Ride in Setouchi & San-in Day 113 (6/7/19) Fukuchiyama Castle Ruins 福知山城跡
Fukuchiyama Castle Ruins 福知山城跡
御霊神社
Izagi Castle Ruins 猪崎城
今日は天気が不安定なので宿のある福知山市内の見学とする。福知山の観光案内を見たが、市内には福知山城以外にはこれといった観光地はなさそうだ。まずは福知山城に行ってみる。
Fukuchiyama Castle Ruins 福知山城跡
丹波国を平定した明智光秀が亀山城と共に築城し、現在のような縄張りはその時のもの。福知山城が明智光秀の築城とは知らなかった。坂本城は光秀の居城として知られているが、丹波にも城を造っていたのだ。まだまだ知らないことが多い。築城は光秀ではあるが、ここを居城としたわけではなく、女婿の明智秀満を城主とした。秀満は光秀の娘で有岡城の荒木村重の嫡男の村次の妻であったが、村重が織田信長を裏切ったときに離縁させ、当時は三宅姓を名乗っていた (異説あり) 秀満 (光春と同一人物との説があり、錦絵は光春) と妻わせ、秀満が明智姓を名乗るようになったと言われている。
江戸時代には福知山藩の藩庁であった。城跡は天守がある本丸とその周りが福知山城公園となっている。非常に狭い城跡で、見学はこの本丸天守のみしか無い。残念なことに当時の城の規模が判るような構成にはなっていない。街中に所々当時の城の縄張りの立札があるのみ。案内板にもこの城の縄張りについては触れておらず本丸天守のみの紹介だけだ。本丸も現在工事中で見学ルートが限定され、自由に歩き廻れないのは残念。明治の廃城令で破却された三重三階の大天守と二重二階の小天守が1986年 (昭和61年) に鉄筋コンクリートで復元され、福知山市郷土資料館の施設となっている。独特の作りで、日本の城の美しさを十分に表現している。
三重四階建ての大天守と北側に二重二階建て小天守 (右上、左下)。南側には重二階建て菱櫓 (左上)。
天守閣最上階からの風景
興味深いのは、野積みの石垣に500もの五輪塔や宝篋印塔などが使われている。これほど目立つように使われている例は珍しい。なぜこの様なものを使用したのかには諸説ある。工事を急ぐあまり、石が足りずに使用した説。城を守ってもらうためその加護の為に使用した説。色々調べたが、この事については触れられているものがあまり無く、事実のみの記述となっている。この様な解説書には少し不満がある。何故と言う疑問を意図的に無視しているように思える。
公園入口には隅櫓風城郭建築様式の福知山市佐藤太清記念美術館がある。郷土の芸術家だそうだ。
東から西に流れる由良川が天然の堀となっており、北側には土師川と合流する台地に城が築かれている。この川は頻繁に氾濫し、民を苦しめたと言う。明智光秀は築城と同時に城下町の整備を開始し、川の流れを変え、明智藪と呼ばれている水害対策で造営した堤防も残っている。
先にも触れたが、観光地となっているのは本丸部分のみ。市内を自転車で走り、城跡の痕跡を探してみる。地図上に伯耆丸公園というものがあった。これは明らかに城の一部の名前だ。行ってみよう。城の縄張り図にも伯耆丸は出ている事に気がついた。城跡は公園とは言われているものの、今は殆ど誰も利用していない様に見える。誰も訪れないのだろう。一部は福知山市役所となっていた。ここから見える福知山城本丸は見応えがある。もっと観光地として、本丸とセットで整備すれば良いのにと思う。
伯耆丸から見た本丸
本丸から見た伯耆丸
そのほかに見つけた城跡の名残り
② 内榎原門 - 城下町から大膳丸、丸の内への入り口。入った所には牢屋があった。
③ 京口門と番所 - 外堀の城への入り口。由良川沿にある。出入りはここにある番所でチェックされていた。
① 清水口門 - 伯耆丸を囲む西の丸の城下町に面した外堀の門。城の最南端にある。
藩校のあった場所はアーケード街の中。ほとんどの店がシャッターを下ろしている。誰一人歩いていない。人の流れは大型店舗のある福知山駅周辺に集中し、昔の城下町近辺は寂れている。ひと昔はこの城下町地区が中心だったと知り合った地元の人が言っていた。
福知山も人口減少に歯止めがかからない。
このポスターの意味することは?何か大きな問題を抱えているのか? 2006年の平成大合併の事を示しているのだろう。大江町・三和町・夜久野町を合併して人口が一次的に8万人を超えたが今は8万人を割っている。「失われた時」とはかなり過激な表現を使っている。何のことか地元の何人かに聞いてみたが、人口減少のことじゃ無いかとそっけない答え。このポスターは政治団体が出しているので、政治的思惑もあるので文字通りには受け取れないが、これが市民に刺さると思って使っている以上、市民もぼんやりとは感じていることなのだろう。
