Tokaido 東海道 14 (12/11/19) Yoshiwara/Kanbara/Yui/Okitsu/Ejiri Shuku 吉原宿/蒲原宿/由比宿/興津宿/江尻宿

(14) Yoshiwara Shuku 吉原宿

  • 左富士神社/依田橋村の一里塚
  • 名勝左富士
  • 平家越え
  • 吉原宿 (新吉原宿)
  • 妙祥寺
  • 西木戸跡
  • 富安橋 (三度橋)
  • 袂の塞神 (蓼原単体道祖神)
  • 一里塚跡
  • 札の辻跡
  • 富士川渡船場

(15) Kanbara Shuku 蒲原宿

  • 常夜灯
  • 岩渕間宿 小休本陣 常盤家住宅
  • 岩渕一里塚
  • 一里塚 
  • 蒲原宿 東木戸跡
  • なまこ壁の家
  • 旧和泉屋
  • 平岡西本陣
  • 磯部屋
  • 増田家
  • 御殿道跡/高札場跡
  • 西木戸跡

(16) Yui Shuku 由比宿

  • 由比宿東枡形
  • 由比宿本陣
  • 由比宿脇本陣
  • 由比宿問屋
  • 明治の郵便局
  • 小池邸
  • 倉沢間宿 本陣
  • 倉沢間宿 脇本陣 柏屋
  • 望嶽亭藤屋
  • 薩埵峠

(17) Okitsu Shuku 興津宿

  • 東本陣 市川本陣
  • 脇本陣 水口屋
  • 坐漁荘
  • 常夜灯

(18) Ejiri Shuku 江尻宿

  • 細井の松原 (11/13に記載)
  • 寺尾本陣跡 (11/13に記載)

宿を出て間もなく富士山が目に入って来た。さすが富士市、ほとんどのところから富士山が見える。今日は昨日と違って快晴。今日は色々な富士山の顔が見えるだろう。
吉原宿に残る史跡を巡る。



左富士神社

ここはもともと吉原宿があったところ。元吉原宿と呼んでいる。この地は水害に悩まされた為、宿場は内陸部に移った。それが新吉原宿だ。ここは左富士で有名な所。神社の名前も左富士。
この近くには依田橋村の一里塚があった。記念碑と一里塚のミニチュアを境内に造っている。


名勝左富士

ここでは旧東海道は北に伸びている、それで富士山が向かって左側に臨める。東海道で富士山が左に見えるのは2ヶ所。先日通った藤沢の南湖とここだけだ。左富士と呼ばれている。ここでは数十メートルの間だけで左に見えるが、すぐに道が曲がり右富士に戻る。この数十メートルの間でも、今は高いビルに遮られ。まともに見えるのはこの交差点のところだけだった。
安藤広重の五十三次名所図会では藤沢の南湖の松原左富士とここの吉原左富士がある。



平家越え

源頼朝の軍勢が平家を破った富士川の戦いがあったのがこのあたりと伝わっている。てっきり川幅の広い富士川が戦場と思っていたが、こちらの小さな川の方だった。



吉原宿 (新吉原宿)

吉原宿は東海道14番の宿場で原宿から3里22間 (11.8km) の距離。本陣2軒、脇本陣3軒、旅籠60軒、戸数653戸、人口2,832人。
宿場町は商店街になっており、当時の面影は一切無い。本陣などの宿場施設の案内板はあるが、表示もなく、宿場町を観光には利用していない。富士山があるからか?勿体無い。


妙祥寺

吉原宿の史跡として案内板があったので来てみた。日蓮聖人の直弟子六老僧の一人、大成弁阿闍梨日昭上人を開山に仰ぎ、二祖香久阿闍梨本実坊日雲上人を開基として鎌倉時代後醍醐天皇代の元亨3年 (1323) に元吉原宿今井の地に創建。延宝8年 (1680) に大津波と台風に襲われ、全山流失。天和2年 (1682) 新しい吉原宿の現在の地に移転再興。境内には巨大日蓮像がある。


西木戸跡

吉原宿の西の端で吉原宿はここで終わる。


富安橋 (三度橋)

潤井川に架る富安橋を渡り次の蒲原宿に向かう。


袂の塞神 (蓼原単体道祖神)

