Okinawa 沖縄の旅 Day 15 (16/08/19) Old Mawashi Area & New Capital Area 旧真和志/那覇新都心

Former Ufudo Pine Grove 大道松原跡
Former Chanazachi Bridge 茶湯崎橋跡
Kirama-Chiiji (Sugar Loaf) 慶良間チージ (シュガーローフ)
Remains of Uranda (Dutch) House オランダ屋敷跡
Makabi Village 真嘉比村
Tomb of Izena Dunchi 伊是名殿内墓
Nanayuhibira ナナユヒービラ
Rinkaiji Temple 臨海寺
Ameku Gusuku Castle Ruins 天久城跡
Ameku Shrine 天久宮
Seigenji Temple 聖現寺と亀甲墓
Tomari Habor 泊港
Shirakawagu 白川宮
Remains of Asato Village Shooting Range 安里村射的場跡
今日は近くの旧真和志村から新都心に行き泊までの行程で史跡を巡る。

Former Ufudo Pine Grove 大道松原跡

大道松原 (ウフドーマツバラ) は、琉球王国時代、現在の首里観音堂付近から大道地域にかけて続いていた見事な松並木。大道地域には大道毛 (ウフドーモー) と呼ばれる小高い丘があり、1501年に尚真王は、尚家宗廟の円覚寺を修理するための材木として、この丘に松の苗一万株を植えさせた。当時は、万歳嶺 (現観音堂)、官松嶺 (現都ホテル付近) から、この大道毛を含む大道地域にかけて、松並木が続いていた。1879年 (明治12) の沖縄県設置後、松並木は切り倒された。戦後、道路の拡張整備や宅地化により、松並木は失われてしまった。戦後、那覇は人口増加が激しく、宅地造成が最優先された時代だった。今、考えると勿体無い事をしてしまった。しかし、当時はその時代を生き抜く事で精一杯だったのだろう。

Former Chanazachi Bridge 茶湯崎橋跡

茶湯崎橋 (チャナザチバシ) は、旧茶湯崎村を流れる真嘉比 (まかび) 川に架けられ、王国時代から昭和期にかけて首里・那覇を結ぶ重要な橋であった。1674年に木橋から石橋に架け替えられた。かつて、この辺りまで船が遡ってきたといわれている。今よりもっと川幅も広く、深かったのだろう。ここも宅地造成で川も様変わりしてしまったのだろう。1945年 (昭和20) の沖縄戦の後、道路整備に伴い、茶湯崎橋の道は旧道となり、橋の北側を走っていた電車軌道跡が新たな県道となった。更に川筋も変えられ、橋の位置も移動した。(だから、小川のようになってしまったのか)

Kirama-Chiiji (Sugar Loaf) 慶良間チージ (シュガーローフ)

沖縄戦の激戦地。字安里 (あざあさと) の北に位置する丘陵地帯に築かれた日本軍の陣地の一つ。日本軍は“すりばち丘”、米軍は“シュガーローフ”と呼んだ。一帯の丘陵地は、日本軍の首里防衛の西の要衝で、米軍の第6海兵師団と激しい攻防戦が展開された。特に慶良間チージでの攻防は、1945年 (昭和20) 5月12日から1週間に及び、1日のうち4度も頂上の争奪戦がくりかえされるという激戦の末、18日に至り米軍が制圧した。米軍は死者2,662人と1,289人の極度の精神疲労者を出し、日本軍も学徒隊・住民を含め多数の死傷者を出した。それ以降、米軍は首里への攻勢を強め、5月27日に首里の第32軍司令部は南部へ撤退した。沖縄戦は、首里攻防戦で事実上決着していたが、多くの住民をまきこんだ南部戦線の悲劇は、6月末まで続いた。

