Okinawa 沖縄の旅 Day 30 (31/08/19) Bengadake 弁ヶ嶽
Shichibanmo 七番毛
Monument of Kyoduka 経塚の碑
Bengadake 弁ヶ嶽
Okinawa Shrine 沖縄神社
Fitatimo 火立毛
Shimobara Bridge 下原橋
昨日、識名園入り口にあった史跡案内板に掲載されていた場所に行く事にする。那覇市と南風原町の境になる。首里駅からすぐの所。何度も首里駅には行ったので、同じルートで行くのはつまらないので、今日は経路を変えていく事にした。安里駅からおもろまち駅、児島駅からさらに北の地区をぐるっと周って首里駅近くまで行くルートにした。児島駅から北の方向に行くと浦添市との境になる。どこかで東に折れる道が地図上ではあるのだが、東への道路は高架になっていて、直接は繋がっていなかった。どこかで曲がらねばと道を探しながらいるのだが、結局、浦添城近くまで迷いこんでしまった。
浦添市が用意している史跡案内板に出くわす。歴史の道の表示がある。浦添市も観光に力を入れているのだろうか?
Shichibanmo 七番毛
七番毛は北の坂 (ニシヌヒラ) の頂上付近にある毛 (広場) のこと。国王が首里城から普天満参詣などに向かう際の休憩場所。松の葉陰の下で西の海に浮かぶ慶良間諸島を眺めつつ、伴の者の楽曲演舞を楽しんだという。もっとも休んだのは国王だけでなく、王の乗る輿を担ぐ人たちも急な南の坂 (フェーヌヒラ) を慎重に下り、険しい北の坂を上ったところで息も絶え絶えであったでしょうから家臣のためにもここで一服したのでしょう。と案内板にある通り、かなり登ってきた標高100mぐらい。あいにく、今ではビルや家屋が立ち並び、案内板の言う慶良間諸島を眺めることは出来なかった。
表示されている歴史の道を走ってみる。
Monument of Kyoduka 経塚の碑
昔、ここに巣くう妖怪が道行く人々をたぶらかしていた。16世紀のはじめ第二尚氏王統の尚真王時代、尚真王の仏教の師であり護国寺を建てた日秀上人が金剛経というお経をかいた小石を埋め、その上に金剛嶺と刻んだ石碑を建て妖怪を鎮めたと伝えられている。この後に、王の家来が国頭へ書状を届けた帰路にこの場所で酒を飲んで寝入ってしまった。大きな地震が起こったが、家来はぐっすりと寝ていたので地震には全く気づかず、首里へ帰城し、王様に帰着の報告をした。王に地震の事を聞かれたが、酒で寝入って気づかなかったとは言えず、経塚は揺れなかったと報告してしまった。それから、大地震があってもこの場所は揺れなかったとされ、地震の際には「チョウチカチカ」「チョウチカ、チョウチカ」(チョウチカ=経塚)と唱えると地震がおさまると信じられるようになったと言う。今でも沖縄民間風俗で、地震や災害などのとき「チョーチカチカ」と三度唱えるそうだ。
ゆいレール経塚駅
モノレールNo駅が経塚の近くにあった。経塚駅。初めて聞く。モノレールは首里駅までと思っていたが、どうもまだ使っておらず工事中だった。ゆいレールが延長されるのだ。浦添城近くまでの首里駅から4駅増える。開業はこの10月。更に延伸の計画もあるらしい。ここで気になったのが、沖縄鉄軌道構想計画との関連性だ。調べてみると、どうもお互いに話はしているものの、個別に進めているようだ。インターネットではお互いへの影響を分析したレポートがあった。このようなものは計画前にあるべきだが、それぞれが計画を発表した後に出されている。どうも少し変だ。沖縄鉄軌道構想はまだまだ実現されないのではと感じる。路線はまだ決まっていない。そのうちにゆいレールがどんどん延伸して行けば、その度に沖縄鉄軌道構想の見直しが必要になり、どんどん実行が遅れるかもしれない。政府からの交付金が多くを占めるので、比較的楽観的に進めてしまう可能性もある。ゆいレールも沖縄鉄軌道構想もこの交付金ありきで進めているようなので、乗客の食い合いは二の次なのかも知れない。この交付金は沖縄の発展に寄与してきてはいるが、同時に安易に不採算プロジェクトが進んでいる可能性もある。
ゆいレールの線路の下を首里駅まで向かう。浦添市から那覇市に戻る。
Bengadake 弁ヶ嶽
那覇市と南風原町の境にある那覇市側の峠で首里城の東方約1km、標高165.7mで那覇市では一番高い所。本島中南部では与座岳(168.5m)に次ぐ高さの峰。高校生がクラブのトレーニングでこの峠越えのランニングをしていた。辛そう!峠の頂上付近に史跡がある。
