Tokaido 東海道 36 (4/12/19) Kuwana Shuku 桑名宿

(42) Kuwana Shuku 桑名宿

  • 大塚本陣/駿河屋脇本陣跡
  • 舟会所跡/問屋場跡
  • 春日神社
  • 歴史を語る公園
  • 吉津屋見附
  • 光徳寺
  • 十念寺
  • 寿量寺
  • 長円寺
  • 火の見櫓
  • 城南神社
  • 伊勢両宮常夜燈
  • 浄泉坊

(43) Yokkaichi Shuku 四日市宿

  • 朝明橋
  • 力石
  • 四日市宿立場跡
  • 宝性寺
  • 長明寺
  • 鏡ヶ池
  • 富田一里塚
  • 八幡神社跡
  • 十四橋
  • 善教寺
  • 常夜燈
  • 常照寺
  • 力石
  • 茂福城跡
  • 旧東海道石碑
昨日見れなかった桑名宿の史跡巡りから始める。今日は四日市の手前迄の予定でそれほど距離は無いので、ゆっくりと余裕を持って見学出来る。

(42) Kuwana Shuku 桑名宿

桑名宿は東海道42番の宿場で宮宿から 7里 (27.5km) の距離。本陣2軒、脇本陣4軒、旅籠120軒、戸数2,544戸、人口8,848人。渡し船は夕方17時で終了するため、旅籠の数が多かった。

大塚本陣/駿河屋脇本陣跡

七里の渡しの直ぐ近くに本陣と脇本陣がある。共に料亭になっている。

舟会所跡/問屋場跡

ここには舟会所と問屋場が並んであったそうだ。旅人は舟会所で渡船を申し込み料金を払う。問屋場では人足や馬の手配をしていた。

春日神社

桑名の総鎮社でおすがさんと呼ばれて親しまれている。江戸時代には神社の前にある大青銅鳥居が目印だった。鳥居の横には「しるべいし」と呼ばれる石標が残っている。このしるべいしは今で言う伝言板の様な物で石の裏面に伝言や募集とか尋人とかの紙を貼っていた。

歴史を語る公園

桑名城の三の丸と武家屋敷の間の水路に沿って公園がある。水路は江戸時代の石垣が残っており、これを見ながら東海道道五三次をテーマにした公園を散策出来るようになっている。

吉津屋見附

桑名宿の京側の出入り口。枡形が残っており、当時はここに吉津屋門があり番所が置かれていた。

光徳寺

見附を出ると街道の両脇にいくつも寺が連なっている。あまりの多さにビックリする。これは江戸時代に寺がこの地に集められたのだろうか?(そういうケースも良くある。) ここには萬古陶の創始者の桑名船場町の商人の沼波弄山(1718~77)の墓がある。

十念寺

光徳寺の隣にある寺。桑名城がある場所に元々あったのだが、築城時にここに移転して来た。明治維新の際に、幕府側についた桑名藩の責任を負って切腹した森陳明の墓がある。
戊辰戦争は各藩が旧幕府につくか新政府軍につくかで大いに悩んだ。桑名藩は本多忠勝の後は徳川家の親藩の松平氏が藩主をしていた。松平家という立場から、旧幕府側につく事となったのだろう。

寿量寺

この寺も慶長町割でこの地に移ってきたと説明板にあった。やはり桑名藩により寺などがこの地に集約されたのだった。疑問が解けてスッキリ。この寺の面白いのは、昭和10年に再建された時に鉄筋コンクリートで造られ、それが今では有形文化財となっている鐘楼 (右上) と大黒殿 (左下) が残っている。共にユニークなデザインで昭和初期のコンクリート和風建築が垣間見れる。

長円寺

この寺も慶長町割の際の移転組。ここの住職の魯縞庵義道 (ろこうあんぎどう 1834没) がk桑名の千羽鶴と言われる1枚の紙で連続した鶴を多く折る珍しい方法を始めたそうだ。そういえばこの織鶴を見た事がある。桑名発祥だったのか。

天武天皇社

壬申の乱 (672年) に大海人皇子 (天武天皇) が桑名郡家に駐泊したことにちなみ、後に創建された神社。天武天皇を主神としているのはここだけ。ここも江戸時代に移転してきたそうだ。天武天皇がまだ大海人皇子の時に、壬申の乱で天智天皇の嫡男の大友皇子と皇位を争った際、後の皇后と共に吉野より潜奉、桑名郡家に宿泊、桑名を根拠地として近江軍に対いていたが、大海人皇子は美濃へ向い、皇后はそのまま桑名に二ヶ月間逗留。壬申の乱で勝利し、天皇凱旋の後、再び当地に泊まり、皇后と共に大和に帰国した。

火の見櫓

城南神社

古代に垂仁天皇の皇女倭姫命が皇祖神天照大神の鎮座地を求めて大和から近江、美濃を通り伊勢へ巡行の折り、この地に休息したとの言い伝えがある。

伊勢両宮常夜燈

桑名と岐阜の材木商が寄進した常夜燈がある。伊勢にお詣りに行く旅人の目印となっていた。昔は川に架かる旧町屋橋の袂にあった。今はこの橋もなくなり別の場所に町屋橋が架かっている。

浄泉坊

浄泉坊の書院は桑名城の三の丸御殿を移築したもの。浄泉坊は徳川家にゆかりのある寺で、山門や瓦には「三ツ葉」の家紋が使われている。参勤交代の大名はこの門前では駕籠から降りて黙礼したそうだ。

