Kii Peninsula 紀伊半島 15/16 (22-23/12/19) 百舌鳥古墳群
履中天皇陵 (百舌鳥耳原南陵、上石津ミサンザイ古墳)
- 七観山古墳 (履中天皇陵陪塚)
- 七観音古墳
- 寺山南山古墳
- 経堂古墳 (履中天皇陵陪塚い号)
- 西酒呑古墳
- 東酒呑古墳 (履中天皇陵陪塚ろ号)
- 桧塚古墳 (履中天皇陵陪塚は号) [未訪問]
旗塚古墳
グワショウ坊古墳
鳶塚古墳
原山古墳
銭塚古墳
かぶと塚古墳
乳岡古墳
長塚古墳
仁徳天皇 百舌鳥耳原中陵 (大仙陵古墳)
- 収塚古墳 (宮内庁未認定)
- 孫太夫山古墳 (仁徳天皇陵陪塚い号)
- 竜佐山古墳 (仁徳天皇陵陪塚ろ号)
- 狐山古墳 (仁徳天皇陵陪塚は号)
- 銅亀山古墳 (仁徳天皇陵陪塚に号)
- 樋の谷古墳(仁徳天皇陵域内陪塚丙号)
- 丸保山古墳 (仁徳天皇陵陪塚へ号)
- 菰山塚古墳 (仁徳天皇陵陪塚ほ号)
- 永山古墳 (仁徳天皇陵陪塚と号)
- 茶山古墳 (仁徳天皇陵域内陪塚)
- 大安寺山古墳 (仁徳天皇陵域内陪塚)
- 源右衛門山古墳 (仁徳天皇陵陪塚ち号)
- 坊主山古墳 (仁徳天皇陵陪塚り号)
- 塚廻古墳 (宮内庁未認定)
- 鏡塚古墳 (宮内庁未認定)
いたすけ古墳
- 善右ヱ門山古墳
東上野芝町一号墳
御廟山古墳
- 万代山古墳 (御廟山古墳陪塚)
鎮守山塚古墳
ニサンザイ古墳
ドンチャ山古墳
正楽寺山古墳
定の山古墳
反正天皇百舌鳥耳原北陵
- 鈴山古墳 (反正天皇陵陪塚い号)
- 天王古墳 (反正天皇陵陪塚ろ号)
今年、世界遺産に登録された堺市にある百舌鳥古墳群を見学する。世界遺産に登録された6基を含む44基も古墳があるので、全部は観れるだろうか。
履中天皇陵 (百舌鳥耳原南陵、上石津ミサンザイ古墳)
世界遺産登録の一つ。全長約365mで、日本で3番目の大きさの古墳。仁徳天皇陵古墳より古く、5世紀前半に造られたと言われている。
埋葬されているのは仁徳天皇の第一皇子の第17代天皇の履中天皇と推測されている。しかし、研究者はこれに異論を唱えている。それは古墳に築造時期と推定した被葬者との在位に矛盾があるからだ。この古墳の築造時期は仁徳天皇陵古墳より古いが、仁徳天皇は第16代の先王で父親なのだ。先に亡くなった天皇よりも前に陵を造ることはあり得ない。(もっとも仁徳天皇陵も仁徳天皇の古墳では無いという説もある。) 下の図は古墳の築造時期と想定される天皇の在位期間を年表にしたものだが、この履中天皇の陵墓は上石津ミサンザイ古墳と書かれているものにあたり、即位の30-50年前の応神天皇の時代に造られていることになる。宮内庁の治定は江戸時代から明治中ぐらいまでに行われ、古墳の年代を科学的に推測できる技術はまだなく、日本書紀や古事記、その地の伝承などから決めたもの。この古墳だけでなく、他の古墳でも多くの矛盾が明らかになっている。8割方の古墳の治定が間違っているとも言われている。ある研究者はこの古墳は履中天皇ではなく応神天皇の陵墓と言う説を挙げている。それはこの比較年表の在位時期と古墳築造時期の重なりから導き出している。そうすると履中天皇の陵墓はどこになるのだろう?
