻伏崗陵域内陪塚)
- 二ツ塚古墳 (応神天皇恵我藻伏崗陵域内陪塚)
- 盾塚 (道明寺盾塚古墳公園、誉田御廟山古墳 陪墳) [未訪問]
- 東山古墳 (誉田御廟山古墳 陪墳)
- 東馬塚古墳 (応神天皇恵我藻伏崗陵陪塚い号)
- 栗塚古墳 (応神天皇恵我藻伏崗陵陪塚ろ号)
- 西馬塚古墳 (応神天皇恵我藻伏崗陵陪塚は号) [未訪問]
- サンド山古墳(応神天皇恵我藻伏崗陵陪塚へ号) [未訪問]
墓山古墳 (応神天皇恵我藻伏崗陵陪塚ほ号)
- 向墓山古墳 (応神天皇恵我藻伏崗陵陪塚に号) [未訪問]
- 浄元寺山古墳 (墓山古墳 陪塚)
- 野中古墳 (墓山古墳 陪塚)
白鳥陵古墳 (軽里大塚古墳)
西浦白髪山 (清寧天皇陵) 古墳
- 小白髪山古墳 (清寧天皇陵 陪塚)
峯ヶ塚古墳
小口山古墳
古市古墳群は藤井寺市と羽曳野市にまたがって、広がっている。23日と24日の二日間をかけてこの古墳群を巡った。まずは藤井寺市の古墳群をまわり、そして羽曳野市の古墳群へと移動。合計で37の古墳を見学をしたが、全てを見ることは時間がなく出来なかった。未訪問の古墳は12基であった。百舌鳥古墳群で大雨になり、午後がつぶれてしまったのが痛かった。次の機会に訪問する事にしよう。
[藤井寺市 古市古墳群]
津堂城山古墳 (允恭天皇藤井寺陵墓参考地)
古市古墳群では一番北にある前方後円墳で4世紀後半に築造されたと考えられている。被葬者は明確には分からないのだが、竪穴式石室と巨大な長持形石棺が発見された事により、宮内省は第19代允恭 (いんぎょう) 天皇の陵墓参考地として治定している。しかし、陪冢 [ばいちょう] が周辺に存在しない事と允恭天皇の在位時期と矛盾がある事から允恭天皇陵で無い可能性は高いと言われている。(宮内省はこの古墳とは別に、この後に訪れる市ノ山古墳を惠我長野北陵として允恭天皇陵に治定している。意図が良く分からないのだが....) 室町時代には古墳の地形を利用して三好氏の小山城が築かれていた。ここには、昨日、大阪に向かう途中、夕方に訪れたたのだが、薄暗くなっているので十分に見ることが出来なかった。今日再度訪問とした。昨日訪問した百舌鳥古墳群は9割方の古墳が宮内省管轄で柵で覆われて中に入れ無かったのだが、この古市古墳群では宮内省管轄のものはそれ程は多く無く、ここも公園になって自由に古墳に登る事が出来る。(これはこの後訪問する藤井寺にある古墳の多くが登ることが出来る。管轄する市によってこれほど違うのだろうか? 何故だろう。古墳はただの小山にしか見えず、近くまで行き実際にその中を歩いてみないと、実感がわかない。その意味では藤井寺の公開方式はありがたい。)
案内所があり、簡単ではあるがパネル展示がしてあった。
案内所の広場には、ここで見つかった石棺の複製が展示されてある。
雄略天皇 丹比高鷲原陵 (島泉丸山古墳) / 島泉平塚古墳
直径約75メートル・高さ8メートルの円墳。古墳時代中期の5世紀後半頃の築造と推定。被葬者は明らかでないが、既に江戸時代の文献でここを雄略天皇の陵墓との記述がある事から、宮内省により島泉平塚古墳と合わせて第21代雄略天皇の陵墓として丹比高鷲原陵 (たじひのたかわしのはらのみささぎ) として治定されている。(研究者の間では岡ミサンザイ古墳が雄略天皇の陵と主張している。)
