Tokaido 東海道 35 (3/12/19) Kuwana Castle Ruins 桑名城跡

信長所縁の地

  • 万松寺
  • 日置神社
  • 真宗大谷派名古屋別院 (東別院 古渡城跡)
  • 白鳥山法持寺

桑名宿

  • 桑名の七里の渡し
  • 桑名城跡
  • 桑名住吉神社
  • 桑名宿本陣/脇本陣跡 (12/4に記載)
昨日は、一日中雨ということもあり、今回の旅で初めて一日中どこにも行かず、ホテルでゆっくりでき、体も休まった。今日から東海道の旅を再開。四日市まで行く予定。少し距離があるので、史跡を見ながらだときついかも知れない。無理な場合は一つ手前の宿の桑名泊まりとすれば良い。

信長所縁の地

昨日雨で無ければ軽く行こうと思っていた織田信長に係る史跡に向かう。

万松寺

信長の父の信秀の葬儀が行われた寺で、信長が信秀の位牌のに焼香を投げつけた話は有名。寺は名古屋市内の新天地通り商店街の中にあり、空襲で焼失した事もあり、昔の建物はもう無く、ビルにお寺が入っている。少し違和感を感じるが、これも仕方が無いのかもしれない。
織田信秀墓碑
父親の位牌に焼香を投げつけたエピソード。昔も今も、この行為には顔をしかめる人が殆どだ。傅役の平手政秀は信長の奇行を諌めるため自刃したというのがテレビドラマの定番。他にも信長との不和とか柴田勝家との不和説があるが、自刃の理由には説得力が無い。信長の焼香投げについては、なぜかわかるような気がする。急に優等生になる事には抵抗がある。父親への悔しい気持ちを伝えるに精一杯の表現だったのではと思う。

日置神社

桶狭間の戦いに向かう途中にここでも戦勝祈願をしたと伝わっている。今まで巡った中で三箇所で戦勝祈願をしている。もしこれが事実とすると、何故三箇所も戦勝祈願をしたのだろうか? 熱田神宮だけで良いはず。三箇所もやると自信の無さを家臣が感じる。熱田神宮だけであれば、気持ちを引き締めるためには効果的だ。信長公記では熱田神宮のみ書かれている。推測では残りの二つはその神社に伝わっているだけの様で、後から神社の箔をつける為の創作では無いかとも勘ぐりたくなる。もし事実としたら、軍勢を揃えるためのポイントとして利用したのかも知れない。定説では信長が清洲城を出立した時に共に付き従ったのは5人という。熱田神宮で1000人に膨れ上がった。いくらなんでも、家来5名で桶狭間まで突っ走る事はないだろう。信長軍は最終的には3000-5000と言われているので、体制を整えるポイントがあったにではないか、そのような事ができる広い場所は神社が寺の境内が適している。予め各部隊に有事の際の集合ポイントを決めていたとも考えられる。戦勝祈願が目的では無く、軍勢の統率が目的であったとすれば納得が行く。場所を借りるわけであるから、お詣りはしたのだろう。それが戦勝祈願として伝わったのではと思う。これはあくまで個人的な推測でその様に解説しているものは見つからなかったので違うかも知れない。

真宗大谷派名古屋別院 (東別院 古渡城跡)

この寺が創建される前は古渡城 (ふるわたりじょう) であった。古渡城は信長の父の織田信秀が1534年に東南方の今川勢に備えるために築城したとされている。天文17年 (1548) に居城を末森城に移し廃城となった。わずか14 年の命だった。信長は 天文15年 (1546年)、信長はこの城で13歳で元服している。江戸時代になり、この地は尾張藩となるが、第二代尾張藩主の徳川光友がこの城跡を真宗大谷派に寄進し創建された。この寺も空襲で焼失し、その後再建されたもの。