Remains of Uranda (Dutch) House オランダ屋敷跡

日本メソジスト教会の外国人宣教師の屋敷跡。かつて沖縄では欧米人のことをウランダー (オランダ人) と呼んだことから、その名が付いた。てっきりオランダ人が住んでいたと思っていたが、ウランダーは外人という意味だった。沖縄におけるメソジスト教会の布教は、1892年 (明治25)、久米に礼拝堂が開かれたことに始まる。1906年 (明治39) に、アメリカ人ヘンリー・B・シュワルツ博士が派遣され、布教・伝道を行った。シュワルツはこの地 安里の高台に居を設け、那覇・首里の教会で活動して沖縄県立中学校 (現首里高等学校) で英語を教えた。シュワルツの後任にアメリカ人アール・R・ブール宣教師。シュワルツやブールは、伊波普猷ら沖縄の知識人とも交流があった。沖縄戦後、一帯は住宅地となった。

Makabi Village 真嘉比村

琉球王国時代、現在の真嘉比・古島 (ふるじま) 地域は、真和志間切真嘉比村と呼ばれ、小字真嘉比原バルに集落が形成された。1879年 (明治12) の沖縄県設置の後、真和志間切真嘉比村は、1908年 (明治41) 真和志村字真嘉比となり、1920年には字真嘉比の北東地域が字古島として分離した。古島を含むかつての真嘉比村は、首里・那覇に隣接する純農村地帯で、サトウキビや真嘉比川周辺の真嘉比川原 (マカンジャーラ) の田芋は特に有名であった。また、首里 (儀保村) から那覇 (崇元寺) に至る真嘉比道 (マカンミチ) と呼ばれる道が通っており、一部には石畳が敷かれていた。この道は、首里の人々が人目を避けて那覇の辻 (遊郭) に行くために通ったり、末吉・西原村辺りの人々が那覇の市に荷を運ぶために利用したという。真嘉比道周辺の丘陵には数多くの墓が建立されており、幽霊話の舞台ともなった。写真にある真嘉比公園の隣は墓地だった。2000年頃までは、真嘉比地域でも集落の形態や真嘉比道、周辺の丘陵・墓などもかつての姿を残していたが、土地区画整理事業が進み、見違えるほど整備された街が誕生した。確かにここはおもろまちから近く、この地域一帯は那覇中心地の中途半端に古い街並みに比べて近代的な街並みだ。

Tomb of Izena Dunchi 伊是名殿内墓 

伊是名殿内の墓は、伊是名・伊平屋両島の総地頭家 (上流士族)、伊是名家の墓。沖縄県沖縄本島南部、首里城跡の西方約3kmにある沖縄グスク時代から琉球王府時代/明治時代に続く大規模な墓跡群である銘苅墓跡群の中にある。県内最大級の亀甲墓で、(亀甲墓は17世紀中国南部から伝わり、18世紀代に沖縄において独自に発達) 建造技術も沖縄県内の墓の中でも傑出したもので、道教 (風水) の思想を基につくらている。 この亀甲墓は市内至る所で見られる。これはこの亀甲墓は氏族階級に限られていたが、廃藩置県後、一般庶民にも広がったからだ。沖縄戦の前はもっと多かった。この亀甲墓は広く防空壕として使われていた。その容貌から米軍には軍事拠点にも見え、攻撃の対象になったと言われる。沖縄では個人の墓では無く家の墓になる。その家の人全てが同じ墓に入る。沖縄の人たちの生活の一部になっている。この亀甲の形は子宮を表しているという。生まれてきた所に戻るという意味がある。もう一つ、沖縄の独特の風習が風葬だ。墓の内部にはシルヒラシという広いスペースがあり、そこに遺体を安置し、白骨化させ、一族の女性によって洗骨し、厨子甕に納めていた。

Nanayuhibira ナナユヒービラ

安謝 (あじゃ) から天久 (あめく) に至る坂の名称。名前は、近接する七与平利田 (ナナユヒイタ")という田んぼに由来する。言い伝えがある。「かつて、広い田畑を有する者が天久村に居り、身売りした7人の主人として、彼らにその田畑を耕作させていた。ある時、主人は、安謝村にある私有の田んぼを7人に与えた。彼らは、これまでにも増して主人の仕事に精を出し、また、時間を作っては自らの田んぼを耕し、収益を上げ、ついには、借金を返済したという。近隣の人々は、大いに感心し、7人に与えられた田んぼを、七与平利田と称したという - 遺老説伝」 ナナユヒービラは、沖縄戦以前は、中・北部と那覇を結ぶ主要道の一部で、製糖期には、砂糖樽 (サーターダル) を積んだ馬車が、那覇の港に向かって列をなしていたという。1945年 (昭和20) の沖縄戦の後、米軍により道幅が広げられ、軍道1号線となり、1972年 (昭和47) の本土復帰後は、国道58号となった。