[隼人塚古墳 (雄略天皇陵陪塚い号)]
雄略天皇陵の陪塚であるが、古墳のようなものは見当たらない。地図に示された所は住宅地になっており、古墳には辿りつけなかった。後程、衛星写真で見ると住宅に囲まれてた空き地が古墳跡で、インターネット上ではその場所の写真があった。日本書紀の記事にある雄略天皇に殉死した隼人の墓と想定されている。
岡ミサンザイ古墳 (仲哀天皇惠我長野西陵)
5世紀末葉の前方後円墳で、実際の被葬者は明らかでないが、江戸時代の文献でここを仲哀天皇との記述から、宮内省により恵我長野西陵 (えがのながののにしのみささぎ) として第14代仲哀天皇の陵に治定されている。上でも述べたように他の説では、ここが雄略天皇陵といわれる。仲哀天皇は実在していなかったとも言われており、築造年代も仲哀天皇の想定年代に合わないことから、現在では第21代雄略天皇や、同天皇と同一視される中国の宋書の倭国伝にあるワカタケル大王 (稲荷山古墳出土鉄剣銘) の倭王「武」の陵とする説が有力視されている。この岡ミサンザイ古墳は5世紀末の築造で百舌鳥/古市古墳群の最後の巨大古墳とされている。この古墳の建造以降、この地で巨大古墳が造られる事はなかった。
[鉢塚古墳 (岡ミサンザイ古墳陪塚)]
岡ミサンザイ古墳の陪塚と考えられている。
蕃所山古墳
5世紀後半に築造された直径22mの円墳で、陪塚では無く独立した墳墓と考えられている。近くにある応神天皇陵築造の際に使われた、土を運ぶ「モッコ」を埋めたとの言い伝えから、通称「モッコ塚」とも呼ばれている。
この古墳はここに住宅地を建設する際に保存することになり、住宅地の中で溶け込むようにアレンジされている。この保存のやり方は好感が持てる。
このすぐ近くには応神天皇陵があるのだが、そこは羽曳野市内。ここより南が羽曳野市となっている。羽曳野市の古墳群は後回しにして、まずは藤井寺市にある古墳から見てみる。
大鳥塚古墳
古墳時代中期の5世紀前葉頃の築造と推定される長さ110メートルの大型前方後円墳。当時のヤマト王権の政治階層が推し量れる古墳。ここで地元のじいさんから声をかけられた。古墳巡りをしているのなら案内するよと親切にも、それから1時間程付き合ってくれて、数カ所の古墳を案内して頂いた。恐縮していると、毎日この近くの古墳群を散歩しているので気にしなくて良いと言う。案内している最中にじいさんの知り合いに何人も出会う。皆さん散歩している。昔からこの古墳群は散歩コースになっているのだ。今年の夏に世界遺産になった後は、多くの人が訪れたそうだ。機会が有れば梅の季節の2月から桜の4月はとても綺麗なので、是非その季節に戻っておいでと言っていた。この古墳も自由に中に入れる様になっている。
[赤面山古墳 (大鳥塚古墳陪塚)]
出会ったじいさんに案内されこの古墳に来た。高速道路の高架下。あれが古墳跡と教えられた。言われなければただの盛土にしか見えない。高架下に古墳とは珍しい。一辺15メートルの方墳で大鳥塚古墳の陪塚と考えられている。
古室山古墳
