Okinawa 沖縄の旅 Day 29 (30/08/19) Shikinaen 識名園

Shikinaen 識名園
Tomb of Tei Junsoku 程順則の墓
Tomb of Chinen Sekiko 歌氏知念穂高の墓
Shikina Baba (Riding Ground) 識名園馬場跡
昨日、首里城の見学が終わり、那覇市の主だった史跡は識名園を残すのみとなった。今日はゆっくりと見学と行こう。

Shikinaen 識名園

識名園 (シチナヌウドゥン) は、琉球王家最大の別邸で、国王一家の保養や外国使臣の接待など迎賓館として利用された。第二尚氏王朝 尚穆 (1752年 - 1795年) の時代に造園が始まり、尚温の時代の1799年に完成。1800年に尚温王冊封のため訪れた正史の趙文揩、副使の李鼎元を招いてる。王家の別邸としては1677年、首里の崎山村に御茶屋御殿 (ウチャヤウドゥン 8/24に訪問) が造園されたが、首里城の東に位置したので東苑とも呼ばれ、その後につくられた識名園は、首里城の南にあるので南苑とも呼ばれた。識名園の造園形式は、池のまわりを歩きながら景色の移り変わりを楽しむことを目的とした本土でもポピュラーな廻遊式庭園。識名園では、”心”の字をくずした池の形 (心字池) を中心に、池に浮かぶ島には中国風東屋の六角堂や大小のアーチが配され、池の周囲には琉球石灰岩を積みまわすなど、随所に琉球独特の工夫が見られる。識名園はかつて、春は池の東の梅林に花が咲いてその香りが漂い、夏には中島や泉のほとりの藤、秋には池のほとりの桔梗が美しい花を咲かせ、常夏の沖縄にあって、四季の移ろいも楽しめるよう、巧みな配慮がなされていた。1945年 (昭和20年) の沖縄戦で破壊。1975~96年 (昭和50年~平成8年) 総事業費7億8千万円をかけて復元整備された。2000年 (平成12年)に、ユネスコ世界遺産(琉球王国のグスク及び関連遺産群)として登録。

なお、敷地内に「育徳泉(いくとくせん)」という泉が湧く。そこに生える淡水産の紅藻類「シマチスジノリ」は国の天然記念物である。
本土の庭園と少し雰囲気が異なる。本土では松や竹、紅葉のような樹々で庭園を造っているのだが、沖縄は常夏の地でガジュマルの木が庭園内に多く生息している。それと石畳は沖縄特有の石灰岩でできているのも雰囲気が異なる要素。

正門

通用門

番屋

育徳泉

池の水源の一つ。琉球石灰岩を沖縄独特のあいかた積み。井戸口は右手にもあり、井戸口の上には、二つの碑が立てられている。向かって右は、1800年、尚温王の冊封正使趙文楷の「育徳泉碑」、左の碑は、1838年、尚育王の冊封正使林鴻年の「甘醴延齢碑」です。沖縄戦災で一部破損、後に、拓本をもとにして復元。
単に池と表示されており、特に名前が付いている様ではない。昔は育徳泉が流れ込んでいた。

御殿

御殿は往時の上流階級のみに許された格式ある赤瓦屋根の木造建築で、雨端 (あまはじ) などに民家風の趣を取り入れている。明治末期から大正時代のはじめごろ、増改築がなされている。総面積は約159坪で、冊封使を迎えた一番座、それに連なる二番座、三番座、台所、茶の間、前の二番座など、15も部屋があった。きらびやかさは無いが、落ち着いた作りになっている。外観こそ沖縄風だが、内側は伝統的な日本家屋の様にも見える。個人的にはゴテゴテした権力を前面に出した作りより、この様なシックな作りの方が好み。

六角堂
池に浮かぶ島につくられた六角形の東屋。

中国風の石橋

池には二つの趣向の異なる橋が架かっている。双方とも沖縄の個性が出て、シンプルだが味がある。
勧耕台
沖縄那覇から南が見渡せる展望台が作られていた。今はどこまでもビルや住居が続く。那覇の人口密度が高いことがよくわかる。
船着場
船を浮かべて舟遊びで冊封使を歓待した。
滝口
今はもう無いが、この滝口には八角堂が立っていた。
ここにも戦争の爪跡が....
識名園の入り口に周辺の史跡案内板があった。周りは広大な墓地があり、そこに著名な人物の墓があると書かれていたのでいくことにした。墓地には新しい墓や古い墓が混在している。と言うことは、この墓地自体が数百年前からこの様な集合墓地としての形であったと言うことか? 那覇を回るとこのように、高台には必ずと言っていいほど集合墓地がある。
Tomb of Tei Junsoku 程順則の墓
久米村出身の高官。三司官を務めた。かつての久米村があった所を訪れた8/14に程順則の生誕地があった。

Tomb of Chinen Sekiko 歌氏知念穂高の墓

1761年首里の桃原村に生まれ、百姓だったが、歌と三線の才能があり、中国からきた冊封史達の前で士族達と一緒に演奏した事もあった。ついには士族にもとりあげられた。弟子には安冨祖流を開いた安冨祖正元 (あふそせいげん)、野村流を開いた野村安趙 (のむらあんちょう) がいる。

Shikina Baba (Riding Ground) 識名園馬場跡

ここにも馬場跡があった。首里城の近くには龍潭辺りの松崎馬場跡と崎山馬場跡を訪れた。これで3つ目。
先程の史跡案内板でまだ行っていない所があったので明日にでも行ってみよう。だいたい周り尽くしたかと思っていたが、まだまだ隠れ史跡がありそうだ。こんなに史跡を紹介している市は日本全土を周ってみて初めて。鹿児島も多かったが、那覇はそれに比べ物にならないぐらい史跡紹介に力を入れている。鹿児島も那覇も第二次世界大戦でほとんどの史跡が破壊されて、形として見せられるものが少ない。それだからこそ後世にここは何があった、何が起こっていたかを表示板だけでも整備しようとしているのだろう。歴史を風化させない為に地味な努力をしていると思う。那覇を周ってみて、この案内板だけでも、有り難い。これをたどることで歴史が見えてくる。那覇市の観光課に感謝だ。

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