Tokaido 東海道 32 (30/11/19) Miya Shuku 宮宿

桶狭間合戦

  • 大高城
  • 鷲津砦
  • 長寿寺/高蔵坊稲荷
  • 丸根砦

東海道

  • 松田橋遺構
  • 長楽寺/清水稲荷

(41) Miya Shuku 宮宿

  • 裁断橋/姥堂
  • 加藤屋敷跡 (徳川家康幼少期幽閉地)
  • 東海道 道標
  • ほうろく地蔵
  • 熱田神宮
昨日は桶狭間の史跡を中心にまわったが、その合戦の直前に起こっていた織田と今川の戦闘がある。今日はまずそれに係る史跡を巡り、その後旧東海道に戻り宮宿を訪れる事とする。

大高城

桶狭間の戦いの前哨戦として、当時今川義元の配下であった松平元康 (徳川家康) が「兵糧入れ」をおこなったことで名高い。
この城は南北朝時代には存在している事が分かっているが築城時期については不明。戦国時代初期には織田信秀の支配下で水野氏が治めていた。信秀の死後、息子の織田信長から離反した鳴海城主 山口教継の調略で、大高城は沓掛城とともに今川方の手に落ちる。このt対抗策として信長は丸根砦と鷲津砦を築き牽制をしていた。桶狭間合戦の直前には松平元康が兵糧と共に城の守備についていた。桶狭間で義元の死により、元康は岡崎城に引き上げ、大高城は信長配下となった。このの後、暫くして廃城。現在は大高城址公園として綺麗に整備されている。本丸、二の丸曲輪跡、土橋、空堀などが遺構として残っていた。
二の丸への入り口があり、そこを通り、整備された二の丸がある。二の丸から本丸へは土橋が造られており、そこには空堀が残っている。
本丸は土塁で囲まれている。本丸内の少し高くなった所には神社が建てられていた。

鷲津砦

鷲津砦は、織田信長によって大高城が今川の手中になった際にその北東約 700メートルの丘陵上に築かれ、桶狭間の戦いの前哨戦が行われた所。砦は東西 25メートル、南北 27メートルというから、小さな規模だった。
織田信秀の死後、子の信長が跡を継ぐと信秀の家臣の鳴海城主山口教継が今川義元に寝返り、次いで義元は大高城を手中にした。信長は、大高城に対して丹下砦・善照寺砦・中島砦を築き、さらに大高城と鳴海城の間を遮断するために、丸根砦と鷲津砦を築いた。
鷲津砦には、守将として織田秀敏と飯尾定宗・尚清父子が置かれた。永禄3年5月19日 (1560年6月12日) 早朝、尾張に侵攻した今川軍は鷲津砦と丸根砦に攻撃を開始。鷲津砦攻めは朝比奈泰朝が行っていた。一方、織田軍はこの鷲津砦には織田秀敏を配置していた。信長は清洲城から出陣するが、熱田神宮に差し掛かったときには、すでに両砦は落城していた。鷲津砦はその日の桶狭間の戦いで義元は討ち死にして、その後、鷲津砦が使われることはなかった。

長寿寺/高蔵坊稲荷

鷲津砦の麓にある寺。桶狭間合戦とは関係はないのだが、すぐそこにあるのでここに書いておく。本堂の裏の丘陵が鷲津砦があり、桶狭間で焼失した。
隣には稲荷神社があり、この長寿寺と関係があったそうで、その事が案内板に書かれてあった。

丸根砦

大高城から東に約800メートルに位置し、鳴海から延びた丘陵の先端に築かれ、東西36メートル、南北28メートルの砦の周囲を、幅3.6メートルの外堀が囲んでいる。永禄3年 (1560年) 5月19日、桶狭間の戦いの前哨戦が行われ、佐久間盛重を将とする織田軍が立てこもったが、松平元康率いる今川軍に破れ全滅。桶狭間合戦の後、三河で独立した徳川家と織田家が同盟関係になったため存在意義を失い、そのまま放棄された。

松田橋遺構

織田信長が整備した浜の道に架かっていた橋の遺構が残っている。旧東海道と浜の道はここで交わる。

長楽寺/清水稲荷

旧東海道を進んでいると名古屋十名所の石標が建っていたので寄ってみた。清水稲荷という神社だが中に入ると、至る所に地蔵や石仏がある。神仏集合がそのまま残っている。境内を歩いているとすぐとなりに長楽寺という寺がある。元はひとつだったのだろう。寺と神社の境目がなく、ひとつの寺社の様に見える。
この様な看板があった。「旧今川領」とある。何故この様な看板があるのか分からないのだが、尾張のここまで今川義元は勢力を持っていた。名古屋はすぐ近く。当時は織田と今川の境に近く緊張状態だったであろう。これを見ると誰も織田が今川に勝利するとは思っていなかっただろう。

(41) Miya Shuku 宮宿

宮宿は東海道41番の宿場で鳴海宿から 1里24町 (6.5km) の距離で比較的短い。本陣2軒、脇本陣1軒、旅籠248軒、戸数2,924戸、人口10,342人。宮とは広重の浮世絵にもある熱田神宮を指す。

裁断橋/姥堂

小田原攻めで息子の堀尾金助を亡くした母が、息子の菩提を弔う為に橋の架け替えを行ったと伝わる裁断橋。

加藤屋敷跡 (徳川家康幼少期幽閉地)

旧東海道から少し入った所に徳川家康が6才の時に織田の人質として幽閉されていた熱田羽城といわれる加藤順盛屋敷。テレビドラマなどではこの時期に信長と親交がはじまったとあるが、実際はどうなのだろう?この頃は信長は清洲にいたのだろうか? 末森城だろうか?どちらにせよ、ここからは10km も離れている。ドラマで描かれている様な、近所の子供同士が集まり遊ぶ様な距離では無い。家康はこの後も今川の人質となった訳だが、家康の忍耐強く、慎重な生き方はこの人質時代の影響が大きいのではと思う。

東海道 道標

ここから7里の渡しに直角に曲がる所。北に行けば美濃道左に行けば東海道7里の渡し。

ほうろく地蔵

道標のすぐ脇に地蔵尊がある。以前はここに上知我麻神社 (かみちかまじんじゃ) があったのだが、道路拡張工事の為、熱田神宮に移転している。織田信長はここで桶狭間合戦時に丸根砦と鷲津砦の陥落を確認したといわれている。

七里の渡し

ここに来るのは3回目。江戸時代はここから桑名へ7里も船で移動した。迂回の陸路は無かった。7里といえば28km。当時では結構な距離だ。このルートの他に十里の渡しと呼ばれた四日市行きも出ていた。
渡し場の前にはいくつも宿屋が並んでいたらしい。今にも当時の建物が残っている。

熱田神宮

ここは中山道、佐屋街道 (陸路桑名方面へ行く姫街道) の分岐点で大いに賑わった所。熱田神宮には、数々の歴史上の重要な出来事に関わっている。創建時には日本武尊が豪族を納めたとされる、三種の神器といわれる一つ「草薙神剣」が祀られていると言われている。
織田信長が桶狭間へ進軍をする際、ここに立ち寄り戦勝祈願を行った。この時の熱田神宮の宮司も織田軍に加わった。桶狭間での勝利の後、信長が寄進したと伝わっている土塀が残っている。
境内はかなり広く様々な神様を祀った社が数多くある。ただ空襲でほとんどが焼滅してしまっているので、建物自体は新しい。

上知我麻神社

今日先に訪れたほうろく地蔵がある所には元々あった上知我麻神社はここ熱田神宮内に移動している。
今日はここ熱田神宮で日没となる。

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