Tokaido 東海道 33 (1/12/19) Kiyosu Castle Ruins 清洲城

名古屋市内織田信長所縁の史跡

  • 荒子城跡
  • 豊国神社
  • 太閤山常泉寺
  • 木下長嘯子宅跡
  • 正覚寺
  • 日吉神社
  • 清洲城
  • 清洲本陣跡
  • 丹羽長秀屋敷跡
  • 榎白山神社
昨日までに東海道の宮宿まで完了。ここから桑名までは旧東海道では海路だが現在はその航路はなく陸路はで行くことになる。今回は京都までではなく、紀伊半島を回り大阪までのよてい。東海道は次の宿場の桑名とその次の四日市が残るのみとなった。桑名に行く前に、ここ名古屋で戦国時代の史跡を廻ろうと思っている。中山道を走った時に名古屋の城は多く見たので今回はその時見れなかった所に行く。

荒子城跡

前田利家の居城の荒子城がこの地にあった。築城は父の利政で、その長男で嫡男である利久が家督を継ぐはずであったが、織田信長の命により利家が継ぐことになった。この経緯については色々な説があり、それぞれの説で歴史小説が創られている。前田利家にまつわる物語は面白い。個人的に好きなのは利久の子の前田慶次郎で、その破天荒な人生に共感 を覚える。

豊国神社

道路の前方に巨大な朱塗りの鳥居が見えてきた。そのまま道路が参道となっている。
豊臣秀吉の出生地と伝わっている場所に明治18年に神社が建立された。豊国神社と命名され、豊臣秀吉を祀っている。この神社を取り囲む様に中村公園となっている。ここから清洲城迄は4km。思っていた以上に信長と秀吉の生活していた場所が近かったのだ。
豊国神社が建てられた後に公園が整備され、更に中村公園内には迎賓館が建てられてい建てられていた。現在は中村公園記念館としてイベントなどで使われている。

公園にはひょうたん池・太閤池・関白池と秀吉に関わる名がつけられた池があり、今は紅葉が赤く色づいている。
豊国神社は秀吉を祀っているのだが、公園内には加藤清正ゆかりの八幡社と言う社がある。加藤清正もこの付近で生まれたと伝えられ、出陣の際に必勝祈願をしたとされる場所。
秀吉子飼の加藤清正や福島正則などの武将はこの地の出身で、その子供時代の像が公園内に建てられている。

太閤山常泉寺

この公園の隣にある寺の場所が秀吉出生地だそうだ。境内には秀吉づくし。出生地の碑、銅像、

木下長嘯子宅跡

常泉寺の入り口に木下勝俊 (長嘯子 ちょうせんじ) の住んでいた場所の碑が建っている。中村公園は当時は中村村だった。その一画に家があったのだろう。いつの年代の家なのかは書かれていないので、秀吉が日吉丸時代の同郷としてなのか出世した後に住居を構えたのかは分からない。本当はこのところまで書いて欲しい。そうでなければ、これを見た時のイメージが随分とかけ離れたものになっている可能性が高い。木下勝俊は秀吉の正室の北政所の甥で小早川秀秋の兄にあたる。秀吉の家臣であったが、関ヶ原合戦では東軍に属し、鳥居元忠と共に伏見城の守備にあたっていた。その後、父の木下家定の所領の備中国足守2万5千石を継いだが、弟の木下利房との領地問題で改易となり、丹波に移住し、そこで没している。武人としてよりも長嘯子と名乗った歌人としての才能の方が秀でていた人物。
今日はぽかぽか天気。中村公園で昼食をとり休憩を取っているとそのまま寝てしまった。昨夜はインターネットカフェに泊まったのだが、寝れるフラットな部屋が満席で椅子の席になった。深夜2時にフラットな席が空き移動したが、それからの就寝となり昨夜はあまり寝れなかった。どれぐらい寝たのかわからないが、この昼寝で時間をとってしまったので、今日はそれ程史跡は見れないだろう。