Rinkaiji Temple 臨海寺

臨海寺は1500年代中期、那覇の港を守るために作られた三重城に渡る長堤の途中にあった。元々は沖宮を管理するために置かれた寺・別当寺だったが、明治時代の神仏分離により、沖宮から独立した歴史をたどる。
海上に在ったその当時の姿は、葛飾北斎が描いたとされる琉球八景の臨海湖声に見ることが出来る。琉球王朝時代は、外国からの来訪者を留め置く逗留所として利用されることもある。明治時代に入り、海側が埋め立てられると、臨海寺は垣花町に移され、その後、沖縄戦で焼失。現在地である曙に場所を移し再建された。
琉球八景の臨海湖声
在りし日の元の臨海寺

Ameku Gusuku Castle Ruins 天久城跡

この地区は天久と呼ばれている。天久按司が治めていた所、小高い丘がありそこにグスクがあったが、遺構は完全に消滅してしまっている。
この丘の麓付近に天久宮と寺があり、丘の半分ぐらいはこの寺が管轄している墓地になっている。中には古い大きな亀甲形式の墓もあり、そこは沖縄県が管轄となっていた。何か歴史的に価値のある墓となるのかも知れない。

Ameku Shrine 天久宮

琉球八社の一つ。隣にある聖現寺に併置の神社だった。開基へ成化年間 (1465年 - 1487年) されている。その伝承がある。”往古、銘刈村 (めかりむら) に翁子と言う者がおり、日々を愉しんで暮らしていた。ある夕方、隣の里の天久野に出て佇んでいると、見れば山上から、気高い女人が威儀の正しい法師を送って下りて来た。山の中腹には、中に泉があって水が流れている小洞があり、二人はそこへ来た。また或る時は、法師が女人を送って山へ上がることがあった。翁子はこれを見て法師に「あなたは何者で、あの女人は誰なのですか」と尋ねた。法師の答えは「私は、ただ此処に住む者で、あの女性は山上の森に住む者です。名乗るほどの者ではありません。」と言うものであった。2人は、ある時は洞の中に入り、ある時は道の半ばで消えるときもあり、これを見るたび不思議に思った。そこで、これを王臣に奏上したところ、国王は諸官人をして虚実を確かめることとした。洞に向かって香をひねって置かせたところ自然に火がついたことから、この話が本当であることが分かり、後日、社殿を造営した。すると「我は熊野権現なり、衆生の利益のために顕現した。女人は国の守護神弁才天なり。」との神託があった。”
写真右下が泊之ユイヤギ御嶽
戦前の本殿
那覇での神社はお世辞にも立派とは言えない。いや、率直にいうと貧相だ。寺も神社も琉球王朝時代は王朝から任命され費用はすべて支給されていた。つまり寺社は政治の一部で、民衆への布教をしたわけではなく、氏子もおらず、政治の一部だった。お詣りする民衆は寺社にある御嶽 (うたき=琉球の神話の神が存在、あるいは来訪する場所であり、また祖先神を祀る場) に詣でるのであって、神社とか寺とかにはそれ程信仰心は無かった。琉球王朝のバックがあると言ったが、それも神社自体を庇護していたのでは無く、そこにある御嶽と任命した女神官であった。なんとなく、沖縄に神社、寺院が極端に少ない理由が見えてきた。

