Ride in Setouchi & San-in Day 101 (24/6/19) Miki Castle Ruins 三木合戦 [3] 秀吉本陣跡

三木城 (昨日からの続き)
  • 宮ノ上要害
  • 鷹尾山城
  • 新城 [訪問は6月26日]
  • 平山丸 (正入寺) [訪問は6月26日]
第1期 付城
  • 秀吉本陣 (平井山ノ上付城)
  • 竹中半兵衛陣所 (平井村中村間ノ山付城)
  • 竹中半兵衛墓
  • 慈眼寺山ノ上付城跡
  • 跡部村山ノ上付城
  • 加佐山城
  • 平田村付城
  • 大村山ノ上付城
慈眼寺
常厳寺 (赤松円心墓所)
弁慶の足跡


昨日は午後から全ての時間を地元の人との話に費やしたので、三木城本丸、二の丸止まりだった。予定していた他の城跡には行けなかったので、今日は三木城の残りの場所と、秀吉勢の付城の第1期分を巡る。
別所の守りの要は城の南の宮ノ上要害、新城、鷹尾山城でこれらを落とされると三木城本城のみとなり窮地に立たされる。

宮ノ上要害

三木城の支城の一つ。三木城本丸の南側をこの要害と鷹尾山城で、背後の防御性を高めている。三木合戦では岡村氏が守備していたが、天正8年 (1580年) 1月7日に織田方に寝返った。三木城陥落が1月17日なので、10日前の出来事だった。家臣や兵の疲弊度合いは極限に達していた事は想像出来る。籠城した7500人のうち1200人が餓死したと伝えられている。岡村氏が寝返ったのも悩み抜いてだろうから、責めるわけには行かない。要害跡と言われている場所は広く、麓は大宮神社や墓地になっている。
上の地図の八幡山にあった宮ノ上要害の南側 (上の地図では右に当たる) には、第3期付城が谷間を挟んで構築されていた。第2期付城の半年後の翌天正7年 (1579年) 10月に造られた。落城が翌年の1月なので2〜3ヶ月前に作られた事になる。もうこの時点では、毛利からの兵站は完全に途絶えていたので、第3期の付城は最後の詰めのためであっただろう。それは三木城にいる別所勢も感じていただろう。第3期の付城が完成してからは三木城内で打って出るか、籠城を続けるかの議論がなされていただろう。悲壮感が増していたことは確かだと思う。言い伝えでは、城内の者は飢えをしのぐ為に、牛や馬も食べ尽くし、草や木の根、木の皮を囓った。それもなくなると、虫や蛇、鼠を捕らえて食べ、果てには壁土の中の藁まで口にしたと言う。

鷹尾山城

この跡地にには市役所、図書館など公共施設が建っており、遺構は大部分が消滅しているが、一部残っているところが公開されている。土塁、空堀後は確認できる。三木合戦で別所長治の弟の別所友之がこの城を守るも、天正8年 (1580年) 1月11日に落城。この4日前に、隣接する宮ノ上要害の岡村氏の寝返りで敵に囲まれる形となったのが落城を早めたのであろう。この後、降伏勧告の運びとなる。
この鷹尾山城を守っていた別所友之は落城の時に、残りの兵を率いて三木城に退却をし、兄の長治と共に自刃する事になる。友之は17歳の妻を先に刺殺し、兄の脇差で切腹自害した。享年21であった。妻は妊娠していたが、当時の習いで涙ながら死んでいった。死んだあと赤ん坊を取り出して、埋葬してくれるように頼んだと言い伝えられている。なんとも悲惨な最期だ。辞世の歌が残っている。友之「命をも おしまざりけり梓弓 すゑの世までも名の残れとて」 妻のは「たのめこし 後の世までに翅をも ならぶる鳥のちぎりなりけり」。
鷹尾山城大手門の合戦様子
鷹尾山城が落城したのちに秀吉はここに移り、三木城の別所長治に降伏勧告をしたと言われる。この後、長治からは切腹と引き換えに城兵と民の命の救済を求め、秀吉は受諾したと言われる。何百年も前のことなので、事実は不明。文献によって食い違いがある。切腹は秀吉が要求したというものと、長治側が申し入れたというもの。まあ、ここのところはどちらであっても、切腹になる事は間違いない。推測だと、秀吉側からだったと思う。娘まで殺したところを見ると秀吉側からだったのではないかと思う。