正覚寺

関ヶ原の戦いの後、清洲城城主となった徳川家康の四男の松平定吉が母の西郷局の供養の為に建立した寺で松平定吉の菩提寺。
桶狭間で戦死した今川兵士の供養塔で、元々は織田信長が清洲城外の須ノ口に塚を建て弔った。義元塚とか今川塚と呼ばれていた。寛文元年 (1661) に、その塚の場所に、この寺の住職が供養碑を建てていたが、ここに移設している。

日吉神社

日吉丸 (後の豊臣秀吉) の母がこの神社に子宝の祈願をして日吉丸が生まれたと言われている神社。この神社は元々日吉という名であったのか?それとも秀吉が出世したので、それにあやかる為に名を日吉神社としたのか? たまたま同じ日吉なので、後付けで秀吉伝説が生まれたのか?創建は771年と奈良時代となっている。名前の経緯については書かれていない。どうやら後付けで作られた秀吉伝説の様な気がする。
秀吉の母が境内にある子産石に触れて子が授かったとされている。
それに近い話題になるだろう趣向もこの神社にあった。秀吉にあやかった狛犬ならぬ狛猿と現代画家による猿たちの壁画。これはこれで変わっていて面白い。

清洲城

清洲城へは去年の夏に中山道を走った時岐阜から名古屋まで寄り道をして訪問した。前回は、再建された天守閣の資料館を見ただけで時間切れで周りはあまり見れなかった。今日はじっくりと見たく来たのだが、天守閣は改修中で閉鎖されていた。
この天守閣が建っているのは五条川の辺りで、この川を渡ると清洲公園と清洲古城公園がある。実はこの公園が実際に城があった所だった。しかも、この天守閣は再現ではなく、模擬天守。前回は気づかずこちらには来なかった。
清洲城は尾張守護斯波義重が応永12年 (1405) に築城し、守護代として織田敏定が入った。織田敏広は下津城に居城を置き、織田信長の父である信秀が清洲奉行として清洲城を居城としていた。その後、信秀は古渡城へ本拠を移し、清洲城は守護代織田信友のものとなりる。弘治元年 (1555)、織田信長は叔父の信光と信友を殺害し清洲城を奪う。以降、小牧山城へ移るまで信長の居城となった。本能寺の変の後は、信長次男である織田信雄が入ったが、天正14年 (1586) 小牧長久手の戦いにより城を逐われた。以降、福島政則、松平忠吉、徳川義直と城主は替わり、名古屋城築城により、慶長15年 (1610) に家臣、町人のみならず、神社・仏閣も社寺3社110寺、清洲城下の町屋約2700戸のほとんどが移転する「清洲越え」が実施され、廃城となった。
公園内には信長を祀った祠と信長と濃姫の像が設置されている。

清洲本陣跡

慶長15年 (1610)「清須越」で町は一旦寂れたが、江戸時代になって美濃路が整備され、ここに新たに宿場が置かれ、町は再び復興。その宿場町の本陣跡。隣には古いレトロの建物もある。病院だが本陣跡の表札と同じ名前だった。同じ所有者なのだろう。

丹羽長秀屋敷跡

丹羽長秀は本能寺の後の織田家の跡目問題を協議する清洲会議に参加した一人。織田家では柴田勝家と双璧と言われた実力者。本能寺の変の後は終始秀吉を支持し、加賀二郡の123万石の有数の大名となった。屋敷跡には石碑が建ち、白山社という神社になっている。

榎白山神社

織田信長は清洲城から美濃路を通って桶狭間に向かったのだが、その途中にあるのがこの榎白山神社。神社の案内板ではここで戦勝祈願を行ったと書かれてある。この美濃路を進むと先に訪れた熱田神宮がある。熱田神宮での戦勝祈願は有名だが、それ以外の神社でも戦勝祈願をしている記述がある。
昨夜の睡眠不足と明日は天気が荒れるとの予報。明日は今回の旅での初めての休息日とする事にして、今夜と明日の二泊を名古屋市内の安宿を探して予約。日も暮れたので予約した宿に向かう。


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