弁之御嶽 (ビンヌウタキ) と呼ばれている。峰全体が御神体となっており、かつては航海の目標ともなっていた。弁ヶ嶽には大小二つの御嶽があり、参詣道を挟んで東側の小高い杜になっている方が大嶽、南側の低い方が小嶽。大嶽は神名を「玉ノミウヂ スデルカワノ 御イベツカサ」といい久高島への遥拝所、小嶽は神名を「天子(テダコ)」といい、知念村の斎場御嶽(セーファウタキ)への遥拝所であった。大嶽の前には石門があり、1519年頃に園比屋武御嶽(石門)とともに築かれたといわれており構造も工法もよく似ていた。沖縄戦で壊され、現在のコンクリート造りの門に建てかえられた。古くは国王が自ら久高島まで拝みに行っていたのが、国王が船旅をする季節(2月)は航海の安全上問題があるとの理由や、国王が決まって通る道周辺にある村々の人的・経済的負担が大きいなどなどの理由で、国王が久高島まで拝みにいくという習慣は廃止され、久高島が見えるこの地に遥拝所が作られたと言われている。
Okinawa Shrine 沖縄神社
地図に沖縄神社を見つけた。沖縄と名が付いているので、さぞ立派な神社かと思い。訪問リストに入れていた。弁ヶ嶽はリストには入っていなかったが、この沖縄神社を目指してきたら、隣がそうだったというわけ。訪れてみて、少々気の毒になった。小さな祠があるだけ。祠の中には5つの石が配列されており、その上の国王の名前が書かれてある。(舜天王・英祖王・察度王・尚思紹王・尚圓王) 祠には紙に仮本殿と書かれたものが貼り付けてある。本殿を建造する予定なのだろうか? 多分ずうっと仮本殿のままだろう。沖縄での神社の状況をそのまま表しているようだ。調べてみると、沖縄神社は元々は大正14年 (1925年) に首里城跡に創建され、拝殿は首里城正殿を流用していた。旧正殿裏側の御内原のところに本殿が造営され、源為朝と歴代国王が祀られていた。(「椿説弓張月」には源為朝が琉球へ逃れ、その子が初代琉球王舜天になったという話がある。子供の時に物語は聞いていた。)第二次世界大戦では、米軍の砲撃を受け、山もろとも大破。戦後、跡地には琉球大学が置かれた。昭和35年 (1960年) になって沖縄神社再建運動が起こり、琉球大学に土地の返還を求めたが拒否され、やむなく弁ヶ嶽の隣に再建された。
Fitatimo 火立毛
王府時代の灯台の役目をした烽火台跡で、創設年は不明。西原、南風原の両町と首里石嶺町の3つの地域の接合する毛 (モー)と呼ばれる丘にある。[七番毛では毛を広場とかいせつしていたが....] ここに烽火台が設けられたことから火立毛 (フィータティモー) と呼ばれる。現在はこの周り一帯は墓地になっている。地図をみると、ここ以外にも火立毛は数カ所あるようだ。中国や薩摩への往復する船等が帰帆する時期や付近漁民の船が遠くの漁から帰る頃に、石積みのなかで松葉を焚いて沖を航行する船に島の在りかを知らせ、船が太平洋へのり出さないようにしたといわれている。烽火台は沖縄戦で破壊され、さらに戦後、丘の頂は削られて墓地群となってしまい、判読不明だが文字の刻まれた石だけが残されている。ここからは360度視界が開けている。まだ、どこがどこだかわからないが、絶景だ。特にガイドブックをみてきた訳では無く、地図でこの名前が面白そうと思い来ただけなのだが、ここに来れて幸運だった。
この火立毛は那覇市の東の境で、南風原町に接している。南風原町へはこの標高160mから一気に急坂を降りたところにある。以前は崖になっていたのではないかな。自然にできた境界線だ。とりあえず降りてみる。もう一度登る気力は無いのだが.....
Shichra Bridge 下原橋
坂を降りた所に細い安里川がある。そこに石積みの橋があると南風原町のガイドブックに載っていた。表示板は無い。茂みの中に石積みの橋を見つけた。下原 (しちゃーら) 橋は琉球王朝時代に架けられた橋だと思われる。
今日はかなりのアップダウンの急坂を何度となく超えてきたのと、湿気の多い暑さの中で、少々疲れた。これで早めに切り上げて、また後日、南風原町探索をする事にしよう。今日で那覇市探索はほぼ完了とし、数日は休暇で、図書館で沖縄の歴史の勉強をする事にする。
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