この城の歴史だが、元々は小笠原長清の末裔とされる福知山地方の国人塩見頼勝が、八幡山の脇に土塁中心の砦形式の掻上城 (後に、横山城) を築城したのが始まり。戦国時代、明智光秀は、織田信長の命で丹波国征討戦を開始、赤井直正・波多野秀治連合軍と戦っていた。塩見信房は赤井・波多野連合軍に加担。赤井直正の黒井城、波多野秀治の居城八上城が翌天正7年 (1579年) に落城し、横山城も落城し、この横山城を改修し、福知山城となった。光秀の丹波攻略も追いかけてみたいテーマだ。鬼ヶ城、黒井城、八上城、亀山城には行ってみたい。(坂本城は一年ほど前に訪れたが、山城、近江は少し長く滞在してじっくりと見てみたい場所だ)
御霊神社
福知山での明智光秀の人気は高い。ここでは神様になっていた。明智光秀は領民に対しては善政を行った事で有名だ。謀反が無ければ、悪役ではなく名君として歴史に残ったであろう。この神社は1737年4代藩主 朽木玄綱の時代に造られた。僅か3年しか光秀はこの地の領主でしかなかったが、彼の福智山での影響力はその後の藩主よりはるかに大きい。それが今も続いている。よっぽどの人物であったのだろう。
Izagi Castle Ruins 猪崎城
福知山城跡から由良川を挟んだ対岸、猪崎の地に築城された城。 福知山城の前身の横山城 城主塩見頼勝の三男利勝が城主であった。横山城の陥落とともにここも落城。福知山城の前身の横山城の資料からこの城のことを知り来た次第だ。
城跡の保存状態は極めて良く、曲輪跡、土塁跡、空堀跡が綺麗な形で残っている。これほどまでに中世の山城の形が観れる城跡にお目にかかったのは初めてだ。ほとんどの城跡は藪や林に覆われており、その形を捉えるのは難しい。ここに来れば当時の山城の構成が一目瞭然だ。福知山市や市民の努力の賜物と思う。市民が歴史を大切にしているのがここに現れている。
小高い山に城跡がある
入り口から主郭へ向かう道。何段にもなった曲輪跡がはっきりとわかる
主郭は、格段に広い。空堀と土塁で取り囲まれており、入り口方面とは反対側にも曲輪が何段にも残っている。色々なところを歩きたいと思い曲輪の先まで行こうと空堀や土塁を超えていた時に、足が滑り、片足に全体重がかかり捻挫してしまった。足首を捻っての捻挫では無いので、痛みはその時暫くだけだったが、捻挫は翌日が最も重くなる。明日歩けないほどであれば重症、痛みはあるが歩ければ軽傷だろう。明日の様子見になる。軽傷でも、数日は、おとなしくしていなければならないだろう。
この城からは川の向こうに福知山城 (この城の時代は横山城) が見える。狼煙で互いに連絡を取っていたのだろう。馬で走れば10-20分の距離だろう。明智光秀が横山城を攻めていた様子はここからはっきりと分かっただろう。この城も取り囲まれていたのだが...
この城跡は個人的には福知山城よりも気に入っている。福知山城は復興天守だけが売りで、本当の城郭の雰囲気が伝わって来ない。それにひきかえここは建物はないのだが、城郭がはっきりとわかり、当時の様子が目に浮かぶ様でワクワクさせてくれる。大河ドラマブームに乗ろうとしているのであれば、この城跡もセットにして観光地化してほしい。福知山市の観光案内には出ていない。この猪崎にも古い建物が残っている。明治時代には福知山城の近くの遊郭街が川が氾濫し消滅し、この猪崎に遊郭街を移し、当時は賑やかな街であった。まだ当時の建物が残っているらしい。観光資源は多くあるのに、ストーリー化出来ていない。残念だ。
猪崎城からおりてきて、自転車を停めていたところまで来た時に、青年から声をかけられた。京都大学に入学して自転車サークルに入ったという。自転車を見て、話が聞きたくて声をかけてくれた。小雨の中だったが、30分ほど、日本一周の旅のこと、どんな感動があったか、自分の若い時の失敗とかいっぱい話した。同じ様に自転車で旅行してみたいと言っていた。少し不謹慎かも知れないが、休学してやってみなさいと勧めた。大学を数年遅れて卒業する事は就職には不利にはならない。レールの引かれた大学生活から、少しの期間でも外れて、自分で道を探すことは人生にプラスと勝手なことをほざいてしまった。でも今でもそう思っているので、誰にでもそう言うだろう。現に今はそうだ。
話が終わってこの青年とは別れたが、少しでもワクワクしてくれていればと思う。帰り道に、この青年にすれ違う、大きく手を振ってくれた。まだ18才、失敗をいっぱいして大きく成長して下さい。
と思ったが、人のことより、明日の足の状態はどうなっているのだろう。何とかなるだろう。
6コメント
2019.07.13 01:34
2019.07.12 05:29
2019.07.11 23:33