新城 [訪問は6月26日]

ここには別所長治の叔父で執権をやっていた吉親の居城であった。現在は住宅街になっている。天正八年 (1580) 1月11日、鷹の尾城に続いて新城も陥落。秀吉勢は三木城本丸、二の丸に迫っていた。吉親は三木城本丸に撤退。
この時吉親の妻は「われは女の身であれど、三木城もすでに落城近からん。一族残らず死ぬる覚悟なれば、最期のいとまごい矢ひとつ参らすべし。」と大声で叫ぶと矢倉にかけのぼり、攻めあげてくる敵に次々に矢を射かけ20人余りがたちまちに眼下に射落とされた。弓を捨てた吉親の妻は、今度は愛馬にまたがると新城の門際まで迫った敵兵に斬り込んで孤軍奮闘めざましい活躍をしたという。

平山丸 (正入寺) [訪問は6月26日]

今はここに江戸時代の三木城主伊木氏の菩提寺である正入寺が建っている。三木合戦の時は、長治の弟の別所小八郎治定の居館跡。天正7年 (1579年) 2月6日平井山合戦で討ち死にをしている。詳しくは平井山付城の部分で掘り下げる。
お寺に着いた時に、草抜きをしていた男性に挨拶をし、墓の場所を聴くと、そこの住職だった。作業を中断して、墓まで案内をしていただき、更に本堂にある本蔵の裏まで連れて行ってくれて、江戸時代の三木城 城主の池田と伊木、そして徳川将軍の位牌を見せてくれた。暫く世間話をし、コーヒーをご馳走になった。

第1期 付城

秀吉は三木城攻めのために多くの付城を築いている。三木城跡を取囲む形で東西約6km、南北約5kmの範囲に所在している。付城は約40ヵ所築かれたと考えられているが、遺構が確認できたものは23ヵ所、現存しているものは20ヵ所。構築は3期に分かれている。第1期は天正6年 (1578年) 7月末から8月中旬に織田信忠が三木城の北から東に築く。これは高砂城、野口城、神吉城、志方城など支城を落とした直後になる。第2期は翌天正7年 (1579年) 4月に、今度は三木城とその支城である宮ノ上要害、新城、鷹尾山城の南に築き、三木城の包囲網が出来る。3期は同年10月に2期の付城群の更に内側に築き、三木城包囲網が狭まる。もはや兵站ルートは絶たれ、ここから城兵の疲労、特に飢えが増す事になった。三木城跡に秀吉の包囲網図があるが、これを見ると絶望的な戦いで、別所をいたぶっているかの様だ。

秀吉本陣 (平井山ノ上付城)

羽柴秀吉が本陣とした付城。美嚢川と志染川の間の南西に面した山上に位置し、南西に三木城を望むことができる。三木城とは2kmの距離。
登り口から、はじめは急な階段、登りきるとほぼ平坦な尾根沿いの道で主郭へと続く。太閤道と呼ばれている。
主郭
ここからは三木市中心部が殆ど見ることが出来る。当時はビルなど高い建物が無いので、戦況が手に取るように見えたであろう。
陣跡なのだが、立派で広く堅牢な山城に近い。階段状の曲輪がいくつもある。これでは別所勢も、付城内部まで侵入する事は難しいとの印象を持った。
大手門まである。
[平井山合戦]
天正6年 (1578) 7月、織田信忠が築城。8月に羽柴秀吉が書写山から本陣をここに移す。この二ヶ月後の10月17日に織田としては予想もしていなかった事が起こる。荒木村重が離反をしたのだ。村重は秀吉と共に上月城に援軍として赴いていたが、信長の播磨攻略を優先する命令で上月城を見殺しに撤退した。それが6月24日で7月5日には上月城が落城し、尼子勝久と尼子氏久は切腹。村重はこれに動揺したのか、足利義昭、毛利氏、本願寺顕如と通じて、信長に反旗を翻した。これで、荒木村重の摂津国と連携して秀吉を挟撃に出来ると別所は想定していたと思われる。更に御着城の小寺政職も反織田を表明。この時期に播磨は一挙に反信長となる。しかし、10月に毛利側であった宇喜多直家が織田に鞍替えをした事により毛利はその対応に追われていた。当面毛利の援軍は期待できないとも思ったかもしれない。荒木村重の離反で別所にとっては新たな兵站ルートができる。のちにこのルートは秀吉勢に発見されて、遮断されてしまうのだが... (インターネットによくわかる図があった。青が反織田、赤が織田軍、緑が新たな兵站ルート)
この状況下で、別所は直ぐに動いた。10月22日に長治弟の別所治定率いる別所軍が襲来、平井山合戦が繰り広げられたが、治定らが討死し、戦死者800人という別所方の大敗北となった。別所軍は四月に各支城の兵が終結した時には7500であったので、1割以上の兵を失った事になる。この秀吉本陣を歩いてみたが、高台にあり、かなりの広さであった。秀吉の方からは別所軍の動きが手に取るようにわかったであろうし、ここのいるのは天才軍師の竹中半兵衛で別所軍は不利な戦いであった。
翌年天正7年 (1579) 2月6日に、別所軍はもう一度この付城を攻めているがその時も失敗に終わっている。