(43) Yokkaichi Shuku 四日市宿

四日市宿は東海道43番の宿場で桑名宿から 3里8町(12.7km) の距離。本陣2軒、脇本陣1軒、旅籠98軒、戸数1,811戸、人口7,114人。

朝明橋

この橋を渡ると四日市宿の北の玄関口となる。
橋を渡った所には茶屋があった。この茶屋の前には100キロの重さの力石が置いてあったという。旅人が力自慢をしたりと旅の思い出作りに役を果たしていた。

富田宿 立場跡

この地区は富田 (とみだ) と言う。江戸時代には水運業が発達して、桑名藩の富田六郷として桑名宿と四日市宿の中間に位置している間の宿の役割をして、立場や、旅籠や茶店が軒を並べていたそうだ。名物は富田の焼き蛤で、この焼き蛤は桑名も名物だそうで、数軒焼き蛤の店があった。

宝性寺

この寺は740年に聖武天皇の勅願によって開創。約1300年もの歴史を持っている。1568年に長島一揆の戦乱により焼失。その後、再建されるも、火災で再び焼失。1719年に再興。本堂は1814年に再建されたものが残っている。入り口には宝性寺の名の小さな石柱と神明神社と刻まれた大きな石柱が立っている。寺か神社か?入ると大きな石の鳥居、それを潜ると、宝性寺の本堂が正面にある。本堂前の境内の側面に神明神社の祠がある。神仏習合が今でも続いているかの様だ。明治の神仏分離令でも完全に分離しなかった様だ。住職と神主は別の人なのだろうか?住職が神社の方も面倒を見ているのだろうか?いつも気になる。

長明寺

宝性寺の境内から立派な堀に囲まれたお寺が見えた。説明板には元々は文治年間 (1185-90) に蒔田宗勝が築城したといわれる蒔田城 (まいたじょう) であった。その頃の寺は別の場所にあったのだが、1651年に桑名藩の松平氏が帰依し、この蒔田城跡を寺に寄進し、翌年にこの地に移転して来た。蒔田城時代は織田信長が北勢攻めの時に降伏し織田の傘下に入った。

鏡ヶ池

聖武天皇は、奈良時代の天平12年 (740) に伊勢国を行幸し、この地を通ったそうだ。田村家に伝わっている話では、この地の松原を通った際に風が吹き、聖武天皇の笠が池の中に落ちた。その時、傍で洗濯をしていた娘がその笠を拾って渡した事が縁となって天皇はこの田村家に宿をとったという。翌朝は晴天で馬上の天皇の姿と、見送る娘の姿とが、鏡のような池の上にともに映えていた。これが、「鏡ヶ池」とも呼ぶようになったといわれだそうだ。桑名の天武天皇社での話がここで繋がった。これだからぶらぶら旅は面白い。

富田一里塚

日本橋から数えて98番目の一里塚。塚は既に撤去されてはいるがそこの架かる橋が一里塚橋で地名として残っている。

八幡神社跡

ここにも力石が残っている。江戸時代はごく一般的なものだったようだ。これは面白い。知らないもの同士が、知り合うきっかけにもなるし、話のネタになる。昔の旅人はそんな些細な事を楽しんでいたのだろう。繋がりの希薄な現代にもこのような物が有ればと思う。

十四橋

十四川に架かっている橋。変わった名という事で寄って見た。十四川のいわれは結局分からずじまいだったが、案内板によると桜の名所らしい。
桜祭りはこの様らしい。(インターネットから借用)

善教寺

十四橋のすぐ近くに古そうな寺が目に入ったのできてみた。古く立派な寺で、国の重要文化財に指定されている13世紀半ばの鎌倉時代に作られた木造阿弥陀如来立像があると書かれている。一般公開はしていないのでインターネットで写真を発見。

常夜燈

ここの解説で初めて分かったのだが、常夜燈は元来神に捧げるあかりだそうだ。てっきり街灯と思っていたが、それ以外の重要な意味があったのだ。旅人は神に捧げる火の光の恩恵を得ていたのだ。今と違い、夜の明かりは旅人にはどれほどありがたいものだっただろう。

常照寺

天文七年 (1538) 釈法導によって開山。寛文年間 (1661~1673) にそれまでの天台宗から浄土真宗本願寺派に転派して以来四百余年今日に至っている。本堂は明治42年 (1909) に再建され、鐘楼・山門は明治の末に建てられている。今日、色々な寺を見たがここは十分に古い。
ここにも力石が、しかも子供用まである。19キロ。結構な重さだ。大人用は120キロで先に見た100キロの力石より重い。100キロを持ち上げた旅人はここで更に重い力石に挑戦した事だろう。成功すると村人が喝采をあげている光景が浮かんでくる。

茂福城跡

桓武平氏の子孫の平貞冬が、1400年前後に越前国朝倉よりこの茂福の地に移り茂福城を築城し、朝倉氏を名乗り、その後、茂福氏と称した。戦国時代の永禄10年 (1567年) に、茂福盈豊は、織田家の家臣の滝川一益に裏切りを疑われ、長島城へ誘い出され殺害された。そのあと、2,000余騎の滝川軍に茂福城は囲まれてだが、城内にいた380人の茂福勢は抵抗をしたが、ほとんど討死し落城となった。滝川一益は目代として山口氏を置き、茂福地域を統治。遺構は殆ど消滅しているが、主郭北西隅の土塁の一部が塚のように残っている。

旧東海道石碑

ここは国道1号線。時々、旧東海道は国道1号線と合流する。殆どのものは道路拡張工事で消滅しているなか、国道1号線沿いに史跡が残っているのは珍しい。
今日は予定どおり、見たいところは全て見学ができた。明日は四日市宿の残りからだ。


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