このような人形をした道祖神は珍しい。ほとんどは石柱にレリーフのように道祖神が刻まれているのがほとんど。東海道の道祖神は男女対のものが多い。これは珍しいのか、案内板にはわざわざ単体と書かれていた。東北は男女対の道祖神は稀だったのと異なる。何故だろう?
この近くから見える富士山


一里塚跡


札の辻跡

ここは人の行き来が多かったので高札が立っていた。この様な場所を札の辻と読んでいた。


富士川渡船場

川幅が広い富士川には橋が無かった。江戸時代は渡船を利用。ここに渡船場があった。そこには水難が起こらぬように水神社が建てられ、今も残っている。渡場は橋の少し上流にあったそうだ。
富士川の東側が電流が50Hz (ドイツ方式) の地区、西側が60Hzの地区 (アメリカ方式) で、この近辺はこの2つが混雑している様だ。どこかで統一出来なかったのだろうか? 西と東の間を引越しする時電化製品を買い替えねばならず不便だった。
ここからも富士山が見える。
橋は歩道が独立して車道とは分離されている。橋は川からかなり高いところにあり、下が見える。高所恐怖症なので、自転車に乗っては渡れない。降りて自転車を押しながら歩く。横をおばあさんや女学生が平気な顔をして自転車で追い越される。よくこんな怖いところが走れる物だ。

富士川を渡ると蒲原宿がもうすぐだ。河岸段丘への登り坂になる。常夜灯が残っている。


小休本陣 常盤家住宅 (間宿 岩淵)

この地区は岩淵といい、吉原宿と蒲原宿の間の間宿 (あいのしゅく) として栄えた所。東海道が元吉原宿が大津波によってルート変更された際、吉原宿と興津宿の間が長くなったため、作られた間宿。常盤家は、江戸時代初期から富士川の渡船名主を務め、その屋敷は休憩施設「小休本陣 (こやすみほんじん)」の役割も果たしていた。間宿で本陣があるのは珍しい。


岩渕一里塚

岩渕間宿の西の端には一里塚。一帯は住宅街になっている。
一里塚を超えると降り坂になりしばらく走ると蒲原宿に入る。蒲原宿のすぐ手前にまた一里塚跡がある。日本橋から38番目。先程の一里塚から一里 (4km) も走っていないように思えるのだが、宿場中には一里塚はあまり意味がないので手前に造ったのか?


蒲原宿東木戸跡/常夜灯

ここから蒲原宿が始まる。



(15) Kanbara Shuku 蒲原宿

蒲原宿は東海道15番の宿場で吉原宿から2里30町23間(11.2km) の距離。本陣1軒、脇本陣3軒、旅籠42軒、戸数509戸、人口2,480人。大津波により、ルートを山よりに移したことで、安藤広重の浮世絵に描かれているのは蒲原峠で「雪の蒲原」と言われている。こんな雪深い所とは思えないのだが、これは広重が勝手に雪が降せた図にしたそうで、こ滅多に雪は降らない温暖な所。広重が何故こんな絵にしたのだろう? 見ている風景に雪が似合うと思ったのだろうか?

蒲原には古い家屋が残っている。



なまこ壁の家


旧和泉屋


平岡西本陣


磯部屋


旧五十嵐歯科

大正時代に建てられた洋風建物。中は和風だそうだ。


増田家


御殿道跡/高札場跡

蒲原御殿は武田信玄が織田信長の慰労にために造り、江戸時代には徳川秀忠、家光が拡張した所。


西木戸跡

ここで蒲原宿が終わる。

由比宿を目指す。街道には旧家がいまだに残っている。



(16) Yui Shuku 由比宿

由比宿は東海道16番の宿場で蒲原宿から1里(3.9km) の距離。本陣1軒、脇本陣1軒、旅籠32軒、戸数160戸、人口713人。良好な漁場があり、海産物で栄えた。桜えびは駿河湾のここでしかとれない名物。町には多くの桜えびを売る店があった。安藤広重の浮世絵は薩埵峠から見た駿河湾と富士山。

由比宿東枡形

この宿でも入り口は枡形になっている


由比宿本陣

本陣が復元されて公園と博物館になっている。浮世絵の広重美術館、明治天皇が泊まった御幸亭、交流館がある。小さな宿場だが結構充実させた観光スポットになっている。
由比宿復元模型
表の塀は馬の水呑場になっていた。今は亀の水呑場になっている。