竹中半兵衛陣所 (平井村中村間ノ山付城)

軍師ということで、秀吉本陣跡の隣で数分で移動できる距離にある。主郭は狭い。軍師なので、この陣を塗れるだけの最低限の兵しかいなかったと推測出来るので、この広さでも十分だろう。

竹中半兵衛墓

胸を病んでいた半兵衛は秀吉の勧めで京都にて療養していたが、戦局の硬直していることが心配で、三木に戻って来るが、天正7年 (1579) 6月13日に息を引き取る。36才の短い生涯。小説でしか知らないが、誠実で天才肌の人物の印象を受けた。恐らく、死期は悟ったうえで、戻って来たのだろう。半兵衛らしい。ここには遺骨は埋葬されていないと言う。(遺骨の所在は不明だったらしい) 遺骨を埋葬した所はここから数十キロ離れたところで、この墓を作って随分経った後に見つかったとボランティアガイドさんに教えてもらった。

慈眼寺山ノ上付城跡

慈眼寺の北西背後に聳える標高148mの山に築かれた。有馬法印則頼が守っていた。(この有馬氏も赤松氏から出ている)
秀吉本陣が臨める。
三木城も見える

久留美村大家内谷ノ上付城

標高76m付近に築かれており、加藤光泰が布陣。

跡部村山ノ上付城

写真の山の尾根先に仙石秀久が布陣をしていた。その直ぐ下の田圃あたりには織田七兵衛信澄が陣を構えた跡部山ノ下付城がある。

加佐山城

杉原家次が陣を敷いた。三木SAの辺りに築かれていたが、遺構は完全に消滅している。
サービスエリアにあった三木合戦のポスター。城を観光にしているところで最近はこの手のアニメを使ったポスターが流行っている様だ。よく見る。対象を若者に絞っているのだろうか?アニメを使った理由が知りたい。歳をとったせいかアニメのポスターには馴染めない。錦絵の方が良いと思うのだが....
ここは高速道路サービスエリアは山の中にポツンとあるせいか、たぬきに遭遇。じっとこちらを見つめて逃げない。SAに来る人を毎日見ているので人を怖がらないのか? 最近はよく野生動物に会う。アライグマ、狐、まむし、そしてたぬき。

平田村付城

平田村付城の城主は吉田庄左衛門と伝えられている。ここで大村合戦があった。
三木城の別所から食料が尽きたとの知らせで、天正7年 (1579年) 9月9日深夜、三木城への兵糧搬入を試みる毛利方は数百人で護衛した兵站を加古川を通って三木まで運搬してきた。城内への搬入路に当たるこの平田砦は谷大膳が守っていた。そこで、日が変わった10日に三木城内 (この時点で別所には7000の兵が残っていた) から別所吉親率いる3000の兵が谷大膳の平田砦を急襲する。平田砦の秀吉勢は大敗で谷大膳は討ち死。
秀吉は平井山からすぐさま、援軍を発し、また三木城側からの援軍が出動して、両軍は再び、平田山、大村坂、加佐の一帯で大激戦となる。 今度は多勢に無勢の中、別所軍が大敗し、大将格73人、士卒800余りが討死してしまう。 この大村坂の合戦以後、別所軍は戦意を喪失し、淡河城から入城した弾正定範一族が悲観して自害してしまう。 以後も、毛利軍は度々、三木城への搬入を試みるも、部隊の大半は阻止され、捕縛されてしまう。