じいさんに連れられ、次に行ったのがこの古室山古墳。立派な古墳。昭和30年には、つい先ほど訪れた赤面山古墳・大鳥塚古墳とこの後に行く助太山古墳・鍋塚古墳と共に古室山古墳群と言われていた。その後、他の古墳と併せて古市古墳群と呼ばれ今年世界遺産となった。4世紀末から5世紀初頭の築造と考えられ、長さ150メートルの前方後円墳。被葬者は不明。先に訪れた津堂城山古墳が長さ208メートルでほぼ同じ時期の築造。恐らく当時の為政者の頂点が津堂城山古墳に葬られ、その下のランクがこの古室山古墳に葬られたのではと思われる。
ここも自由に登れる。じいさんから登る事を勧められた。古墳の上からは大阪市、反対側は奈良の山々が一望できる。標高が約39メートルしか無いのだが、ここ一帯の国府台地の中でも高所にあたり、高いビルも無いので眺めは抜群だ。
ここでじいさんと別れ、教えられたすぐ北にある古墳と東側に3つ並んである古墳に行く。
松川塚古墳
元々は松川塚古墳を含めてこの近辺には13基ほどの古墳が存在し林古墳群と言われていたが、現在では松川塚古墳以外すべて消滅してしまった。5世紀後半に築造された1辺25mの方墳。ここも消滅してしまいそうなほど荒れ果てている。林古墳群の古墳は4世紀末から6世紀にかけて古墳築造を担った豪族である土師氏の古墳ではないかと考えられている。
三ツ塚古墳 (助太山古墳/中山塚古墳/八島塚古墳)
じいさんに教えられた三つ並んだ古墳は三ツ塚古墳と呼ばれている。東から順に、八島塚古墳 (右下)、中山塚古墳 (左下)、助太山古墳 (右中) と呼ばれ、前の二つは宮内省が管理し、助太山古墳のみが国の史跡に指定されている。八島塚古墳と中山塚古墳は墳丘が一辺50メートルの方墳。助太山古墳は一辺36メートルと、ひとまわり小さは方墳。三つの古墳は、濠を共有していた事と方形の墳丘の南辺が一直線に揃っている事から、ほぼ同時期に造られたと推測される。ただ、築造時期ははっきりはせず、5世紀代と7世紀代の二つの説がある。仲津山古墳の陪塚の可能性も言われているが築造時期に矛盾がある。
この付近に埴輪を焼いた窯跡が多数発見されている。この日に訪れた道明寺天満宮の入り口に復元された窯跡が展示してあった。先に訪れた三ツ塚古墳を含めた道明寺一帯は、「土師の里」と呼ばれ、土師氏が本拠地としていた。相撲で有名な野見宿禰が殉死者の代用品である埴輪を発明し、第11代天皇である垂仁天皇から土師職 (はじつかさ) を与えられ以後、土師連姓を与えられた。この窯跡も土師氏のものだったのかもしれない。
仲津山古墳 (仲津姫命陵)
4世紀後半から5世紀前半の築造と推定され、290メートルの前方後円墳で古市古墳群で2番目、全国でも9番目の大きさ。宮内省により仲姫命 (なかつひめのみこと 第15代応神天皇の皇后で仁徳天皇の母) の陵墓と治定されている。しかし、堤上で見つかった円筒埴輪の特徴から、円筒埴輪の製造時期が津堂城山古墳の物よりは後で、誉田御廟山古墳 (応神天皇陵) の物よりは前であるとみられ、4世紀後半に築造された古墳であると推定される。先に亡くなったはずの応神天皇の陵の築造推定時期よりもかなり前に築造されたことになり、天皇即位の順序と合わない事から、研究者はここが仲姫命の陵墓という宮内省の治定には大きな疑問が持っており、仲津山古墳は仲哀天皇陵ではないかという学説など諸説が展開されている。