由比宿脇本陣/正雪紺谷

由比正雪の生家がある。今でも染め物屋をいとなんでいるどうだ。ここでは由比正雪本陣みんな知っているのだが、何をした人かは地元でも知らない人が多いと会った人から聞いた。由井正雪は、江戸初期に生まれ、家業紺屋を継がず、楠木流の兵学を学ぶも、クーデター未遂で自刃。この時のクーデター 慶安の変の主犯者の由比正雪と丸橋忠弥の首はこの旅の初日に訪れた品川の鈴ヶ森刑場に晒された。


問屋/明治の郵便局跡

ここから薩埵峠に向かう途中にも旧家が残っている。


小池邸

寺尾集落の地元の名主の家。150年程前に造られた。平成6年まで人が住んでいたが、その人は亡くなり売りに出されたものを市が買い取り公開している。千本格子が素敵だ。
小池邸の前の家は300年も経っているのだが、今でも人が住んでいるそうだ。
更に走ると別の間宿の倉沢に入る。国道1号線に平行して、旧東海道が少し高くなった所を走っており、倉沢は薩埵峠への登り口のところにある。



倉沢間宿 本陣/脇本陣 柏屋


望嶽亭藤屋

昔、脇本陣、茶亭として賑わった所。明治元年、幕臣の山岡鉄舟が官軍に追われ、この望嶽亭で漁師に変装し階段脱出したと言うエピソードがある。


一里塚跡

薩埵峠へ向かう坂の起点に一里塚跡がある。ここに自転車を停めて徒歩で登る。自転車ではきつい坂だ。

薩埵峠

この薩埵峠は前回東海道を走った時に来ている。その時は興津宿からで今回とは反対側から、急な山道を自転車を担いで登った。かなり辛かった覚えがあるので今回は麓に自転車を置いて行く。この薩埵峠は東海道の難所の一つだが、景色は抜群の所だ。広重の浮世絵に描かれている風景が見れる。ここをスキップする訳には行かない。坂道を登るたびに富士山の見える風景が微妙に変わる。これもここの楽しみだ。
駿河湾の向こうには伊豆半島が見える。
この薩埵峠は武田信玄が上洛を企てた時に今川勢との衝突が起きた所。今川軍は武田軍をこの薩埵峠でくいとめようとし、1万5千の兵を布陣したが、この中の武将達は既に武田の調略で武田に寝返っていた。戦闘が開始すると寝返りが表面化し今川勢は駿府に逃げ帰った。
旧東海道富士山この薩埵峠を越えて興津宿に行くのだが、自転車えお麓に停めているので、見た道を引き返し、国道1号では迂回して旧東海道に戻る。



(17) Okitsu Shuku 興津宿

興津宿は東海道17番の宿場で由比宿から 2里12町(9.2km) の距離。本陣2軒、脇本陣2軒、旅籠34軒、戸数316戸、人口1,668人。
興津宿はあまり史跡は残っていないが、比較的古い家屋が残っている様な気がした。薩埵峠を登って、もう夕方近くなっているので、先を急ぎ写真におさめる余裕が無かった。


東本陣 市川本陣

本陣は史跡柱のみ


脇本陣 水口屋

水口屋は興津宿の脇本陣。明治時代は西園寺公望や伊藤博文など政治経済の大物たちが数多く宿泊した。


坐漁荘

西園寺公望公が政治の最前線から引退した後、別邸として1920年に建てた。現在の建物は図面通りに木造2階建ての京風数寄屋造りでは復元したもの。


常夜灯

ここでそろそろ興津宿は終わりだ。



(18) Ejiri Shuku 江尻宿

江尻宿は東海道18番の宿場で興津宿から 1里2町(4.1km) の距離。本陣2軒、脇本陣3軒、旅籠50軒、戸数1,340戸、人口6,498人。


細井の松原 (11/13に記載)

ここから、今日最後の富士山。もうすぐ日が暮れる。宿のある清水迄はもう少し。


寺尾本陣跡 (11/13に記載)

もう日が暮れたので、江尻宿はここで中断して宿に向かう。明日続きを見てみよう。

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