何故ここに巨大古墳が集中しているのかも疑問のひとつ。解説ではこの古墳は大阪湾からの眺めを意識した場所に造られたとある。一般的に言われているのが、当時行き来のあった大陸の新羅や宋に対して、王権や国力の誇示の為、大陸人が航海を終え、大阪湾からこの古墳を臨み度肝を抜く目的であったとされている。当時の海岸線と新羅や宋からの使節団のルートを示した図がある。この図から見ると大阪湾で百舌鳥古墳群に海から眺め、旧大和川をさかのぼり、飛鳥の都に向かう途中で古市古墳群を通り、もう一度大古墳を眺める様になっている。これを見るとこの説も一理あるように思える。
この時代の様子を記録したものが中国の歴史書『宋書』にある。それによると、5世紀から約100年の間に、倭から5人の王「倭の五王」が宋に朝貢したとある。讃(さん)、珍(ちん)、済(せい)、興(こう)、武(ぶ)の5人で、「済」→允恭天皇、「興」→安康天皇、「武」→雄略天皇である事はほぼ異論が無いのだが、最初の二名は確定はしていないが、「讃」→履中天皇、「珍」→反正天皇であろうと言われている。この時代に大陸との交流が盛んになっていた事は確かな様だ。
NHKが番組で制作したCGがある。この様な感じだったのか。
もう一つ面白い図がある。古墳築造地の変遷を纏めているもの。古墳時代中期には築造地が奈良から和泉/河内に移っていることが明確だ。研究者の間ではこの時期の政治の中心が依然として飛鳥にあったと言う説と政治の中心が和泉/河内に移ったと言う説がある。素人の自分には判断のしようも無いのだが、個人的には依然飛鳥が中心であったと思われる。初期の段階では陵墓を住居に近い場所に築造しただろうが、この陵墓つまり古墳が墓としての意味合いから権力の象徴、誇示の対象として変化していったと思え、古墳を都とは別の場所に造ったとしてもおかしくは無い。それに、現在の天皇家の先祖と言われる一族は当時では、飛鳥地域から九州や関東まで勢力を広げている。飛鳥だけに閉じず、この古墳を利用して広く勢力誇示を行ったのでは無いだろうか。当時は朝鮮半島の伽耶や百済との交流も盛んで、朝鮮半島への進出の野心も芽生えていたかもしれない。宋や新羅、百済への勢力誇示につかえる格好のものが古墳であり、それ故に巨大化が必要だったのだろう。
この上石津ミサンザイ古墳には陪塚 (ばいちょう 陪冢) は10基前後あったとされるが、宮内庁は3基を治定している。この3基以外に研究者からはいくつか陪塚の可能性の高い古墳を挙げている。
[七観山古墳 (履中天皇陵陪塚)]
履中天皇陵古墳の陪塚で後円部北側にあった径約50mの円。陪塚は時々見かけたがメインの古墳に付属する様に造られており、メインの古墳に埋葬された首長の親族や臣下を埋葬しているものと、メインの埋葬者の副葬品を埋納しているものがある。誰がここに埋葬されているかは不明。
[七観音古墳 (しちかんのん、履中天皇陵陪塚)]
これも履中天皇陵古墳の陪塚と推測されている。5世紀前半の築造の墳丘径は32.5m、高さ3.8mの円墳。
[寺山南山古墳 (履中天皇陵陪塚)]
これも履中天皇陵古墳の陪塚と考えられている。5世紀前半の築造の44.8mx36.3mの方墳。
[経堂古墳 (履中天皇陵陪塚い号)]
宮内庁治定の陪塚で墳丘直径20メートルの円墳。治定されているので柵に囲まれて立ち入り禁止。
[西酒呑古墳 (にしさけのみ、履中天皇陵陪塚は号)]
ここも宮内庁治定の陪塚で直径25mの円墳。古墳としては半壊状態。主墳のミサンザイ古墳からかなりの距離があるので、陪冢とするには疑問視されている。
[東酒呑古墳 (ひがしさけのみ、履中天皇陵陪塚ろ号)]
直径21mの円墳で住宅に囲まれて、一箇所だけ金網越しに見れるところがあった。言われなければ、ただの再建不可の空き地だ。興味を引いたのは、この古墳より建っている住宅だ。写真にあるようにあんなに薄っぺらい狭い家。建てた人にも、住んでいる人にも興味が湧く。
[桧塚古墳 (履中天皇陵陪塚は号) 未訪問]
ここまで来て、この古墳はクボタの工場敷地内にあり見学不可と判明。骨折り損。インターネットに掲載されている写真を拝借。墳丘24.9メートルの前方後円墳で宮内庁が治定し管轄。といっても管理はクボタがやっているのだろうが....