Seigenji Temple 聖現寺と亀甲墓

天久神社を併置していた。寺の裏山には広大な墓地があり多くの亀甲墓がある。
戦前の在りし日の本堂

Tomari Habor 泊港

琉球王国の中心であった浦添や首里と陸続きの泊港は、安里川の河口に位置し、陸路・水路ともに交通の便が良かったため、13~14世紀にかけて宮古・八重山・奄美大島などの船も出入りし、賑わいを見せた港であった。当時、泊には、諸島の事務を取り扱う泊御殿 (トゥマイウドゥン) や、貢物を収納する大島倉が置かれていた。この時代にはここは若狭と呼ばれ、ヤマトンチュの商人が多く住んでをいた。しかし、その後の海外交易の発展にともない、那覇港が王国の表玄関として整備され、泊港の機能も那覇に移った。
19世紀以降、イギリス・フランス・アメリカ・ロシアなど、欧米諸国の艦船が来航するようになると、薩摩藩の在番奉行所などの主要施設が集中する那覇へは入港させず、泊港沖を投錨地とした。これにより、泊港は外国人の上陸地となった。

泊港付近には、フランス人宣教師滞在地、ペリー提督上陸地/外人墓地など欧米諸国との交流を示す史跡が残っている。

泊高橋

泊村と兼久 (前島) を結ぶ橋で、古くは木製であったが、1699年 (尚貞王31年) に石橋に架け替えられた。船が往来できるように3段の階段を設けアーチ部分を高くしたことから高橋の名が付いた。沖縄戦が始まると、敵方に利用されることを恐れた日本軍によって破壊された。戦後しばらくの間はアメリカ軍が設置した仮橋が使われていたが、1952年に新たに架け替えられた。

泊竜宮神

沖縄にはシーサーがどこにでもあるが、ついでに多いのは龍。沖縄の人にとって龍も生活に密着した神様。沖縄では水が貴重だった。大昔の人は水が湧くところに村を造り、水が湧く場所に感謝して、祈りを奉げた。水は川となって海に流れていくので、川を龍と見立てて神聖なものとし、河口を龍の頭と見立て竜宮神を祀った。

ペリー提督上陸地/外人墓地

外国人墓 (俗称ウランダ墓) には中国人、アメリカ人をはじめ、6ヶ国の計22名が葬られている。長い航海で病死したイギリス人水兵や、ペリー提督の船に同乗していた水兵、カトリック宣教師マシュー・アドネ神父も埋葬されている。

Shirakawagu 白川宮

タカマサイ公園の中にこの白川宮がり、宮古島出身の人々の拝所となっている。
宮古島の与那覇勢頭豊見親 (よなはせど とぅゆみゃ) が琉球語を学ばせる為にこの泊に三年間も高真佐利屋と言う人物を派遣した。この高真佐利屋を泊の人はタカマサイと読んだことがこの地名の由来。宮古と琉球は言葉が違ったのだ。宮古は琉球に朝貢していた。琉球が明や清に朝貢していたのと同様に離島に同じようにしていたのだ。
宮古島と沖縄は仲が悪いと言われている。今でも、政治犯などは石垣島に送り、殺人犯や凶悪犯を宮古島に島送りにした。その子孫だとかからかわれる。宮古島には独自の文化があり、沖縄の中に埋没したくないプライドがあるのだろう。それは沖縄の人が日本本土に対しての思いと似ているだろう。もっと強いかもしれない。
地理的には琉球列島は3つに分けられる。動植物に違いがある。地理的に交流ができなかった。それと同じく言語や文化にもそれぞれが独自性を持って発展してきた。地元の人には、それがアイデンティティでプライドの源だ。これは尊重すべきだろう。

仲島の大石 (なかしまヌウフシー)

昔から縁起の良い岩とされており、今でも通りすがりの沖縄の人が手を合わせて過ぎていく。パワースポット!
北斎の仲島蕉園にも描かれている

Remains of Asato Village Shooting Range 安里村射的場跡

今滞在している所から歩いて5分の所にある。陸軍熊本鎮台沖縄分遣隊の射撃訓練場跡。1879年 (明治12) の沖縄県設置を行うにあたり、沖縄に派遣された熊本鎮台沖縄分遣隊は、1890年(明治23)、安里村に練兵場・射的場を置いた。分遣隊派遣終了後は、練兵場は学校用地 (現大道小学校)に、射的場は在郷軍人等の演習に使われた。沖縄戦後、一帯は学校や住宅が建ち並ぶが、まっすぐに延びた公園や練兵橋の名に当時の面影が残されている。

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