ここは宮内省の治定で管理されており、中に入ることはできないのだが、空堀の外は管理外で地域住民の協力なのか藤井寺市の努力なのか周りに細い遊歩道が設けられて古墳の周りを散策できる様になっている。
今まで見てきた古墳の被葬者や築造時期が曖昧である原因は宮内省にある。宮内庁管轄の陵墓は一切発掘調査が認められていない。それにも関わらず宮内省は治定と言う便利な言葉を使い科学的な根拠もなく被葬者を決め付けている。
一体この宮内省とは何者なのだろうか。驚くことに初代天皇である神武天皇から全ての天皇の陵が治定されている。存在すら疑われる初期の天皇の陵もある。この治定作業は江戸時代に始まり明治の半ばで一旦完了する。とにかく全天皇の陵を決める必要があるという使命感で行ったのだろう。科学的調査は全く行っていない。天皇家の権威付けの為に行われたのだ。現在はこの治定に反発をしている研究者は多い。宮内省は治定が「100%」間違っているという証拠が無い限り治定は変えないと言い放っている。なんと傲慢な態度だろう。この様な姿勢が宮内省と研究者の溝を深めている。天皇家の陵墓と認められると一切立ち入り禁止となり、発掘調査なども出来ない。(最も宮内庁が有人で管理しているわけではなく、多くは隙間の多い柵がしてあるぐらいで、隙間から簡単に中に入れるところもある。中は荒れ放題で、宮内庁の管理とは何なのだろうと思う。不動産屋の管理物件とさほど変わらない管理の仕方をしているところが殆どだ) エジプトのピラミッドやスフィンクスの様に発掘が進むことで歴史が明確になるのだから、是非とも発掘ができるようにしてもらいたいものだ。
[鍋塚古墳 (仲津山古墳 陪塚)]
一辺50メートル、高さ7メートルの大形の方墳。鍋塚古墳の周辺には「沢田の七ツ塚」と呼ばれた中小規模の古墳が数多くあったのだが、宅地化工事で消滅し、この鍋塚古墳だけが残っている。築造は5世紀前葉と考えられており、仲津山古墳も同時期である事から、その陪塚と考えられている。
市ノ山古墳(允恭天皇 惠我長野北陵)
墳丘長は227メートルの前方後円墳で5世紀後半に築造されたと推定されている。宮内省により惠我長野北陵 (えがのながののきたのみささぎ) として仁徳天皇の第四皇子であった第19代允恭天皇陵に治定されている。中国史書残って宋書と梁書に記述がある倭の五王 (讃、珍、済、興、武) の済が443年と451年に朝貢しているとあり、允恭天皇の在位と合致することから済王が允恭天皇と推定されている。江戸期後半にはこの辺りで綿作りが盛んになると、綿畑に利用されていたらしい。
允恭天皇と言えば、先に訪れた津堂城山古墳が允恭天皇が被葬候補者に想定されていたが、二つも治定するのはどうだろうか? 無責任な対応だ。
[衣縫塚古墳 (允恭天皇陵陪塚ろ号)]
允恭陵の周りには陪塚と見られる古墳が10基近くあったが、住宅地となり多くが消滅してしまった。ここはその残っている陪塚の一つ。
5世紀後半に築造された直径約20mの円墳で允恭天皇陵の陪塚とされている。平安時代の初めに、この古墳周辺にいた衣縫造金繼 (きぬぬいのみやつこかねつぐ) の娘は親孝行で、両親が亡くなった後も嫁がずに墓守をしていたと言う伝説があり、そのため「衣縫塚」と呼ばれるようになったそうだ。
[宮の南塚古墳 (允恭天皇陵陪塚は号)]
5世紀後半の築造された直径約40mの円墳。市野山古墳の陪塚に治定されている。