白鳥山法持寺

ここでも信長が桶狭間合戦の前に戦勝祈願をしていると伝わっているらしい。戦勝祈願の場所としては四つ目だ。
これで信長所縁の地巡りはおしまいにして、東海道の次の宿場である桑名に向かう。当時は宮宿から船で数時間かけて渡っていたので、陸路には旧東海道は無い。一番近いルートになる国道1号線で行く事にする。旧東海道の道を意識しないで、とにかく突っ走れば良いので楽だ。当時に海路で28 キロだが陸路だとほぼ直接距離になるので26 キロで少し短い。
長い橋を渡り、もう直ぐで桑名だ。
桑名の七里の渡しには午後3時に到着。史跡を1時間で済ませば、四日市までなんとかたどり着ける。まだ昼食を取っていなかったので、ここで簡単に昼食をして、まずは桑名城跡を見学する。

桑名の七里の渡し

この渡しには伊勢国一の鳥居が設置されている。これはこの地が伊勢国の東の玄関口として位置付けられていたからで、神社の鳥居ではなく、伊勢国への鳥居であった。慶長6年 (1601年) に、本多忠勝が町並みを整理し、桑名の港には、川口御番所、制札を掲げた高札場、船着場、船役所等があった。

桑名城跡

七里の渡しに隣接して揖斐川に臨む水城の桑名城がある。城跡には昔から残っている建物はなく、石垣、堀が残るのみで、現在は桑名城址九華公園になっている。永正10年 (1513年) に伊藤武左衛門が城館を築いたのが桑名城の起源。天正2年 (1574年) 織田信長がこの地を征し、家臣の滝川一益が入城。その後、豊臣秀吉の時代には神戸信孝、天野景俊、服部一正、一柳直盛、氏家貞和、松平家乗と城主が入れ替わった。関ヶ原の戦い後は、徳川家康が慶長6年 (1601年) に本多忠勝を桑名10万石に封じ、忠勝は入封直後、揖斐川沿いに城郭の建造を行い、城には船着場も整備し、4重6階の天守をはじめ、51基の櫓、46基の多聞が立ち並んだ。
ここではやはり、本多忠勝が英雄だ。後援には像がが建って (座って?j おり、忠勝のイメージ通りの容貌だ。
公園になって昔の縄張りとは変わってはいるものの、当時の縄張りがと照らし合わせながら城跡をまわってみた。城は本丸、二の丸、三の丸、そして複数の曲輪で構成され、水城と言われるように揖斐川から水を引き何層にも堀を巡らしている。
本丸
公園で城跡の写真を撮っていたら、掃除のおじさんが親切に本丸の場所を教えてくれて、簡単に説明をしてくれた。教えてくれた場所がここ。鎮国守国神社の裏側に隠れるように天守台があった。みんな見過ごしてしまうので教えてくれたのかも知れない。
辰巳櫓 (たつみやぐら)、神戸櫓 (かんべやぐら)
本丸の隅に二つの櫓跡がある。
本丸堀
本丸堀には二の丸と結ぶ橋が架かっている。
二の丸
二の丸は本丸堀と二の丸堀で囲まれ、外側にある武家屋敷とは二の丸門がある橋でつながっていた。
奥平屋敷
二の丸の先端部は奥平屋敷と呼ばれていた。
二の丸は三の丸 (左上) と本丸を囲むような帯曲輪のような物で繋がっている。この帯曲輪の様な所と外側にある武家屋敷との間には三の丸堀 (右下) があり鐘の門 (右上) と船入橋 (左下) で行き来ができるようになっていた。

入船門
三の丸堀が揖斐川と接するところには水門である入船門があり川から船で城の三の丸堀への入り口。
蟠龍櫓 (
船入門と七里の渡しの間には蟠龍櫓が外観復元されている。これは安藤広重の浮世絵に描かれている所だ。
七里の渡しから内部に水路があり多くの船が停泊している。この水路は江戸時代に整備された物で当時の石垣が残っている。

桑名住吉神社

桑名城から七里の渡しを挟んだ所に住吉神社があり、旅人の渡河の安全を祈願して建てられている。

桑名宿本陣/脇本陣跡 (12/4に記載)

桑名城の見学に時間を割いたので、桑名宿の様子も見る時間が無く、四日市まで行く予定だったが、今日はここで日没で打ち止め。泊まりは桑名宿の近くにすることにして、明日朝に桑名宿を見て四日市に移動することにした。


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