以上が推定されている履中天皇陵古墳とその陪塚。まだまだ古墳はある。次の古墳見学を続ける。
旗塚古墳
仁徳天皇陵古墳と履中天皇陵古墳の間に位置し、5世紀中頃に築造された墳丘長57.9m、後円部の高さ3.8mの帆立貝形古墳。埋葬者は不明。
グワショウ坊古墳
卵形の径61メートルの円墳。埋葬者は不明。
鳶塚古墳
5世紀後半の周囲61.8m、高さ3.3mの古墳で復元したもの。
原山古墳
鳶塚古墳と同じく消滅したものを復元したもの。
銭塚古墳
仁徳天皇陵古墳と履中天皇陵古墳の間に位置する全長約72mの帆立貝形古墳で5世紀後半の築造と考えられている。
かぶと塚古墳
墳丘長は約50mの前方後円墳で前方部は短い帆立貝形をしている。昭和25年に破壊された百舌鳥大塚山古墳の陪塚の可能性があると言われている。
乳岡古墳 (ちのおか)
前方後円墳だが、前方部の大半が削られて住宅地になっており、本来は全長155メートルで、百舌鳥古墳群では6番目の大きさであった。古墳群で最も古い古墳で4世紀後半の築造と推測される。
長塚古墳
全長102メートル、後円部径57メートル、後円部高さ8.2メートル、前方部幅67メートル、高さ8.3メートルの前方後円墳。陪塚ではなく独立した古墳と考えられている。
仁徳天皇 百舌鳥耳原中陵 (大仙陵古墳)
先に訪れた上石津ミサンザイ古墳の被葬者と治定されている履中天皇の父親で第16代仁徳天皇の前方後円墳と治定されている。本当に仁徳天皇の陵かは議論されている。宮内庁が決めた事で、後に間違いが明かになる事もあるが、宮内庁が訂正することは稀で、ある史跡にには宮内庁指定のものと研究者の説の物が近くにある事があった。この陵墓は大きさでは全長約486mで世界一の広さを誇る。クフ王ピラミッド、始皇帝陵と並ぶ世界3大墳墓。(といっても、世界の人はピラミッド、始皇帝陵は知っていても、この仁徳天皇陵は知らない人がほとんど) 5世紀中ごろ築造。これだけのものを造るとすると約15〜20年をかけたと推定されている。3段の堀に囲まれている。周囲に陪塚が10基以上ある。解説では息子の履中天皇陵の方が古いと無責任にあっさりと書かれているが、この点についてはもう少し詳しく解説して欲しいものだ。陵は在位中に建造を開始するのが通常で、古墳築造は在位67年に開始されたとある。仁徳天皇は在位が80年以上と日本書紀と古事記では書かれている。宮内庁の公式リストでは大真面目に143才で逝去とある。信憑性は薄いだろうが、仮に100才で逝去 (退位) とし建造に20年かかったとすると完成は死後数年(7年後?) 経ってからだ。一方、履中天皇は仁徳天皇が亡くなって即位し、在位6年で64~70で亡くなった。即位前に古墳の建造は開始しないので、即位と同時に開始し、亡くなる時ごろには完成していないと辻褄が合わない。あまりにも昔の事なので、多分、あまりほじくられたく無いので、さらりと書いているのだろう。ここも仁徳天皇陵かどうかに疑問符がついているのはこの建造年代が理由になっている。史跡の解説で見た人が疑問を持つだろうと分かっているにもかかわらず、さらりと書かれているものが結構ある。どうせ分からないだろうと、見る人を馬鹿にしている。この様な時は機会が有れば解説員に聞くのだが、今回は資料館には行っていないので機会が無かった。時に、解説員も同じ疑問を持って研究中ですと言われることもある。年代的には允恭天皇、もしくは安康天皇の墓ではないかと指摘する研究者もある。安康天皇は在位3年と短いので允恭天皇 (在位42年) の可能性が高いかもしれない。
仁徳天皇陵の近辺には10以上あると考えられている陪塚も見てみた。宮内庁認定の陪塚は12。そのうち永山古墳と坊主山古墳には疑問符が付いている。研究者はこれ以外に5つ別の古墳を陪塚に加えている。と言う事で15~17の陪塚の可能性がある。
研究者の考える夕雲一丁南(方墳)と消滅している一基は未訪問。
[収塚古墳 (おさめづか、仁徳天皇陵 陪塚)]
宮内庁未認定。もとは前方部を西に向けた帆立貝形古墳であったが、削られて円墳のようになってしまった。5世紀中頃に造られたものと推定されている。
[孫太夫山古墳 (仁徳天皇陵陪塚い号)]