二つの陪塚の番号が「ろ」と「は」となっている。では「い」があるはずと思い google map で調べてみた。あった。
この場所は八王子塚古墳と呼ばれ「い号陪冢」に治定されたが、最近の周辺の発掘調査の結果から、ここは古墳ではない可能性が高いとされ、古市古墳群の一覧表からも除かれている。
野中宮山古墳
全長154m、高さ14.1mの5世紀前半に築造された前方後円墳。詳細は不明。
はざみ山古墳
5世紀前半に築造された墳丘長103m、後円部の高さ9.5mの前方後円墳。詳細は不明。
これで藤井寺市にある古墳訪問は終了なのだが、後でもう一つ古墳がある事が判明。道明寺盾塚古墳公園で未訪問。誉田御廟山古墳 (應神天皇) の陪墳。折角なので誉田御廟山古墳の箇所で載せておく。
次は藤井寺市の南の羽曳野市にある古市古墳群に行く。藤井寺市の古墳群探索で時間をかけて過ぎて、残りの時間で全てを訪問は無理そうだ。今晩 (24日) は大阪梅田で大学の同級生と食事を予定している。ここから25キロあるので2時間はかかる。明日は沖縄那覇へのフライトを予約しているので今日が最終日で、あと2時間程しか余裕がない。今回は見れるところまで見て、残りはいつになるか分からないが、また来れば良いと思う事にする。
[羽曳野市 古市古墳群]
誉田御廟山古墳 (應神天皇 恵我藻伏岡陵)
先に訪れた大鳥塚古墳の前の道路の反対側が誉田御廟山古墳 (こんだごびょうやまこふん) の拝所への入り口になる。この道路が藤井寺市と羽曳野市の境界。5世紀初頭の築造と考えられており、大仙陵古墳 (仁徳天皇陵) に次ぐ全国第2位の規模で墳丘長約425mの巨大前方後円墳。(大仙陵古墳は墳丘長525m) 実際の被葬者は明確になっていないのだが、宮内省は惠我藻伏崗陵 (えがのもふしのおかのみささぎ) として第15代応神天皇の陵に治定している。ここは宮内省が厳しく管理しているようで、中には入れない。拝所以外に古墳が見渡せる場所は見つからない。古墳は堀に囲まれており、堀の外側はさらに樹木で囲まれている。見ることができるのはこの堀を囲む樹木だけになる。世界遺産となって訪問者が来ても拝所とその周りのこんもりとした林しか見ることができな。全く訪問者への配慮のかけらも無い。観光客への便宜を図らないと、地域にとっては何のための世界遺産だったのかという事になりかねない。
案内板のデザインは藤井寺と羽曳野で統一している。
誉田御廟山古墳の周りには数多くの古墳があり、そのうち陪墳と考えられているものが数基ある。(古市丸山古墳、盾塚、珠金塚、鞍塚、東山古墳、アリ山古墳、栗塚古墳、東馬塚古墳、西馬塚古墳) 珠金塚古墳、鞍塚古墳、アリ山古墳は消滅している。西馬塚古墳と盾塚は未訪問。
[誉田丸山古墳 (応神天皇恵我藻伏崗陵域内陪塚)]
拝所への参道の左側にあるが、ここが陪塚と言われなければわからない。現地には表示はなく、何も下調べをしていない観光客は素通りをしてしまうだろう。この場所は、今日あったじいさんから教えてもらった。直径45メートルの円墳。しかし何故、誉田丸山古墳の域内に陪塚を造ったのだろうか?理由があるはずだ。この古墳が位置するのは外堀の所になる。最初からこの外堀はあったのだろうか? 後で外堀を造った可能性は無いのだろうか?