大村山ノ上付城

大村山ノ上付城の城主は吉野大膳、三田新兵衛、前野長康と伝えられ、第一期に築かれた陣城群の一つと考えられている。この陣からも平田/大村合戦に参加したのだろう。
ほぼ完全に兵站の道が閉ざされて、三木城内は餓えに苦しむことになる。定説では食べれるもの、いや、普通は食べないものまで食する様な悲惨な状態にまで行ったという。これが「三木の干殺し」と呼ばれ、日本歴史上最も残酷な籠城攻めだった。この三木で郷土歴史家の福本錦嶺氏の意見は食料はまだ城内に豊富にあり、飢えなどは無く、降伏も食料が尽きる前だったという。根拠は資料などに基づいているわけではなく、本人の論理的な展開でそう結論づけている。彼の論によれば籠城攻めは飢えが始まる前に戦うか、降伏するかで、それをしない城主は馬鹿だ。別所長治は名君故、餓える様な状況までにはしていないという。少々乱暴な展開と思う。もともと、城を拠点に戦いをするために、7500の兵とプラス住民を集結させたが、この時にどれだけの食料を備えれば良いかは単純に人数かける期間だ。2年分を用意していたなら彼の論は筋が通るが、果たして2年もの蓄えがあっただろうか?4月から合戦が始まっているのだから、2年間収穫ができなかった。多くの支城からも来ているので、人口が倍にはなっているだろうそうすると、通常三木城下でまかなう4年分の食料が必要であっただろう。そんなに蓄えがあっただろうか? 2年も籠城が続くと思っただろうか? まず2年の籠城を想定して戦争を仕掛けるわけが無い。籠城は秀吉が仕掛けたもので、別所側は援軍を待つ籠城戦を想定はしていなかっただろう。秀吉の攻城戦を想定していたと思う。しかし、通常より長く蓄えてはいただろう。別所が急に元気が無くなったのはこの大村合戦の敗退からと思う。この大村合戦が兵站を運び入れるための戦争だったこ事を考えれば、兵站に困っていた事は確かだろう。淡河弾正定範がこの大村合戦で自刃したのもその表れと思う。彼は戦局を変えるにはこの大村合戦に勝たねばならない、負ければ明日はないとの覚悟だったのだろう。この戦いに賭けていたからこそ、希望が絶たれ自刃を選んだ。(この後、淡河城に行けるかどうか分からないが、) 淡河城での戦いでは竹中半兵衛顔負けの奇策で羽柴秀長に勝利した人物。やはり、三木合戦で、この大村合戦で兵站を絶たれたのが別所としての致命傷になったと思う。

慈眼寺

この寺が三木合戦に所縁と言われるのは、ここにある釣鐘。秀吉が本陣を書写山から平井山に移し、移動の際にこのつりがねを見つけて持ち帰ったという。合戦では裏山の有馬法印の人で陣鐘として使われていた。
鼠小僧次郎吉の墓が何故かここにある。何故だろう?

常厳寺 (赤松円心墓所)

ここは赤松円心が弟の別所敦光が旧城を再築した時に建てた寺。赤松円心の墓がある。三木合戦では別所の軍の一部をここに置いていたので、秀吉軍に焼き討ちにあった。

弁慶の足跡

こんな所に義経に関わるものが?と思うのだが、勿論、弁慶の足跡などは疑わしいが、三木は義経が木曽義仲を打ち、今度は平家を討つため一の谷に向かう道の途中にあたる。それで伝説が残っているというわけだ。旅をしていると色々な所で義経/弁慶に関わると言われている場所にお目にかかる。それだけ人気があるのだろう。

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