帆立貝式、墳丘長56m、周濠あり
[竜佐山古墳 (たつさやま、仁徳天皇陵陪塚ろ号)]
前方後円墳、墳丘長67m、周濠あり
[狐山古墳 (仁徳天皇陵陪塚は号)]
径30m、高さ5mの溝状の濠がめぐらされていた円墳。ここの墓守と狐の恩返しの伝説が残っている。
[銅亀山古墳 (どうがめやま、仁徳天皇陵陪塚に号)]
5世紀中頃に築造された一辺26mの方墳。ニ段造りで亀に似ており、地元では「どんがめ」とも呼ばれていた。
[樋の谷古墳 (ひのたに、仁徳天皇陵域内陪塚丙号)]
直径約47mの円墳で大仙古墳の陪塚として宮内庁が管理しているが、古墳かどうか疑わしいと言われている。
[丸保山古墳 (まるほやま、仁徳天皇陵陪塚へ号)]
5世紀後半頃に造られた墳丘長87mで、周濠に囲まれた帆立貝式前方後円墳。
[菰山塚古墳 (こもやまづか、仁徳天皇陵陪塚ほ号)]
築造時期5世紀前半の墳丘長36mで周濠に囲まれた帆立貝形墳。
[永山古墳 (仁徳天皇陵陪塚と号)]
5世紀前半の前方後円墳、墳丘長104m、周濠あり。規模が大きく、造出し (つくりだし) を有する珍しい前方後円墳であることから、陪塚として研究者からは疑問視されている。
造出は、古墳に直接取り付く、半円形もしくは方形の壇状の施設の事で、納棺後の追善供養の祭祀を行うための場所という説が有力。この説だと、陪塚でなくメインの陵であるだろうと推測されている。
[茶山古墳 (仁徳天皇陵域内陪塚)]
後円部外側の第2堤上から三重濠に張り出す径56mの円墳。この様に濠にはさまれた堤の上に陪塚が造られている例は茶山古墳とこの後に行く大安寺山古墳のみだそうだ。(陪塚では無く元々あった古墳を破壊せずに、別の古墳を造ったのではとの説もある。)
[大安寺山古墳 (仁徳天皇陵域内陪塚)]
ここも濠にはさまれた堤の上に造られている。墳丘径は62m、高さは9.7mで、百舌鳥エリア最大の円墳。
[源右衛門山古墳 (仁徳天皇陵陪塚ち号)]
仁徳天皇陵古墳の北東側、外濠の近くに位置する5世紀前半に築造された直径約40mの円墳。
[坊主山古墳 (仁徳天皇陵陪塚り号)]
径40m程の円墳であったと推定されているが、現在は一辺10m前後、高さ2.8m程の三角形状の墳丘が残るのみ。
[塚廻古墳 (つかまわり、仁徳天皇陵陪塚)]
仁徳天皇陵古墳の東側、外濠の近くに位置し、5世紀前半に築造された墳丘径35m、高さ4.5mの円墳。研究者は陪塚と考えている。
[鏡塚古墳 (仁徳天皇陵陪塚)]
5世紀中頃に築造された墳丘直径26メートルの円墳。研究者は陪塚と考えている
ここで仁徳天皇陵とその陪塚見学を終え、一段落ついたので、昼食で休憩。雨が降り出した。天気予報を見る。深夜まで雨。もう少しすると雨が強くなるらしい。まだ見ていない百舌鳥古墳群の古墳が残っている。八尾の方には古市古墳群と言う別の古墳群もあり、そこも行き、そちらで泊まる予定だったが、これ以降に数基古墳を見たが雨がかなり強くなり、予定変更して、古墳群見学を途中で切り上げ、近くのマクドナルドでは雨宿りしながら、レポートを書く事にした。続きは明日にしよう。以下はその前に訪れた古墳と翌日訪れた古墳。
いたすけ古墳
5世紀前半に造られた全長約146mの前方後円墳で、周りには陪塚とされる古墳が数基あったが、現在では善右ヱ門山古墳が残るのみ。
[善右ヱ門山古墳 (いたすけ古墳陪塚)]
いたすけ古墳の濠に接した28mの方墳で復元されている。5世紀前半に築造。
東上野芝町一号墳
詳細は不明の古墳。養護学校の入り口付近のフェンスの内側にあるのだが、誰が見ても古墳とは分からないだろう。
御廟山古墳
5世紀前半の前方後円墳で墳丘長約203メートル、百舌鳥古墳群では4番目の大きさ。埋葬者は不明だが、被葬候補者として第15代応神天皇があげられている。(宮内庁は別の古墳を応神天皇として治定している) この陪塚は数基あったとされるが、万代山古墳のみが現存。
[万代山古墳 (御廟山古墳陪塚)]
新興宗教のお寺の中にあり私有地で中には入れない。道路沿いから撮影。後円部径25mの前方後円墳。
鎮守山塚古墳
光明院の境内に鎮守山塚古墳があるが中には入れない。道路で古墳の一部分が削られている。径34メートルの円墳で独立した古墳。5世紀中頃の築造。