[二ツ塚古墳 (応神天皇恵我藻伏崗陵域内陪塚)]
応神天皇陵古墳の東側、内側の堤に接している。4世紀後半に築造され、墳丘長110m、後円部の高9.9mの前方後円墳。宮内省は応神天皇陵古墳の陪塚として治定している。ここで疑問が出る。この古墳は応神天皇陵の内堀と内堤に食い込んでいる。陪塚は本陵の完成後に造られるのが自然と思う。後で造ったならば、何故、内堀を狭くし、内堤を壊してまで陪塚を造るだろうか? 解説ではこれ程接近しているので、この古墳に埋葬された人は応神天皇にかなり近い関係の人物と推測されるとある。どうもしっくりこない説明だ。何故敢えてこのような場所に陪塚を造る必要があったのか? この疑問の答えをインターネットで色々と調べると、同じ様に疑問を持っている人の記事があった。かなり深く研究されている様で、その仮説には説得力があった。それによると、古墳の形状から二ツ塚古墳は誉田御廟山古墳よりも30-50年早い時期に造られたと考えられ、誉田御廟山古墳が建設時に二ツ塚古墳を破壊しない配慮をしている。二ツ塚古墳の被葬者は誉田御廟山古墳の被葬者が敬うぐらいの人物 (例えば親、先帝とか) では無いだろうか。そうすると、ここは陪塚ではなく、独立した古墳であったと考えるのが妥当だろう。
参考にしたサイトは、これにとどまらず、宮内省治定の陵をことごとく両断している。非常に面白い図が掲載されていた。物事の考え方はこの様に整理してやるものだと感心させられた。宮内庁ももう少し知的になれば良いのにと思う。
ただし、この図が触れていないのは歴代天皇の在位の信憑性だ。参考にしているのは日本書紀や古事記だが、その文献自体、天皇の初期は神話じみており、これを信じる事は出来ない。例えば、歴代天皇の没年齢だが、日本書紀の記載によれば第15代応神天皇は111才、第16代仁徳天皇は143才。初代神武天皇から第16代仁徳天皇までの16人の天皇で百才になる前に逝去したのはたった4人だけ、第17代以降は百才まで生きた天皇は一人もいない。日本書紀が世に出たのは720年で200も前の話を書いている。創作が多いだろう。140才まで生きれるとは当時の筆者は思っていないだろう。敢えて神話じみた話にしていると思う。それは天皇家が神の子孫であると言う神秘性を持たす目的もあったのだろう。研究者は古墳には余りも謎が多いので発掘調査をしたいのだが、宮内省が主要な古墳は治定してしまっており、発掘どころか立ち入りさえ禁じている。この方針はよほどの事がない限り変わらないだろう。研究者は歴代の解明の為の発掘調査を期待するが、宮内省にとっては江戸、明治、大正、昭和にわたって、自分たちが過去の天皇家の歴史を作り上げた事にイチャモンをつけられたくは無いのだ。それが宮内省の歴史観で、研究者が異論を言おうが気にしていない。宮内庁曰く「過去の治定が決定的に間違っていると言う科学的根拠が示されない限り、現在の治定は変えない」笑ってしまう主張だ。科学的根拠もなく治定した古墳を科学的に間違いを指摘しろという。科学的根拠を示すには発掘調査が必要だが、それは許されない。宮内省は安泰だ。宮内省の判断の基準は別世界になっている。宮内省が潰れない限り、考え方を変える事はないだろう。
[盾塚 (道明寺盾塚古墳公園、誉田御廟山古墳 陪墳)]
未訪問だがここに記載しておく。五世紀初頭の築造で全長約110メートルの帆立貝式前方後円墳。誉田御廟山古墳の陪墳と考えられている。宮内省は陪墳とは治定していない。ただし、古墳は府営住宅建設の際に消滅し、ここは復元古墳。(この古墳は藤井寺市にある)
[東山古墳 (誉田御廟山古墳 陪墳)]
5世紀初頭に築造の東西57m、南北54mの方墳元は北側にあったアリ山古墳 (消滅) と濠を共有していた。藤井寺市内にある。
[東馬塚古墳 (応神天皇恵我藻伏崗陵陪塚い号)]
5世紀前半の築造で、墳丘長30m高さ3.5mの方墳。一方向だけやたらと高いフェンスがあるが、どうしてだろう?
