Ride in Setouchi & San-in Day 102 (25/6/19) Miki Castle Ruins 三木合戦 [4] 秀吉軍付城

第2期 付城
  • 法界寺山ノ上付城
  • 朝日ヶ丘土塁
  • 高木大塚城
  • 高木大山付城
  • シクノ谷峰構付城
  • 明石道峰構付城
  • 小林八幡神社付城
第3期付城
  • 八幡谷ノ上明石道付城
  • 三谷(箕谷)ノ上付城
  • 二位谷奥付城
法界寺

第2期付城群

この第2期に築かれた付城群は比較的整備されていて、市のハイキングコースにも紹介されている。法界寺に自転車を留めて徒歩で明石道峰構付城までを往復する。草が刈った直後の様で道は比較的歩きやすい。ただ、途中、道が決壊して通れない所があったが、表示は無く、無理矢理、道を外れて、案内書のコースに向かうが、途中に急な坂を突っ切る時に滑り転倒、傷だらけになった。
見つかった付城跡は文献で分かっている数の半分で、この第2期付城群ももう少しあったのかもしれない。歩いた後の印象は、丘陵の尾根にあまり長くない間隔で付城がある。付城間の移動も時間はかからない。其々の付城の間には土塁が作られた兵がぎっしりいただろう。これでは南からの援軍は三木城まで到達するのは至難の業。援軍は毛利からになるが、文献では毛利が援軍を送った様にはなっていない。兵站については兵も付けて三木城に送っていたが、戦闘要員の援軍は来ていない。これは毛利に援軍の意思が無かったか、それとも余裕が無かったか?個人的な推測は、備前、備中でも戦闘があり余裕が無かったのと、まずは足元が優先度が高く東播磨には手が回らなかった。兵站だけは支援し、毛利側にキープ出来るようにしたと思う。これは織田も同じで、優先度により兵力の投入先は変わる。時期を同じくして戦っていた上月城は三木城攻略に兵力をシフトして見捨てられた。

法界寺山ノ上付城

ここは案内書板もあり良く整備されている。比較的大きな城跡。主郭と副郭が残っている。

朝日ヶ丘土塁

長く続く丘陵の尾根に土塁跡がある。ここでの戦闘を想定していた様だ。数ヶ所形が残っている。
ここからは三木城が臨める。中央の高いビル(市役所)の後ろの小高い山が三木城。その後ろの山に第1群付城の西があった。三木城を挟む形になっている。

高木大塚城

三木合戦の際に前田利家が古墳を利用して築城。保存状態がよく、土塁や虎口が残っている。三木には多くの古墳があり、日本では最も多く古墳が作られた地域だった。三木は江戸時代に入るまでは、播磨の第一の街で最も栄えていた。改めて、別所氏の想像以上の歴史に触れた。
遊歩道に「馬優先」の表示があった。怪訝に思っていると、馬術場に着いた。成る程。三木ホースランドパークで公園にもなっている。ただ、馬は一頭も見なかった。馬術競技が月に2回から4回行われている。乗馬レッスンもやっている。キャンプ場や宿泊所、レストランもある。広々とした気持ちの良い公園。
ここで昼休み。木の陰で空をボケーと見ていた。今日も暑い。

高木大山付城

ホースランドパークの馬術場のすぐ隣に付城跡がある。土塁がはっきりと分かる。誰が布陣していたかは不明。

シクノ谷峰構付城

ここもホースランドパークの近くにあり、良く整備されている。布陣していた武将は不明。

明石道峰構付城跡

誰の陣跡かは不明。バードゴルフ場になっている。

小林八幡神社付城

誰の陣であったかは不明。神社の裏に土塁跡がある。

第3期付城群

八幡谷ノ上明石道付城

間島彦太郎/福原右馬之助の陣  付城跡は丁度尾根に沿って三つ見つかっている。今は歴史の森公園になっているが、遺構がある場所は高台にあるので手づかずで残っている。表示は全くないのだが、現地に行くと、付城跡とわかる様な加工したであろう平坦地、土塁が残っている。ただ、3期の様には整備も表示もないので、鬱蒼とした雑木林のままである。
A

B

C

三谷(箕谷)ノ上付城跡

糟屋内膳の陣 現在はどうも主郭か曲輪跡の平坦地を活用したバーベキュー場になっている。周りの土塁跡ははっきりと残っている。

二位谷奥付城跡

浅野長政/一柳小兵衛の陣。3ヶ所から付城跡が見つかっている。場所は大体の所は見当はつくのだが表示も無く、入り口も見つからない。この辺だろうというところの写真を撮った。
A  ここは焼肉屋になっている。第3期の場所は公園や学校や住宅地になっているので、史跡として保存するのは難しいのかも知れない、

B

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法界寺

別所長治の菩提寺で、城主別所長治が自刃したときその遺体を埋めたと伝えられる。三木市民の別所長治への想いは今も続いており、命日の4月17日には法要が行われる。この法要の時には三木合戦軍図絵解きがおこなわれる。それにも法要の様子がえがかれている。正式には「三木合戦軍図絵解き 附 軍図3幅2組」と呼ばれ、江戸初期のものと推定されている。絵解きが始まったのは長治の100回忌ぐらいからではないかと推測されている。絵解きとは絵図を示しながら物語を講じる伝統行事で民俗芸能と考えられる。単に合戦図を説明するのではなく、独特の言い回しで講談調で講じていく。代々口伝えに伝わっている。これが何百年も続いている。三木の人達の想いがわかる。この絵解きという民俗芸能は殆どが仏事の物で、合戦絵解きは日本ではここと愛知県知多郡の大御堂寺の2ヵ所だけと言う。毎年法要への案内状が来ているのだが、行けたことがない。祖母と母と一緒にここにきた時には住職が特別に絵解きをしてくれた事を覚えているのだが、今回の旅行で日程に組めばよかったと後悔している。いつか参加してみたい。
合戦図の中には長治の法要の様子が描かれている。
境内には別所長治の墓、殉死した家臣の墓がある。

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