ニサンザイ古墳
墳丘長約290mの前方後円墳で百舌鳥古墳群の中では3番目、全国でも8番目という巨大古墳。5世紀後半に造られたと考えられている。陪塚は3つ以上あったとされるが全て消滅している。宮内庁はここを反正天皇の空墓として、陵墓参考地に指定している。反正天皇の陵墓の治定は田出井山古墳にされているが、研究者の間ではこのニサンザイ古墳こそ反正天皇の陵墓と言われている。ここでも宮内庁の安易な治定方法が現れていると思う。研究者がこここそ反正天皇の陵墓と言われると、ではそこも反正天皇が造った陵にするが、本人は入らず先祖様を祀る為の空墓としてしまった。歴史を解き明かす為に努力している研究者に対して失礼な対応だ。本来で有れば、共に解明していくべきだろう。
ドンチャ山古墳
6世紀前半以降に建造されたと考えられいる20mの小さな円墳。技術者集団のリーダーの墓と考えられている。
正楽寺山古墳
径16mの小円墳。6世紀前半以降の築造。これも技術者集団のリーダーの墓と考えられている。
定の山古墳 (じょうのやまこふん)
墳丘長69メートル、後円部径53メートル、高さ7メートル、前方部幅23.5メートルの帆立貝形古墳。現在は城の山公園となり復元保存されている。
御廟表塚古墳 (ごびょうおもてづかこふん)
墳丘は全長約84.8メートル、後円部径約67.6メートル、高さ約8メートルの前方後円墳。かなり破壊されて円墳のようになっている。
反正天皇百舌鳥耳原北陵 (田出井山古墳 たでいやまこふん)
百舌鳥古墳群の北端に位置し、墳丘長148メートルの前方後円墳で百舌鳥古墳群の中では7番目の大きさ。5世紀中頃に造築されたと考えられている。宮内庁により百舌鳥耳原北陵として第18代反正天皇の陵に治定されているが、ここも天皇の在位時期と古墳の築造が乖離しており、研究者は異論を唱えて、反正天皇の空墓の候補地になっているニサンザイ古墳 (前述) が反正天皇陵と主張している。宮内庁は無反応。
[鈴山古墳 (反正天皇陵陪塚い号)]
一辺22m程の方墳。田出井山古墳の陪塚として宮内庁が治定。
[天王古墳 (反正天皇陵陪塚ろ号)]
一辺11m、高さ約3mの方墳。田出井山古墳の陪塚として宮内庁が治定。
これで百舌鳥古墳群の見学は終了。調べながら見学すると面白い。古墳にはまっている人の気持ちが分かるような気がしてきた。次は古市古墳群に向かうが、レポートは別に分けることにする。
もう一つ、古墳に関して疑問があった。古墳時代が衰退した理由は何だったのかだ。これも色々と調べて、自分なりの解釈は出来たと思う。この百舌鳥/古市古墳群で約100年続いた巨大古墳の時代は、この地で最後の古墳である岡ミサンザイ古墳が5世紀末に築造されて急速に衰退した。岡ミサンザイ古墳は代21代雄略天皇の陵墓とされている 。(宮内庁は200も前の第14代仲哀天皇を治定しているが) ここに古墳を造り続ける意味合いが失われたと思われる。先に書いたがここが巨大古墳築造の地になったのは朝鮮や中国に対しての権力維持があったと思われる。雄略天皇の五代前から宋に対して朝貢を行っていたが、雄略天皇の代で宋との関係は終止符が打たれた。大和朝廷にとり朝貢は期待したほどの効果が出なかった事と既に朝貢しなくてもやっていける勢力を広範囲に広げ、国力がついた事があると思う。日本国内では大阪湾の確保の為と、その地方の豪族に対しての権力誇示の目的もあっただろうがそれも達成している。更に巨大古墳の築造の経済的負担も理由の一つと思われる。莫大な金を注ぎ込んでの築造の意味がなくなった。それがこの和泉/河内が古墳築造地として終焉を迎えた理由では無いだろうか。この後には、古墳は飛鳥に回帰し、摂津に向かうのだが、それも仏教伝来により完全に姿を消し、古墳時代は終わる事になる。古墳に変わり、権力の象徴は何重にも積み重ねた仏塔に取って代わられる事になる。歴史を見ると、古墳時代の次の時代には仏教により国を治める体制が出来上がってくる。後の国分寺建設がまさにその一例であろう。
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