[栗塚古墳 (応神天皇恵我藻伏崗陵陪塚ろ号) ]
5世紀前半の築造で、墳丘長43m高さ5mの方墳。応神天皇陵古墳の外側の堤に接している。
[西馬塚古墳 (応神天皇恵我藻伏崗陵陪塚は号) 未訪問]
この古墳は未訪問。5世紀後半の築造で、墳丘長45m高さ9.4mの方墳。
[サンド山古墳 (応神天皇恵我藻伏崗陵陪塚へ号) 未訪問]
墳丘が変形しており、本来の形は不明。現状で長さ30メートル、高さ3メートル。研究者はこれは応神天皇陵の陪塚ではなく独立した古墳と考えている。宮内省の陪塚の治定は科学根拠もなく、かなりいい加減なやり方をしている様に思える。
[墓山古墳 (応神天皇恵我藻伏崗陵陪塚ほ号)]
5世紀前半に築造された墳丘長225m、後円部の高さ20.7mの前方後円墳。ここは宮内省が応神天皇陵の陪塚ほ号に指定しているので発掘ができない。どうも宮内省と古市古墳群の推進室とは意見が異なっている様で、推進室はここは独立した古墳と見ている。個人的な印象は墓山古墳は応神天皇陵の陪塚にしては大きすぎる。推進室と同じ様に独立した地域有力者の古墳では無いかと思う。昔からこの古墳の堤や周濠の一部が墓地に利用されていたので墓山と呼ばれるようになったそうだ。推進室はこの墓山古墳の陪塚として、向墓山古墳 (宮内省は応神天皇陵の陪塚に号と治定しているが)、浄元寺山古墳、野中古墳、西墓山古墳 (消滅) の4基を挙げている。
[向墓山古墳 (応神天皇恵我藻伏崗陵陪塚に号) 未訪問]
この古墳も未訪問。墓山古墳の後円部東側に位置している。Google Mapでは応神天皇陵の陪塚に号と表示されているが、古市古墳群のガイドでは墓山古墳の陪塚とされている。5世紀前半の築造で、墳丘長68m高さ10.7mの方墳。
[浄元寺山古墳 (じょうがんじやまこふん 墓山古墳 陪塚) ]
5世紀前半に、墓山古墳の前方部西側、外側の堤に接して造られた墳丘長67m、高さ9.7mの方墳で、墓山古墳の陪塚と考えられる。
[野中古墳 (墓山古墳 陪塚) ]
墓山古墳の後円部北側に位置し、5世紀前半に築造された墳丘長37m、高さ二段5mで幅約2メートルの濠に囲まれた方墳。墓山古墳 陪塚と考えられている。発掘調査で、墳丘の頂上の中心部には多量の鉄製品を納めた細長い木箱形の施設が5か所ほど並んで造られており、鉄製の冑、短甲、刀剣、やじりなどの武器、鍬の刃、鎌、斧、錐などの農工具のほか、朝鮮半島から運ばれた土器も発見されている。
野中古墳に被葬者は、生前に墓山古墳の被葬者に仕え、軍事的な仕事をつかさどっていたのではないかと推定。
白鳥陵古墳 (軽里大塚古墳)
5世紀後半に築造された墳丘長200m、前方部の高さ23.3mの前方後円墳。日本武尊の陵墓との伝承がある。 第12代景行天皇皇子で、第14代仲哀天皇の父にあたる日本武尊は東国での戦いの帰り道、伊勢の能褒野 (のぼの) の地で亡くなったが、その姿を白鳥に変え、大和の琴弾原 (ことひきのはら) に降り立った後、河内の旧市邑 (ふるいちのむら) に飛来したといわれている。今回の旅では数カ所で日本武尊の所縁の地を訪れた。能褒野の陵墓にも行くことができた。日本武尊の陵墓は三つ治定されている。能褒野とここ河内白鳥陵、そして大和白鳥陵。完全な神話の世界にも関わらず、宮内省は大真面目に白鳥になった日本武尊の降り立った所を治定している。この様な所はまだまだあるのだろう。宮内省には歴史と神話を区別する感覚がないのだろうか?
西浦白髪山 (清寧天皇陵) 古墳
白髪山古墳 (しらがやまこふん) は6世紀前半に築造され、墳丘長115メートル、後円部直径63メートル、前方部幅128メートルで周濠に囲まれた前方後円墳。(調査では二重の周濠があった事が判明している。) 宮内省により河内坂門原陵 (こうちのさかどのはらのみささぎ) として第22代清寧天皇の陵に治定されている。(この古墳名は被葬者とされる清寧天皇が生まれながら白髪で、白髪大倭根子命 (しらがのおおやまとねこのみこと) と名づけられていたことに由来する。)
[小白髪山古墳 (清寧天皇陵 陪塚) ]
6世紀前半頃に築造された全長46メートル、高さ4.5メートル、幅10メートルの周濠に囲まれた小型の前方後円墳。西方にある白髪山 (清寧陵古墳) の陪冢と考えられている。
峯ヶ塚古墳
6世紀初頃 (古墳時代後期) の築造で、墳丘の長さ96メートル、前方部の幅74.4メートル、高さ10.5メートル、後円部は直径56メートル、高さ9メートルの前方後円墳。古墳時代後期には古墳が全般的に縮小傾向をみせるなかで、二重濠を持つ古墳を築造できた被葬者は大王級の権力のある人物であったと推測される。発掘調査で竪穴式石室が現れ、大刀や鉄鏃などの武器、挂甲小札 (けいこうこざね) などの武具、轡や鐙などの馬具、装身具、玉類などが大量に出土。成人男性の骨や歯なども出土している。江戸時代には、日本武尊白鳥陵に比定されていたが、現在は、先に訪れた軽里大塚古墳 (白鳥陵古墳) を比定。(允恭天皇皇子の木梨軽皇子の墓との伝承もあった。)
小口山古墳
この古墳は峯ヶ塚古墳の西方200mの峯ヶ塚公園の丘の上に位置しており、7世紀の第4四半期終末期の径30mの規模をもつ円墳。副葬品などの遺物は検出されていないが横口式石槨が発見され、現在でも見る事が出来る。峯ヶ塚古墳と同様に宮内省の治定は受けていないので、峯ヶ塚公園として自由に散策が出来る。
ここでタイムアップとなった。そろそろ大坂に向かう時間だ。古市古墳群の案内書にある全ての古墳をまわることは出来なかった。古墳は見てもただの丘や盛土にしか見えず何が面白いのかと聞かれる。当初は同じ様に思っていたが、旅先でその背景を調べているうちに、勝手ながら想像が膨らみ、歴史が見えて来る。多分、古墳に”はまっている”人は同じなのだろう。分からないことだらけだからこそ想像の楽しみがあるのだろう。
この三日間古墳を調べながら巡ったのだが、宮内省の治定と研究者の主張がかなり異なっている。どれほど違うのかを纏めてみた所、殆どが異なっていた。宮内庁もこの研究者の主張を受け入れると過去の治定が出鱈目であった事を認めることになり、これ以外の物も見直しが必要になるだろう。早く宮内庁は全面降伏して治定の作業を研究者に任せるべきだろうと思う。治定できないものは、不明としても何も問題は無い筈だが...
14 仲哀: 岡ミサンザイ → ?
15 応神: 誉田山 → 御廟山/上石津ミサンザイ
16 仁徳: 大仙陵 → ?
17 履中: 上石津ミサンザイ → ?
18 反正: 田出井山 → ニサンザイ
19 允恭: 市ノ山 → 大仙陵
20 安康: 菅原伏見西陵 → ? (奈良平城にある)
21 雄略: 島泉丸山平塚 → 岡ミサンザイ
22 清寧: 白髪山 → ?
今回行けなかった古墳を備忘録として書いておく。次回、ここに来た時に寄って見たいから。
- 青山古墳
- ボケ山古墳(仁賢天皇埴生坂本陵)
- 稲荷塚古墳
- 野々上古墳
- 塚穴古墳(来目皇子)
- 高屋築山古墳(安閑天皇古市高屋丘陵)
- 城不動坂古墳
- 高屋八幡山古墳(春日山田皇女陵)
- 向墓山古墳 (応神天皇恵我藻伏崗陵陪塚に号)
- 西馬塚古墳 (応神天皇恵我藻伏崗陵陪塚は号)
- サンド山古墳(応神天皇恵我藻伏崗陵陪塚へ号)
- 盾塚 (道明寺盾塚古墳公園)
- 宮神社裏山古墳群 (富田林)
0コメント